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第416回 株式会社スーパースイーツ 代表取締役 辻口博啓氏
update 14/01/14
株式会社スーパースイーツ
辻口博啓氏
株式会社スーパースイーツ 代表取締役 辻口博啓氏
生年月日 1967年3月24日
プロフィール 石川県七尾市に生まれる。実家は祖父の代から続く和菓子屋。その長男である。18歳で上京。都内のフランス菓子店、フランスの「パティスリー・ベルタン」等で修業。パティスリーのワールドカップと称される「クープ・ド・モンド」で優勝するなど、数々のコンテストで、高く評価される。1998年自由が丘で「モンサンクレール」をオープン。翌年、1999年フジテレビの人気番組「料理の鉄人」に出場。現在は「モンサンクレール」をはじめ、コンセプトの異なる12ブランドを次々と展開。各店舗の製造・運営のほか、石川県の「スーパースイーツ製菓専門学校」の校長も務める。各企業とのコラボレーションやプロデュースも行い、講演やテレビ出演、著書出版などでも広くその名を知られている。
主な業態 「モンサンクレール」「自由が丘ロール屋」「ル ショコラ ドゥ アッシュ」「和楽紅屋」「フェーヴ」他
企業HP http://www.h-tsujiguchi.jp/

辻口少年の決意。

地図で確認すると、七尾市は能登半島の東側の海沿いにあり、金沢駅から七尾線を北上すれば、到着する。自然に囲まれた町で、少年、辻口は、海と山でよく遊んだ。とくに祖父と行く釣りが好きだった。いまもサザエを獲るのが好きで、時々、海に潜るのだという。
その祖父が「和菓子屋」を開業したのはいつ頃だろう。辻口が生まれた頃には、父が店主となって、市内にすでに3店舗を展開していたそうだ。
幼い頃から和菓子職人になりたいと思っていたのは、父の仕事をみてきたからだろう。
そんな辻口が洋菓子に興味を抱いたのは、小学3年生の時。友人の誕生日に招かれた時のことである。
「バースデー・パーティで、初めてショートケーキを食べたんです。それが、洋菓子に目覚めたきっかけです」とのこと。
ただし、悔しい思いもした。
「田舎だったこともあり、バースデー・パーティなんかに呼ばれたのは、あれが最初です。私は熊の貯金箱をプレゼントしました。パーティでは、鮨や食べたことのないような料理がでて、それで最後にショートケーキだったんです」。
とても、この世のモノとは思えなかった、と辻口。生クリームとスポンジの鮮烈なハーモニーにすっかり魅了され、行儀も忘れ、気づいた時にはお皿を舐めていた。
それを観ていた友人の母親が、悪気があったわけではないだろうが、「こんなに美味しいケーキは、辻口くんの家にはないでしょう?」といった。和菓子屋の息子である。和菓子をバカにされた気もした。
「それで、反論しようとするんです。『うちの和菓子のほうがうめぇよ!』って。でも、皿まで舐めちゃっているわけでしょ。だから、なにも言えなかった。あのときは凄く悔しい思いをしました。私が、『絶対、美味しいお菓子をつくってやる』と誓ったのは、実は、この時で、洋菓子を選択したのは、悔しいですが、いただいたショートケーキがとんでもなく旨かったからなんです(笑)」。

