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第423回 マーシュ株式会社 代表取締役
広尾「オステリア・ルッカ」オーナーシェフ 桝谷周一郎氏
update 14/03/04
マーシュ株式会社
桝谷周一郎氏
マーシュ株式会社 代表取締役
広尾「オステリア・ルッカ」オーナーシェフ 桝谷周一郎氏
生年月日 1973年1月10日
プロフィール 東京、神楽坂に生まれる。16歳で料理の道を志し、数多くの名店で修業を重ねる。3年間、中国に赴き、現地では、バジルの栽培なども行いオリジナル手法で料理を追及する。25歳で帰国し、代官山に「オステリア・ルッカ」をオープン。近年では子どもの食育に目を向け、小・中・養護学校等での家庭科講師や給食作りプログラムへも積極的に参加している。
主な業態 「オステリア・ルッカ」
企業HP http://www.osteria-lucca.com/
16歳のときに、料理の道を志し、独立を考えていたそうだ。目標とする年齢も「25歳と胸に刻んでいた」という。今回、ご登場いただくのは、広尾「オステリア・ルッカ」のオーナーシェフで、TVでもおなじみの桝谷 周一郎氏のことである。

めざせ、パイロット!

「中学2年の時、トムクルーズ主演の『トップガン』という映画を観て、パイロットになろうと思った。」と桝谷は切り出した。
「中学を卒業するなり、パイロットなどを育成する学校に進学しました。これで、パイロットになれると思っていたのですが、現実はそう甘くなかったです。結局入学した8割が自衛隊に入隊するというから、そりゃ、違うだろうって思って。わずか3ヵ月で中退しました。」
「パイロット」という目標もなくなり、心にぽっかり穴があいた。

往復ビンタの日々。

小学校の時から問題児だった。「親が学校に呼び出られることも日常茶飯事だった」と桝谷は笑う。中学になってバレーボールを始めたが、生活態度は褒められたものではなかったようだ。
中学2年時には、学校をさぼって、春スキーへ行ったこともある。
スキー焼けした顔で登校すると、「どこへ行っていた!」と担任に詰め寄られた。「とっさに、『屋上です』といったのですが、ジョークが通じる相手じゃなかった。問答無用、廊下に出され、往復ビンタです(笑)」。
担任は、3年間、桝谷の担当を務めてくれた。互いに気心は知れている。直裁に、諭された。「おまえは勉強ができないから、技術を磨け」が担任の口癖となる。
今でもイカツイ風貌を覚えている。
「柔道をしているから、耳が腫れているんですよ。そのうえ顔に傷がある。はむかっても敵いそうにない。手も早く、何度もビンタを喰わされた。それでも愛情を感じていたのは事実です」と桝谷は目を細める。
担任に、坊主にされたこともある。素行をみかねてのことだろう。担任以外は、怖いものもなく、学校でも、学校以外でも、いきがっていた。
夜の歌舞伎町や大久保も、桝谷のホームグラウンドだった。「パイロットになる」という目標だけが、まっとうなことだったが、その目標も進学後3ヵ月で霧散した。
担任の往復ビンタより、痛かった。

救いの神は、唐揚げ。

中学時代の担任が太鼓判を押したように、勉強はできなかったし、好きではなかった。いまさらしようという気にもならない。スポーツにも熱中できなかった。堪え性がなかった、といえばそれまで。「何者か」になりたかったが、起動スイッチが入らない。そういう時代であった。
親父が「こいつは東京にいたらおかしくなる」と言ったことがある。「私は、だったらアメリカに行きたいと言ったのですが、『アメリカに行ったらシャブ中になって帰ってくる』と取り合ってはくれませんでした(笑)」。
姉からは、「あんたこのままいったらチンピラだよ。更生もできないよ」と諭された。忙しい両親に代わって育ててくれた姉の言葉は重かった。
「そんな時ですよね。なぜか、小学4年生の時のことを思い出したんです。」何を思い出したかといえば、「唐揚げ」だった。この1枚の記憶が、桝谷を人生の混迷から救い出すことになる。
「小学校4年生の時に、NHKの料理番組を観ながら唐揚げを作ったんです。私が初めて作った料理です。そして、みんなから初めて褒められて…」。
そういうことを思い出したという。それからも何度か料理をした。その度に、巧くいった。「料理」という文字が、「未来」という文字に重なる。
「当時はもう大卒が当たり前で、悪くても高卒でした。さすがに中卒はいない。」「中卒」というレッテルが付き纏うことはわかっていた。
桝谷は2つのことを決意した。
一つは料理の世界に進むこと。もう一つは、自分を叩き直そうということ。
その2つを叶えるために、「日本青年館」へ進むことを決意する。
ちなみに「日本青年館」は、東京・神宮外苑地区にあるホテルやホールなどを備えた複合施設で、財団法人日本青年館が運営している。1925年に青年団のための施設として開館したそうだ。
青年団という響きが、強くなろうと思う桝谷の胸を打ったのだろうか。ともかく、桝谷は料理の道に進むことを決意した。これが16歳の時である。

