有限会社なか(新宿割烹 中嶋)代表取締役 中嶋貞治氏 | |
生年月日 | 1956年5月29日 |
プロフィール | 東京都渋谷区広尾で生まれる。祖父の中嶋貞治郎氏は、魯山人氏が経営する「星岡茶寮」の初代料理長。祖父同様、京都で修業したのち、父、貞三氏の跡を継ぎ、「新宿割烹中嶋」へ。名店の2代目店主となり、店を育てる一方で多彩な活動を展開。TVにも多数登場し、著者も多い。店主を務める「新宿割烹中嶋」は、東京を代表する割烹料理店の一つとして、ミシュランから7年連続で星を獲得している。 |
主な業態 | 「新宿割烹中嶋」 |
企業HP | http://www.shinjyuku-nakajima.com |
中嶋は、1956年5月29日、東京都渋谷区広尾で生まれる。祖父の中嶋貞治郎氏は、あの北大路魯山人氏に認められ、魯山人氏が経営する「星岡茶寮」の初代料理長を務めた人である。1931年(昭和6年)、銀座に割烹「中嶋」を創業。
一方、「新宿割烹中嶋」は、1962年(昭和37年)に貞治郎氏の三男であり、中嶋の父、中嶋貞三が、独立・開業した店である。
中嶋は1956年生まれだから、6歳の時のこと。
少年中嶋は、料理人よりも野球選手に憧れた。王、長嶋世代である。TVにくぎ付けになり、まだ広場が残る東京で草野球にこうじた。
ところで中嶋が8歳の時に東京オリンピックが開催されている。TVが白黒からカラーになり、街もまた装いを新たにする。
少年、中嶋にとって、時代の移り変わりはどのように映ったのだろう。広場は、次第に姿を消していく。その様子を、目を丸くして見詰めていたかもしれない。
中学生になった中嶋は、さっそく野球部に入りキャッチャーを務めるようになる。
強肩で、快速のキャッチャー。
当時の「日大三高」の野球部監督に地肩の強さと足の速さを見込まれ、推薦で進学。プロ野球選手が、現実味を帯びてくる。
なにしろ「日大三高」といえば当時から甲子園の常連校。中嶋の世代も、春に甲子園の土を踏んでいる。
中嶋によれば、1学年400名の在校生のうち150人が野球部という時代だったそうだ。しかも、中学時代には、それなりの実績を残した生徒たちが三々五々とあつまった結果である。相手プレーヤーと戦う前に、自軍の選手と戦わなければならなかった。レギュラーになれるのは、たった9人。
最終学年になるまでに、大半がドロップアウトし、結果的には150名が20名ぐらいになったという。中嶋もドロップアウト組の1人だった。
「打ちっぱなしに行ったことがきっかけで、ゴルフに魅了され、野球部からゴルフ部に鞍替えした」そう。もっとも退部の直接的な原因は、ヘルニアを患ったことだった。
「バイトと言えば、打ちっぱなしのゴルフ場でやったことがある。しかし、ボール拾いをせずに、ボールばっかり打っていたので、ついには首になってしまった」と笑う。
野球部はドロップアウトしたが、学業は放棄しなかった。文科系のなかではトップの成績を収め、京都大学を受験している。実際に合格し、進学したのは京都産業大学、法学部。高校を卒業する頃には、野球よりすっかりゴルフに魅せられていた。
「京都産業大学」は、京都市北区にある大学である。賀茂川沿いに上がっていくと、着く。風光明媚なところではある。「もともと祖父が京都伏見の出身なんです。それで京都へ。もっとも私は料理とは無縁の、体育会系のゴルフ部に入り、そちらに熱中します」。
隔世の感である。しかし、中嶋もまた祖父同様、京都で料理の修業を開始する。それはもう少し先の話になるのだが。
「大学3年生の時、父が他界します。進路を大学の恩師に相談したところ、『大学に来ていないんだから、辞めればいい』と厳しくもあたたかいアドバイスをもらい、退学を決意しました(笑)。入学当時は、ジャンボ尾崎のようなプレーヤーをめざしていたんですが、父が他界したことで、現実をみるようになったんだと思います」。
いずれ東京に戻るつもりでいたが、それを先の話として、ひとまず京都で修業先を見つけてもらい、3年働いている。
修行時代の話も聞いた。
「当時は、厳しい時代だったと良く言われますが、私は怒られた記憶はないんです。幼い頃から料理という世界に慣れ親しんでいたから、何をするにも次の次が読め、段取り良くやることができたからかもしれません」。
庖丁を研ぐのも、巧かった。
これは大事なことで、日本料理には、「割主烹従」という言葉がある。「烹る(煮る、焼く)」より、「割く(切る)」ことが主となるという、料理の姿勢を現した言葉だ。ちなみに、「割烹」という名も、この言葉に起源がある。
