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第420回 株式会社てっぺん 代表取締役 大嶋啓介氏
update 14/02/10
株式会社てっぺん
大嶋啓介氏
株式会社てっぺん 代表取締役 大嶋啓介氏
生年月日 1974年1月19日
プロフィール 三重県桑名市生まれ。名城大学卒業後、電子部品商社に就職するも、1年で解雇。祖父のアドバイスと後押しを受け、飲食の道に進むべく「かぶらやグループ」へ。2003年7月7日、「株式会社てっぺん」を設立。独自の「朝礼」が、テレビや雑誌で取り上げられ、話題になっている。2006年には、NPO法人「居酒屋甲子園」を立ち上げ、初代理事長に就任。DVDには「本気の朝礼」(日経BP社)、著書には「夢が叶う 日めくり」(現代書林)がある。現在も、全国をフィールドに講演活動を展開。いま、もっとも熱い経営者の一人である。
主な業態 「てっぺん」「てっぺん渋谷男道場」「てっぺん渋谷女道場」
企業HP http://www.teppen.info/

野球、小僧。未来のメジャーリーガーと対戦する。

「お金持ちより、人もち、夢もち」という言葉を教えてくれたのは、警察官の父だった。「友だちを大事にしろ」「ウソをつくな」「約束は守れ」。
口数が多いほうではなかったが、少年の耳にはいまも、そうした父の言葉が鮮明に残っている。
大嶋が生まれたのは、1974年1月19日。出身は、三重県桑名市である。3人兄弟の長男で、小さい頃から運動神経抜群な少年だった。小学生時代にはカラテで、全国4位。野球では、全国大会で2年連続で3位になった。あのイチロー選手(ヤンキース)と戦ったこともある。
「向こうは愛知県代表で、こちらは三重県代表でした。ピッチャーはイチロー選手。当時から凄いピッチャーと評判でしたが、うちのピッチャーのほうが、いいと思っていました。ところが、1回に5点も取られて。
いままで、打ち込まれたことがなかったので、こいつでも、5点も取られることもあるのかと。でも、結局、5対8で逆転勝利。対戦したのがイチロー選手だったことは、後で知りましたが、とても白熱した試合でしたので、全国大会のどの試合よりも記憶に残っています」。
何年生から野球をはじめたのか。記憶が曖昧だ。小学3年生、父が他界。気丈な母、祖父、祖母もいたことで動揺することはなかったと大嶋はいうが、この頃の記憶が不鮮明なことに、多少は影響しているような気もする。
父からはもう言葉が聞けなくなった。だから逆に、冒頭の「教え」が鮮明に記憶に残っているのかもしれない。
父が他界後、母は勤めにでる。大嶋家の子どもたちは、祖父や祖母たちが代わりに面倒をみるようになった。祖父は、喫茶店と銭湯をいとなんでいた。そのおかげで経済的には苦しくなかったし、祖父や祖母が優しく接してくれたおかげで、さみしくもなかったそうだ。
「朝になるとじいちゃんが外に出て、私が寝ている2階に向かって大声で『おきろっ』って叫ぶんです。ご近所さんも、この元気な声で起きていたそうです。母も明るく元気な人ですが、祖父、祖母もまた、母同様に元気で明るい人でした」。

なりきれなかった、中途半端なジブンと向き合った中学時代。

運動神経は、抜群。頭もそう悪くはない。野球ではチームごと同じ中学に入り、期待も、注目もされた。
1年から1〜2人がレギュラーに抜擢された。最強のチーム。大嶋もそのうちの一人だった。
だが、中学2年。ヒジをこわして、急に「野球熱」が冷めていった。一方、当時は、ビーバップハイスクールの時代。大嶋もまた漫画やTVのなかの「ヤンキーに憧れた」。
「中学時代は、暗黒の時代でした。友人たちは次々、ヤンキーになって。でも、私はそういう風になれなかった。心のどこかでブレーキをふんでいました。そうなると、『なんであいつだけ、いい子ぶってんだ?』って。
だんだん距離が離れていくんです。さみしかったですね。だから、そのぶんも野球にぶつけようと思ったのに、今度は野球もできない。うまくいかないことの連続で、中学時代は何もかもがいやになっていた時期でした」。
ところが、高校に行くと、人生は反転する。
コインの裏が、表にかわったように。