高校、卒業まで。華やかな日々と、暗澹とした日々。

洋菓子屋になる、と決意したことで、勉強は捨てた。だから、授業中はろくにノートも取らない。机に釘を差してピンポンゲームをやったり、消しゴムを飛ばしたりしていたそうだ。
一方、スポーツは好きで、万能。好きな絵では展覧会で何度も賞を獲ったりもした。中学から始めたテニスでは能登エリアで3位という好成績を残している。
ブルースリーにも憧れ、少林寺を習った。
高校に進学すると、テニスと空手に熱中。2年時には、3年生も含めた全児童が参加するスポーツテストで1位になったこともある。
生徒会長も応援団長も、務めた。
正義感が強く、弱い者いじめは許さなかった。代わりに、自分より強そうな相手とは、進んで拳を交えた。結果、極真の「茶帯」。能登では黒帯はそういない。だから、茶色の帯は、上位者の証だった。
生徒会長になったことで、責任感も生まれたのだろう。学校の成績も「最下位から、上位25位に、いっきに食い込んだ」と胸をそらす。生徒会の挨拶では、登場するたびにCDラジカセのスイッチをONにして、バックミュージックを流した。「高校を私物化していた」と言って笑う。社交性も生まれ、何をするにも辻口が中心だった。
得意満面だったにちがいない。
学校では、自由に振舞う目立つ存在だったが、家に帰ると、そういうわけにもいかなかった。
「高校に進学する頃から台所事情がきびしいな、と思っていたんです。卒業する頃には、もう資金が回らなくなっていました。もっとも私は最初から就職するつもりでいましたから、それが進路に影響することはなかったんですが。妹や弟もいましたから、どうなるんだろうと心配にはなりました」。
とにかく、卒業。学校の紹介で、都内の洋菓子店に就職。上京のために1人、列車に乗り込んだ。

初任給4万5000円と壮絶な決断。

18歳。田園調布のとある洋菓子店に勤務する。朝6時から20時まで。それで初任給は4万5000円。昔の話とはいえ、少ない額である。しかし、辻口は、至って元気。念願の「洋菓子職人」への一歩を踏み出したからだ。
家庭の事情を考慮しても、もう後戻りはできない。ただし、辻口は義務感で、菓子職人になったわけではない。「好き」の、延長。そう、辻口はみずからの権利を行使し、菓子職人という道を選んだ。知らない街で安い賃金で重労働を強いられても、後悔はない。
ところが、3ヵ月経ったある日、実家から戻れという連絡が入る。ついに、倒産。もともと外泊が多かった父は、もう姿をみせなくなっていた。妹や弟はまだ幼い。母が長男の辻口に戻ってほしいといった、その口調は哀願にちかいものだったかもしれない。
しかし、辻口はいったん七尾に戻ったが、母を説得し、再度、上京。
「絶対、できる職人になって幸せにするから」。
「その時、私には、そういう選択しかできなかったんです。だって、職人になるつもりだったから勉強もぜんぜんしてこなかったでしょ。いまさら進路はかえられない。でも、月給5万円足らずという現実もあるわけで。そう考えると、答えは一つ。早く、できる職人になることだけだったんです」。
アルバイトをして、布団を買って列車にとび乗る。母と兄弟2人。残した3人の重さと、未来への渇望が、綱引きのように、押し合いする。むろん、不安もあっただろう。できることは一つ。がむしゃらに働くことだけだった。
当時の様子を辻口はこう語っている。「1日睡眠時間は、3時間ぐらいです。給料は少し良くなって、8万2000円ぐらいになりました。人気もある有名なお店でしたが、その一方で『きびしいこと』で知られていました。結局、7年間お世話になり、最終的にはお店のトップになっていました。それでも給料は13万円ぐらいでしたが(笑)」。
母には、毎夜、電話したという。気になってしかたなかったからだ。そして、7年が過ぎた。25歳まで、辻口は、この店で勤務したことになる。この間、世間からも注目されるようになっていた。23歳で、「全国洋菓子技術コンクール」優勝、最年少記録だ。翌年も、他のコンテストで優勝し、2年連続で日本で1番になったからだ。フランスでも、大会に出場し、数々の優勝経験を持つ。母と妹、弟の3人を思う気持ちが、エンジンのようになったことだろう。和菓子職人のDNAも、ちからとなったに違いない。もっとも、まだ一人食べていくだけで精一杯だった。
「洋菓子の職人」。そうだれもが認めていたが、本人だけが、まだまだと思っていた。
辻口は、ジョークも巧い。
「休みの日にいろんなケーキ屋を食べ歩きました。パッケージのデザインを観たり、人気店のごみ箱を漁り、仕入れ経路を調べたりもしました。『巨人の星』の星飛雄馬が大リーグボール養成ギブスをつけてトレーニングしていたでしょ。私は、あの飛雄馬と父の星一徹を一人で演じていたようなものです。一人で尻を叩き、一人で実践するみたいな」。
もちろん、いまだから、可笑しく、たのしく、言える。
「当時は、倒産した実家を『必ず再建してやる!』という強い意志で仕事に臨んでいました。いまも、その思いはかわらないんですが。ただ、私は、実家の再建だけを望んで仕事をしていたわけではなく、シンプルに菓子をつくることが好きだった。そういう好きなことを仕事にしたのは正解だった気がします」。
趣味を仕事に。これも、辻口からのメッセージの一つである。