そういう意味でいえば、包丁を研ぐことは、料理に基本中の基本といえるのだろう。中嶋は先輩たちの包丁も、預かり、それを嫌な顔をせず研いだ。
少しずつではあるが、中嶋のなかに眠る祖父の血が、姿を現すことになる。
大学を中退し、3年間修業し、帰省する。跡取り、独身。ということも油断を誘ったのだろう。「結婚するまでは遊んでいたどうしようもない息子だった」そうだ。そういう意味では結婚が一つの転機となった。奥様と2人、店にでた。とはいえ、店でトップというわけにはいかなかった。
「10年ぐらいですが、私のうえに板前がいました。いずれ私が店を継ぐとみんなわかっていましたが、そう簡単に老舗ののれんを背負うことはできませんでした」。
それもまたいい修業になったのではないか。いっきに羽ばたくことがなかった、雌伏の時が、中嶋を本来の料理人に仕立てた気がするからである。
料理という華やかな世界の根底に何があるかを中嶋はちゃんと知っている。野球でもそうだが、華やかなプレーの裏には、反復して繰り返される地道な練習が存在する
。
それを抜きに、一流のプレーは生まれない。
「うちは代々、汚い仕事がダメなんです。庖丁も1回、切ればしっかり拭く。『整理整頓』、が祖父の代からの教えなんです。料理だけの問題ではありません。『脚下照顧』という言葉(足もとに気を付けよという意味。自己反省を促す語でもある)がありますが、料理人は、自身の足下に気付けないようでは、大成することができないのです」。
中嶋家の「秘伝」の技は、人間に切り込んでいる。設備の「高い・安い」、「古い・新しい」は、料理には影響するかもしれないが、料理人を育てるうえでは関係がない。濡れたものを「まめ」に拭くことができるかに、かかっているということである。
たしかに、きれいにみがかれたカウンターを観るだけで、我々は、うっとりする。そこに料理人の清れんな魂を観るからだろう。
ただし、これらは心がけでカバーできるようにも思える。その点も伺ってみた。
「地道な努力を繰り返すことは、むずかしいものです。レンガを一つひとつ積みあげていくことに似ています。でも、それを怠らず行っている人は、きっかけがあれば技術的にもいっきに向上します。素直さも、また大事です。休みの日にほかの店に行き、料理をいただくことも料理人にとっては修業の一つです。しかし、たた食べるのではなく、自らの料理と照らし合わせなければならない。心を真っ白にして、食すことではじめて料理のすべてを咀嚼することができるのです。ただ、これもけっして簡単なことではありません。整理整頓とおなじように、やる意味を理解していなければできないことなんです。そういう意味を理解し、つづけていくことができる人は立派な料理人になることができます。年齢に関係なく、素晴らしい料理人というのは、こういう点をわかっている人だからです」。
料理人だけではなく、ある領域に到達した人は「心」の有りようを大事にする。しかし、かりに料理人を志す人であれば、むずかしく考えず、中嶋という先達の言をシンプルに実践することをお勧めする。中嶋が言っていることは、けっしてむずかしくないことばかりだからだ。
その一方で、中嶋はこうも言っている。
「できると思う人は、段取りが良く手を抜くことができる人です。どうしても段取りの良さと丁寧にすることは時間的に反比例してしまう。そこのバランスが優れていなければなりません。またいちばん正しいと思うスタイルは、『これが正しい』と納得して、繰り返している人のスタイルです。そのことに、早く気付くことが出来る人もまた一流になる人だと思います」。
つまり、正しいと自ら信じるスタイルをできるだけ早く気付き、それをコツコツと積み重ねていくちからがある人が、一流になる素養を有していることになる。
では、従業員にはどのように言っているのだろう。そちらも伺った。
「ただ忙しかったで、終わるな、と言っています。たとえば上司に何かを申告する時には、ただ駄目では、話にならない。何かしらの代替案を持ってくるようにと言います。そのくらいのレベルにまで持っていかないと、調理場が辟易してしまいます。忙しかった、ではなく、どうすれば忙しくなくなるか、ということを考えよう、ということです」。
「真心を持って対応することも教えています。ただ、99%できても1%の危機管理がなければ意味がない。この1%が大事なのです」。
また料理はチームであるという。「手が足りないグループがあれば率先して手伝いに行く。こういうことができるかどうかが、料理を左右する」。
料理人は職人である。これは間違いない。ただ、個別の職人が、互いに競うだけでは、チームは成立しない。料理長を頂点にしたヒエラルキーによって、組織が硬直して、柔軟性、運動性を失ってはならないのである。
