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第422回 株式会社大将軍 取締役社長 南 慎一郎氏
update 14/02/25
株式会社大将軍
南 慎一郎氏
株式会社大将軍 取締役社長 南 慎一郎氏
生年月日 1958年
プロフィール 兵庫県宝塚市生まれ。大学卒業後、サト レストランシステムズ株式会社に入社。いったん建築・不動産関連の事業会社に転職したが、39歳に再び飲食に舵を取り、「株式会社どん」と出会う。創業社長、籾山氏の片腕として敏腕をふるったのち、吉野家傘下となった同社で社長に就任。業績悪化にあった同社を再生し、退職。株式会社大将軍では、顧問を経て社長に。「どん」再生の経験などを移植し、「大将軍」の立て直しを図る。
主な業態 「焼肉大将軍」「焼肉屋くいどん」「伝助横丁」「くいどん食堂」
企業HP http://www.daisyogun.co.jp/
ホームページを検索したら、肉の写真がディスプレイいっぱいに大写しになった。とたんに腹の虫が騒いだ。今回登場いただくのは千葉 東京 神奈川で、大型焼肉チェーンを展開されている「大将軍」の取締役社長、南 慎一郎氏。前職の、株式会社「どん」の社長時代にもお話を伺ったことがある。フォルクスとの合併、吉野家の傘下に入り、かじ取りが難しい時期の「どん」を率い、見事、再生させた敏腕経営者である。お会いする前から、今回もお話を聞くのが楽しみだった。

大学卒業までの話。

「子どもの頃は、野球が大好きで、長嶋や王が、ヒーローでした。父に連れられ、何度か甲子園に巨人・阪神戦を観に行きました」。
南が生まれたのは、1958年。出身は兵庫県宝塚である。日本の復興が進み始めた頃。
当時の子どもにしては珍しく、南は中学から私立の名門「関大一中」に進学する。
「その時、テニスに出会って…」と南。
最初は、野球をやりたかったものの、先輩に誘われ仕方なくテニス部に入部。しかし、やってみると、これが案外とおもしろい。すっかりテニスに魅了された南は、大学時代までつづけることになる。
「大学になると、車も乗れるようになるでしょ。私たちの時代は、車が青春のシンボルだったんですね。だから、テニスのほかに車にも夢中になって。そのぶんアルバイトに精をだして、車の資金も確保しました(笑)」。
手に入れた愛車は、「カリーナ2000GT」。
暴走族でも、走り屋でもなかったが、タイヤも替え、キャブレターもいじり、チューニングも楽しんだ。
そうやって、六甲の峠を攻めた。急な下り坂を抜けると、海が眼下に広がった。青春は、青空の下で、星空の下で、六甲の山の頂で、過ぎていった。
大学卒業。就職。南にもその時期がやってきた。

ホテルマンになろうと思って。

ホテルマンを描いた一冊の本に出会った。主人公に引き寄せられた南は、一時期、ホテルマンを志すようになる。
「でも、調べると現実との間に大きな溝があって。ともかく下積みが長いんです(笑)。主人公みたくなるには、それこそ何年もかかることがわかって…。でも、そう気づいた時にはもう4年生最後の年になっていました。いちから就職活動をするのはたいへんだと思っていたのを記憶しています」。
それでも、某ホテルからもらった内定を蹴って、いちから新たな就職先を探した。
時期が良かったといえば一言で済んでしまうが、当時は、いまほどの就職難ではなく、南がめざしたサービス職、とくに飲食はファミリーレストランの勃興期で、「一人でも多くの学生を採用したい」と、採用担当者はしゃかりきりになっていた時代である。
「ファミリーレストランの『サト』から内定をもらいました。外食産業は、これからの産業だと思っていたので、就職を決意しました。」
憧れのホテルマン改め、外食マン。時代は、外食マンの時代となるはずだった。
「たしかに、外食産業は凄いいきおいで成長していくんです。ただ、現場の私たちは、もうそのいきおいに押されっぱなしで(笑)」。多忙な日々。
同期で入社した5名の大卒は、すぐに3名になった。歯がかけていくように、スタッフがへっていく。高卒25名は、半年で半分になった。
「それでも、うちは残業代もすべて支給されていましたからましな方だったんじゃないでしょうか」と南。
残業だけで月に、200時間を超えていたそうだ。
「当時は、外食産業が急成長していくんです。その背景には、チェーンオペレーションという理論があって。そう、飲食という、ざっくりした旧世界に、論理立てた考えが導入されていくんです」。それはそれで魅力的だった。「しかし、ともかく忙しすぎて(笑)。考える暇も、勉強する暇もないというのはあのことですね」。
業務に追われながらも、ともかく3年、務めた。
飲食の勃興期に、南なりの足跡は残したことになる。

39歳。外食産業へ、再デビュー。

そののち、南は、大学時代にアルバイトをしていた会社の社長にスカウトされ、建築・不動産事業を行うことになる。25歳になっていた。時代はバブルに向かっていく。何もかもが巧くいった、そんな時代だったかもしれない。
この会社で南は14年間、勤務している。そして、39歳、再度、外食産業へ、再デビューを果たしている。そのステージとなったのが、株式会社「どん」。群馬・埼玉を中心したローカルだが、コストパフォーマンスに優れた人気のステーキレストランだった。
「たぶん、『あの、おっさんはなんなんだ』って噂になっていたと思います」と南。「39歳。転職するには、結構な年齢です。しかも、畑違いからの転職です。でも、そんなおっさんが、店長を任されるなり、いきなりトップ3に入って、それを毎月、キープするですから、尚更、『なんなんだ』って」。
いつしか、へんな「おっさん」が、頼りになる「おっさん」になり、慕われだしたに違いない。1年たって本部に登用された。前職の経験を活かし、建築課の課長として新店の建設・開発、用地の仕入れ、店舗のメンテナンスを任されるようになる。
創業者であり、オーナーでもある籾山社長(当時)から絶大な信頼を寄せられ、右腕になっていった。再デビューから数年、南は、高いステージに立っていた。