コンテストの副賞でフランスへ。そして、史上最年少の日本代表選手に。

すでに、辻口が23歳で、コンクールに優勝したことは書いた。この時の副賞の話である。
「あの時、副賞が1週間のフランス旅行だったんです。私の人生を語るうえで、この1週間を抜きにすることはできません。フランスは、観るものすべてがアートだった。そして、観るアートもあれば、食べるアートもあるんだと、フランスの空の下で気づいたんです」。
パリは街すべてが美術館だった。花屋のディスプレイ一つとっても感心した。気持ちは1週間ですっかり魅せられた。もっとも、母のことを思うとさすがにパリで働くという選択肢はなかったという。
ちなみに、このフランスでも菓子の大会に参加している。初参加で銀メダルを獲り、日本での優勝がフロックでないことを証明した。しかも、チョコレートの大会でも3位に食い込んでいる。
観ること、チャレンジすること一つひとつが自信となる。とはいえ、もっとも自信につながったのは、もう数年先、29歳の時で参加したコンテストでの話である。
「パティスリーの世界大会といわれる「クープ・ド・モンド」という大会があります。このコンテストで日本代表に選ばれ、本大会に出場しました。洋菓子では、世界最高峰の大会です。この大会で、私は史上最年少で優勝。この世界大会に出場し、飴細工の部門で優勝したことが、一つのきっかけとなって独立の道がスタートしました」。

イタリアンの鉄人との真剣勝負が、ブレイクにつながった。

名を馳せた辻口にいろいろな誘いがあった。とある投資家からの誘いもその一つだった。受け入れる条件として、辻口は、フランスで今一度、修業したいと申し出た。
願いが叶えられ、MOF(フランスの国家最優秀職人章)の称号を持つ洋菓子店「パティスリー・ベルタン」で半年間、修行するという貴重な体験を積むことができた。
帰国後、約束通り「モンサンクレール」を開業。オーナーではなかったが、自身の店を初めて構えた。ところが、半年間は、赤字を垂れ流す一方だったそうである。
「宣伝というのを一切やりたくなかったんです。味だけで、口コミだけで勝負する。オーナーは6万部チラシを刷ってくれたんですが、そういうのでは勝負したくないとつっぱねました。そもそも、菓子をつくれるのは、私一人でしたから、チラシのおかげで客がドッと来ても対応できなかったんです」。志は高かった。だが、赤字は、累計2000万円ぐらいになった。オーナーは辻口を信じた。もっとも、辻口は、そのまま、赤字で倒れるつもりはいっさいなかった。
「1日に10人のファンを!」という合言葉で、スタッフを励まし、ファンづくりに精を出した。その結果は、オープン半年目から表面化する。半年経って、初めて損益分岐点を通過。いったん通過すると、累積した2000万円の赤字など問題ではなくなった。評判は、評判を生んだ。料理の鉄人の挑戦者に選ばれたのも、この評判を何処からか聞きつけたからだ。
ちなみにオープンして、3年後。オーナーから辻口はこの店を買い取っている。いまでも、この時のオーナーがいなければ、いまの私はない、と感謝してやまない相手である。
「お金」より、「人」を信じられる人は、めったにいない。
さて、ブレイクのきっかけとなった「料理の鉄人」の話もしておこう。「料理の鉄人」はいうまでもなく、人気TV番組である。辻口が、登場したのは、1999年2月である。相手は神戸勝彦氏。イタリアンの鉄人である。
「それまでパティシエは、全敗していたんですね。私は、ちょうど8人目の挑戦者でした。パティシエでは、鉄人を破れないというのが定説だったそうです。しかし、私はもちろん負けるつもりはない。ところが、番組の前日になって、プロデューサーが『負ける』というんです。最初は、『負けろ』と言っているのかとも思いましたよ。でも、違っていて、『パティシエは計量ばっかりしているから、勝てないんだ』と。良く見ているな、と感心しました。私も同じことを考えていたからです。一つひとつきっちり計量するもんだから、時間がなくなる。料理の品数も少なくなる。それがわかっていましたから、私は、ハナから計量などする気はなかったんです」。
失礼なプロデューサーへの返礼とばかり、翌日に辻口なりの「答」を叩き返した。食材は、「バナナ」。鉄人を上回る品数をつくり、「味」でも勝利した。
辻口の名はさらに、拡散する。そして名実ともに、誰もが憧れる菓子職人となった。
幼い日に食べた一片のショートケーキ。苦い思い出とともに蘇るその味を求めて、辻口は、頂点に立ったことになる。
その人生は、けっして順風満帆ではないが、それもまたアートの一つ、という気もした。しかも、そのアートは、まだ完成してはいない。そこがいい。
辻口のスケジュール帳は、いまもなお文字に埋め尽くされ、真っ黒だそうだ。「社員のなかでもいちばん、私がはたらいている」といって、笑う。菓子づくりが、趣味。だから、たのしくてしかたない。たしかに、アーティストである。