そういう意味では、スタッフ全員が、機能する組織づくりが重要となる。この「組織づくり」という意味においても料理人は、長けていなければならないのだろう。
中嶋の話を聞いていて改めてそう思った。
「3年もやれば調理に向いているのか、経営に向いているのかが分かる」と中嶋。スタッフの能力を判断することもまた重要な仕事の一つなのである。
そういうチームを創造しながら、父を継ぎ、「新宿割烹中嶋」を育てつづけるのが、中嶋の最大のミッションなのだろう。
「祖父には、『魯山人』の名がついて回りました。実際、魯山人の中嶋ということで、いらしていたお客様も少なくありませんでした」「しかし…」といって笑う。「最近では、ようやく私のちからも認めていただいて。中嶋の料理を食べにいこう、と」。
ひょっとすれば、魯山人という名から中嶋という名へ。これが中嶋という料理人の一つのゴールかもしれない。しかし、魯山人、正確には「北大路魯山人」という偉大な人物が残した足跡を自らの足跡に替えて、あゆむこと、それ自体、凡人にはたいへん難儀に思える。
しかし、そこには愛する父の教訓がある。父は息子の中嶋に「鶏口となるも牛後となるなかれ」と諭したことがある。その思いを大事に守りつづけた中嶋にとって、「魯山人」という名の下で生きるよりも、中嶋という名で、堂々と生きる。それが生き様ということになるのだろう。中嶋という料理人の名は、いまや多くの人に知られ、舞台も多彩に広がっている。
イタリア料理の落合務氏と中華料理の孫成順氏とともにNHKの情報番組にも出演。フジテレビの人気番組である「料理の鉄人」では、フレンチの鉄人「坂井宏行」氏と戦っている。
また著書も少なくない。「新しい和の料理」(家の光協会)、「味わい深い豆腐料理」(新星出版)、 「中嶋貞治のDVDで本格和食」(山と渓谷社)、「魚づくし」(柴田書店)他である。
むろん、店主を務める「新宿割烹中嶋」は、東京を代表する割烹料理店の一つとして、ミシュランから7年連続で星を獲得している。
その一方で、ハイアットリージェンシー東京の調理顧問として、「日本料理 佳香」「酒肴 omborato」を運営している。こちらの店も高い評価を獲得していることはいうまでもない。
更に、農林水産省から依頼され、食育組織として<一般社団法人「超人シェフ倶楽部」>を創設。学校給食に切り込んでいる。
ホームページの一文を抜粋する。<食育活動である「スーパー給食」を通じて、学校給食の調理に携わる方々と交流・情報交換し、互いの経験と技術を結集することで、新しい切り口の給食レシピを提案していきます>とのこと。
スーパーシェフたちがつくる「スーパーな給食」を前に、歓声をあげる子どもたちの様子が目に浮かぶ。いまやこれも中嶋の大事な仕事となっているそうだ。
その話を聞いて、子どもたちと接する中嶋の、屈託のない笑顔を思い浮かべた。
ちなみに2012年、1年で、50校に給食を提供。それが本になって上梓されるそうだ。
さて、冒頭、宮本輝氏の言葉を引用させていただいた。氏は、落ち着きがでてきた、と語っておられるが、中嶋の料理は、落ち着いたことで、進化をとめたわけではない。「自分の足りないところを補いつつ、これからも料理の美味しさを求めていきたい」と語っているのがその証だ。
人は年齢を重ねることで、落ち着くと良くいわれる。ただそれは、単純に丸くなり、牙をなくすことでもない。深みという言葉があるように、年輪を刻むことで、心の質量が増し、重心が深い位置で安定することを指しているのではないだろうか。
まだまだ意欲的な中嶋をみて、そう思った。
中嶋は、あの中華の鉄人、陳建一氏と友好が深いらしい。ともに2代目当主として、馬が合う。ゴルフも好き同士。「ムッシュ坂井も、道場さんもいい人だね」と鉄人の名が更に2人、挙がった。
東京という日本の中心で、老舗料亭の息子として生まれ、育った中嶋。その素顔は、庶民的で、気さくな人だった。「料理は人なり」。中嶋が作りだす、おいしい料理の秘密を、改めて知った気がする。
そのうえで、整理整頓が、できるかどうか。中嶋の言葉を反芻する。すると一つわかったことがあった。
「料理には、人格がでる」。
だからこそ、中嶋は、人の基本的な振る舞いから注意するのだ、と。だからこそ、何歳からでも「いい料理人になれる」と断言するのだろう、と。
「料理は、人。そして人格」。人の格の違いは、たしかに味の違いにも表れる。精進、あるのみだ。
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