高校、始めって以来の秀才。

「教師が無理だという志望校を受験して、失敗。あぁ、なんて情けないんだと、頭を抱えました。それもあって、地元をさけるように名古屋の高校に進学します。名城大学付属高校です。この高校で、中学の時とは一転して、ハツラツとした青空の時代にかわるんです」。
入学すぐに行われた試験で学年トップになった。「マークシートだったので、偶然、合っただけ」と大嶋。しかし、周りの目は違った。いままで送られたことがないような、尊敬のまなざし。
「1位っていう響きは、気持ちのいいもんです。この気持ち良さに中学の時とは一転して、それからというもの勉強にも精を出すようになります。といっても、勉強するのは試験前の2週間ほど。丹念にノートをとっている友達から、ノートを借りて。それで、その友達よりいい成績とっちゃうわけですからイヤな奴ですね。だいたい学年で1位か、2位。5段階評価だったんですが、3年間で英数理は『4』がついたのは、1度だけ。あとはぜんぶ『5』。受験勉強を全くせずに推薦で名城大学に行くことが出来ました」。
さて、桑名市には重要無形民俗文化財にも指定されている石取祭(いしとりまつり)がある。大嶋曰く、「日本一やかましい祭り」だそうだ。
この祭りは、地元の人間にとって年に1度の最高の祭り。その日に向けて、町中のボルテージも上がっていくほどだ。
「あの祭りは、いまの『てっぺん』の原点という気もします。あの祭りの元気さ『てっぺん』にもある気がするからです。今のてっぺんの元気な空間につながっています」。
大学になっても、大嶋の絶好調な日々はつづいた。
大学に進学してからは全く勉強しなくなり、仲間と遊ぶこととバイトに夢中になった。
夏は、仲間といっしょにリゾートのプールの監視員。冬は、スキー場で泊まり込みのバイト。夜は、バーで、バイトした。
車は、母に借りたスカイラインGTR。「そのときであったのが、うちの奥さんです」。
大学生活が始まってすぐの5月の合コンで一目惚れ、8年付き合って、結婚したそうだ。

大嶋啓介、1年でケツを割る。

「就職先は、東証一部上場している電子部品の商社です。でも、ぜんぜん、やる気が起きなくって。営業成績は全く結果が上げられず、ノイローゼになってしまったんです」。
何かが違う。独り海に行って、好きなグループのうたを聴いて、「辞めよう」と思った。「周りからは止められた。役員の方にも説得していただきました。でも、その意味すら、わからない奴だったんです」。
「実家に帰って家族と1度話して来い」、役員の1人はそう声をかけてくれた。土・日。実家に帰らず、スキーに行った。スキー焼けで出社した大嶋に、首が宣告された。懲戒解雇である。なかなか経験できるものではない。
「まるでだれにも相談していなかったわけじゃないんです。辞めるといったら、折角いい会社に入ったのにもったいない、という人が多かった。でも、最初は、反対していた母も何も言わなくなりました。代わりに、祖父が『飲食をやろうと思う』というと、こういってくれたんです。『やるなら、きびしい店で修業してこい。おまえみたいなあまったれた人間は何をやってもうまくいかない。逃げ出さずにやりきれたら、おまえにこの喫茶店の場所をやると」。
夢が見つかった瞬間だった。目標が出来た。大嶋は、祖父の言いつけを守り、50店の飲食店をまわり、活気が溢れいちばんきびしそうな店だと思った「かぶらやグループ」の門を叩いた。
「とにかく「あいさつ」がすごかった。店中がすごい活気で溢れていた。それで、ココだ、と応募したんです。1年はアルバイト。2年目から社員にしてもらって、それから半年で店長に抜擢してもらいました」。
「夢のちからは凄い」と大嶋はいう。「夢があるから、がむしゃらにできた」と語っている。
「あるとき、見るからに怖いおじさんが来店され、、なんだかんだとクレームをつけてくるんです。それで、逃げちゃいけないと思って。3時間ぐらい、正座して、真剣に話を聞いていたら、すごく気に入ってもらって」。
翌日、その方が、「かぶらやグループ」の社長に電話をかけてきた。
「あの、根性のある奴をうちにもらえませんか?」
そういうこともあって、岡田社長から店長のチャンスを頂いた。やがて、「飯場本店」と言う、「本店」と言う名のつくお店の店長に大嶋が抜擢された。
ところが、これが波乱の始まり。