最後に。

現在、辻口は、さまざまな活動を行っている。「モンサンクレール」をはじめ、コンセプトの異なる12ブランドを次々と展開する一方で、さまざまな企業とのコラボレーションを行い、菓子のプロデュースも行っている。
講演やテレビ出演、著書出版など幅広く活躍中というのは、みなさんも良くご存知だろう。ふるさと石川への思いも強く、石川県金沢市にある「スーパースイーツ製菓専門学校」の校長も務めている。
今後の話も伺ったので、追記する。
「毎年パリで行われる世界最大のチョコレートの祭典『サロン・デュ・ショコラ』で行われるアワードで「5タブレット+星」の最高評価をいただき、外国人部門最優秀ショコラティエ賞を受賞しました。その祭典で発表した、カカオニブを最先端技術でナノ化した『nano chocolat(ナノ ショコラ)』を2014年1月22日に発売します。これが第一弾です。また順天堂大学の小林教授とコラボしたサプリメントのチョコレート『H CHOCOLAT SUPPLEMENT(アッシュ ショコラ サプリメント)』も2014年1月22日より同時発売されます。リラックス成分である緑茶アミノ酸テアニンとカカオポリフェノールを組み合わせて、ストレスを軽減させたり、集中力を高める働きがあります。今後の方向性としては、フルーツを皮ごと食べるような、『一物全体主義』を掲げながら、新しい素材作りを考えていきたいと思っています」。
やりたいことも尽きない。新しいジャンルも切り開いてきた。
「和楽紅屋ではラスクを和風に仕立て、和スイーツというジャンルを開いてきました」。
「アクアイグニスという三重県にある複合温泉リゾート施設のプロデュースに関わっています。『癒し』と『食』をテーマにしたリゾート施設で、年間100万人ほどが来場しており大盛況です」。
「『feve(フェーヴ)』という豆をスイーツに仕立てた新しいコンセプトのお店もあります。スカイツリー、ヒカリエ、品川アトレにも出し好調です」。
これらの話、ぜんぶ描くには、どれだけのキャンパスの広さがいるのだろうか。やっぱり、辻口の生き様は、アートであり、クリエイティブである。その創造力は、菓子職人の未来まで切り開いている。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
実家の紅屋前で 高校時代 1996年ソペクサ表彰式
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
1997年クープ・ド・モンド個人優勝 2013年サロン・デュ・ショコラでの表彰式 2013年サロン・デュ・ショコラで
ファッションショーの衣装制作を行う
 

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