フォルクス買収、株式上場、しかし…。

株式会社「どん」が、いっきに全国区に躍り出たのは、2005年「フォルクス」買収を発表してからだろう。「フォルクス」はいうまでもなく、ダイエーの資本によって生まれたステーキハウスの草分けである。この「フォルクス」を買収する。
しかも、「フォルクス」が上場しているにもかかわらず、「どん」は、未上場。未上場企業が、上場企業を買収するのは異例のこと。また、同時に「どん」を存続させることで、株式を上場することにも成功したが、これも異例のことであろう。
社長の右腕として、この買収を取り仕切ったのも、南である。小が、大を飲む。「フォルクス」内には、反感もあったことだろう。そんななか南は、「どん」「フォルクス」、2つのステーキレストランの融合に奔走する。
「どん」のノウハウを移植することで、下降線をたどっていた「フォルクス」の業績が少しずつ上昇する。
しかし、また問題が巻き起こった。
「少しずつ、2つの会社が融合し、業績もあがっていくんですが、そんな時に成形肉が問題になり、うちの商品も偽装表示だと非難されるんです」。
「フォルクス」では、安くおいしいステーキを!と、関税が安く、仕入れコストが安い、「ハラミ」を利用していた。しかし、厚みが均一ではない。だから細かくカットし、成形しなければならなかった。その意味ではたしかに成形肉ではある。
しかし、「フォルクス」にすれば消費者のために手間暇かけ、加工したステーキである。
肉にはまったく問題なかった。
にもかかわらず、「ぜんぶいっしょくたにされて…」と南。
「スーパーなどでは、たしかに、いろいろな肉が入った成形肉が売られていました。フォルクスの肉は、たしかに成形していましたが、牛肉であることはもちろん、すべて同じ部位。それがわかってもらえなかったのは、残念です」。
ただ、偽装表示といえば頷くしかなかった。業界の常識は、通用しない。最初は、責任者も、それほど大きなことになるとは思っていなかったようだ。しかし、日に日に、批判は大きくなり、「この問題が、自力での再建を断念する最終的な引き金になった」と南は語っている。
「社員を路頭に迷わせられない」と当時の社長、籾山氏は、大手の資本である「吉野家」への株式譲渡を決定する。
「社長の決断には、いろいろな意見があったと思います。しかし、このときの決断が会社を、いまも残しているんです。もし、吉野家の傘下に入っていなければとてもリーマンショックには耐えられませんでしたから」。

社長、就任と退任。

吉野家の傘下に入ってから、南は、籾山氏からバトンを渡される。籾山氏が去り、南が社長となる。これは、吉野家が描いたプランだった。
「4年やろう、そう決めて社長の任を受けました」と南。
2009年のことである。
しかし、この年、成形肉にかわるもう一つの問題が起こる。
「社長になって、もともと『どん』の主力商品だった角切りステーキを復活させたんです。これが人気になり、業績は、浮上しました。しかし」。
売れすぎてしまったのだ、という。
「アメリカ産だけでは足らなくなり、カナダからも取り寄せました。そのなかの一つが、O157に汚染だれていたんです。幸い、大事には至りませんでしたが、まだ立ち直っていないうちには、致命傷ともなりかねない問題でした」。
社長就任、早々の話である。
長年に亘り、「どん」を動かしてきた南でなければこの難局は乗り越えられなかったはずである。
「結局、4年ですね。4年で、なんとか業績を浮上させることができました。債務超過も克服しました。そして、バトンを吉野家の方に渡したのです」。
39歳から務めた「どん」に、別れを告げた。
引退。
しかし、まだまだ南を必要とする会社があった。

「大将軍」の、大将軍になれるか。

「もともと大将軍には、顧問として招かれていました。そして、2013年7月に社長に就任しました。顧問として会社をみていましたから、こうすれば良くなる、というイメージは就任する前から持っていました」。
「そのイメージに沿って、まず経営資源を本業に集中させました。また、いいか悪いかは別として、オーナーの強烈なリーダーシップの下で、成長してきた会社です。社員たちは、いつのまにか自分で考え、行動するといったことを忘れていました。そこにテコ入れました」。
「本業に専念することで、社員たちの足腰をしっかりさせる。『いいお肉をなんとかして、みんなに食べていただこう!』という、とても素晴らしい考えを持った会社ですから、本業に専念し、社員に自主性を植え付けることで、ぜったい、本来の姿にもどれると思ったんです」。
むろん、まだ途上である。南にすれば、改善していかなければならないことがまだまだあるに違いない。セントラルキッチンも、オーバースペックだという。本部の充実も、店舗との仕事の切り分けも進めていかなければならない。
「飲食業に、敗者なし」。かつて、南はこういった。その趣旨は、すべてのものとウイン、ウインの関係であるからだ。
いい肉をお出しする、努力して安くお出しする。それを召し上がってくださったお客様が満足する。
たしかに、どちらも勝っている。
「任期は2年、だいたいそれを目途にしている」と南。それまで、「大将軍」の大将軍でいるつもりだ。
それは、吉野家傘下の「どん」時代より、「覚悟」がいることのような気がする。会社は違っても、2度目の社長、就任。
その手腕に、大将軍ファンのこれからもかかっている。

思い出のアルバム
 

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