目標もなにも、みえない。いまがただ、くるしいだけ。

頭角を現した、大嶋。夢に向かって、がむしゃらに突っ走った。そして、つかんだ大きなチャンス。しかし、24歳の大嶋にとって、簡単にうまくいくようなしろものではなかった。
「旗艦店です。料理人も外部からできる人達を登用して。でも、腕はあっても『かぶらや魂』は当時はありません。
アルバイトの意識も低い。なにしろ私自身が、ぜんぜんリーダーシップをとれない店長だったから。店長と言っても、料理人の人たちのほうが年齢も、経験もうえでしょ。そのうえ料理人の人たちは、かなりこわそうな人ばかり。料理人同士も、毎日のようにケンカがたえないような店でした」。
どうにかしなければいけないと、もがけば、もがくほど、黒い沼のなかに落ちていった。半年、特に最後の2ヵ月間は、間違いなく「うつ」の状態だったそうだ。
「家を出ると、それだけで吐き気がするんです。なんとか自分を励まして店に行っても、店のなかに入るとまた、吐きそうになる。さらになぜか熱が下がらない日が続き、しまいにはいぼ痔にはなるしで、とにかく精神的にも肉体的にもボロボロ状態でした」。

てっぺんの「朝礼」、その原点。

そんな大嶋をかえたのは、とある会社が開催する研修だった。
「最初は、ちょっといやだなと思っていたんです。でも、実際に体験すると、思っていたものとはまったく違うんです」。
「うまくいかない経験や悩んだり苦しみを経験することが、人間力を磨く大切なことなんだという岡田社長の言葉も理解することができた。よし、どうせ苦しむなら、もっと苦しんでやると思えるようになったんです。私は、私なりにやってきたつもりですが、たとえば料理人を例に挙げれば、全員、私よりひとまわり以上、上の人だったんで、どこかで遠慮していたんだと思います。それで、ちゃんと向き合ってこなかった、そういうことをこの研修で、知らされたんです。すべては人間関係は、自分次第」。
「スイッチが入った」と大嶋は表現する。エンジン、全開。むろん、店がいっぺんしたことはいうまでもない。
その経験を通して、大嶋はいろんなことを手にした気がする。人間としてどう生きるか、その指標も含めて。
とにかく、この研修の時の感動や衝撃を、大嶋はいまも忘れていない。居酒屋「てっぺん」で行われている「朝礼」は、まさに大嶋流の、この時の研修からきている。「人は、かわることができる」。大嶋は、そう信じて疑わない。
大嶋が、「株式会社てっぺん」を設立するのは、2003年7月7日だから、大嶋、29歳の時である。
それから、すでに2013年10月現在で、10年以上が経過している。大嶋がつくった「てっぺん」は、朝礼で有名になり、TVや雑誌にも取り上げられた。彼を慕う人は、列をつくるほどいる。
ただ、それだけみれば、大嶋という人はなんにつけてもポジティブで、明るく、豪快な人だと思ってしまう。私も、実は、そう思っていた。
しかし、インタビューをさせていただいて、改めて大嶋という人となりを知った気がする。それを知ることで、「てっぺん」の意味も、「朝礼」の意味も、より深くわかった気がする。
「本気にさせてあげる環境」。大嶋は「空気」という表現をインタビューのなかでも、何度か使った。その場の「空気」というのはたしかに存在する。淀んだ空気が一掃され、新鮮な空気に満たされることで、たしかに人は、かわることができる。
いま、大嶋は「学生道場」なるものをつくろうと計画している。「1年間限定の、バイトです。バイトだけど道場なんです。社会にでる前の…」。
大嶋は、否定するよりも先に、可能性を信じようとしている。「若い子にも、非常に可能性を感じている」という言葉はうそではない。
ただ、その可能性の扉をどうすれば開くことができるのか、そのきっかけになればという思いで始めようとしているに違いない。
昔、昔、父から「友人をつくれ、大事にしろ」と言われた少年はいま、多くの友人たちの、輪の真ん中で微笑んでいる。
「人もち、夢もち」。父同様、それが大事だといえる人間に育っている。
ヤンキーになりきれなかったことも。1位という言葉に魅了されたことも。1年で会社を辞めたことも。操縦すらできず、目標を失いかけたことも。すべて、大嶋 啓介、その人をつくっている。コインの裏を表に入れ替える。いま「てっぺん」の「朝礼」は、そういうきっかけを多くの人に与えている。大嶋にとっては、店でも、売上でもなく、人が、主役だ。そこがいい。

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