魔法のような2つの言葉。

「これが最後だ。後は勝手にやってくれ」、と父にはサジを投げるように言われた。奮起を促す意味もあったろうし、案外、本音に近い言葉だったかもしれない。ともかく入学金を出してもらい、1年制の調理師学校に進んだ。
学校に通いながら、神楽坂にあるフランス料理屋でも働いた。
卒業して、目的の「日本青年館」に就職する。
「人と話をする時は『目と目の間をみろ』と教えられ、『申し訳ございません』『はい、分かりました』、この2つの言葉しか使うなと躾けられました(笑)」と桝谷。
当時、17歳。
学業には熱心になれなかったが、こちらでは、先輩、上司の言葉に、素直に耳を傾けた。「申し訳ございません」「はい、分かりました」、桝谷の声が、店内に響く。まるで、自身に魔法をかけるように。
「日本青年館」で働いた3年間は、貴重な時間だった。
「料理、食材管理、衛生面から包丁の砥ぎ方、接客マナーに至るまで、そうですね、イロハニホヘトのすべてを教えて頂きました」と桝谷は語る。
そして、基本を修得した桝谷は、19歳になり、新たな一歩を踏み出した。もう、「何者になればいいか」も分からない少年ではなくなっていた。

メインダイニングを目指して。

「当時は、バブル景気で、ホテル全盛期の頃です。私たち料理人にとっては、有名なホテルのメインダイニングに立つことが、一種のステイタスだったんです」。
桝谷も、目指した。ただし、中卒。料理の世界でも、この壁は厚い。それでも、チャレンジするしかなかった。幸い、先輩シェフが、有名なホテルの総料理長に推薦状を書いてくれた。
「それで、ともかく有名なホテルに入社することはできたんです。ただ中卒では、到底メインダイニングに立つことなど不可能だったんですね」。「中卒を、舐めんなよ!」と思っても、それが現実だった。
最初は、ラウンジでコーヒーを淹れる係。それからデザートを切ったり、朝食の準備をしたりした。職場にはなんとか馴染んだが、「メインダイニング」は近くにあって、遠い存在だった。
「それでも、なんとか『あと一歩』までは進んだんです。しかし、その時には、料理が料理ではなくなっていたんです」。
どういうことだろう。
「利益が大きなバイキング形式になってしまったんですね。悪い言い方ですが、業者が持ってきたものをただ温めて提供するだけ。日本青年館にいた時には考えられませんでした」。
もう少しで追いかけていたものが手に入る、と思っていただけに、落胆した。メインダイニングに立ったとしても、それでは意味がなかったからだ。
それで、退職。20歳でまた目標を失ってしまった。

ハタチのシェフ、料理をむさぼる。

ところが、事態は好転する。
ホテルを辞めたタイミングが幸いした。イタリア料理店を経営する父親の友人から、誘われたのである。しかも、シェフとして迎えられた。
いま思えば、このオーナーは桝谷の才能を最初に見抜いた人といえるかもしれない。
ともかく、シェフになった。
「その時のオーナーには今も感謝しています。よくぞこんなオレに、シェフという立場を与えてくれたものだと。」
人は与えられた役割によって、ときに変貌することがある。桝谷も同じだった。シェフという肩書きが、桝谷を突き動かした。
「任せてもらった以上、何とかしなければと…。まだまだシェフというには経験不足だと思っていましたから。だから、それまで以上に貪欲に、料理を追及し始めました。」
食べ歩きにも精を出し、技術を修得するために、仕事の合間を見つけては有名店で働かせてもらったりもした。むろん、無給である。
オーナーからも助言をもらった。
「20歳でシェフといったら、お客さんに舐められる。だから、『25歳だというつもりで働け』と言われたんです。すると、25歳の料理とはどんなものだろうと考えるようになって。」思考が空を翔ける。
「25歳の仕事をやるならば、更に5歳上の30歳の仕事をしなければならないと思いました。それが一つの目標になって。」
10歳上の料理人の技術を修得する。身銭を切って名店に通った。本をむさぼり読んだのもこの時である。

中国へ、青年の志。

その桝谷の熱心さに、胸を打たれた人がいた。店を贔屓にしてくれていた、ある芸能プロダクションの社長。来店、何度目のことだろう。彼は、日本と中国のアーティストを行き来させるようなアイデアを語ったあと、「下地づくりのために、まずは中国で飲食店展開をやるんだけど。一緒に行く?」と声をかけてきた。
「私は当時、食べ歩きにもお金を使っていたので、正直に借金があるんです、と言って断ったんですが、それならぼくが立て替えるよ、と言ってくださって。」
もともと海外志向もなくはない。未知なるものが、桝谷を魅了する。1年に過ぎなかったが、そのイタリア料理店のオーナーに感謝しつつ、何かに突き動かされるように桝谷は中国に渡った。

中国で感じた格差、情、恐れ。

ちなみに、桝谷が中国に渡ったのは1995年である。当時の中国は言うまでもなく、まだ近代化されていない。地域格差も甚だしかった。それは給料にも表れていた。
「北京出身者の月給は2万4000円。貧しい地域出身の人は月給50円。日本人の私の月給は60万円でした。」
「村に電話1台あるかないか、またガスも無くトイレの下には豚がいるようなところで生活している。格差は、当然のことのように受け止められていて、彼らにしてみれば、賄が食べられるだけでありがたかったのです」。
日本人ということで、桝谷の態度も不遜だった。差別的な目で見ていなかったといえば、嘘になるだろう。従業員に熱いコーンスープをぶっかけ怒鳴ったこともある。もちろん、親しくなった中国人もいて、「中国ではそういうことをしてはいけない。日本人は暴力で会話しようとするが、中国人は言葉で会話するんだ」と諭してくれたりもした。
中国の経済環境にも手を焼いた。レストランを開業しようと思っても、日本とは段違いに厳しい条件が幾つも課せられた。
それでも桝谷は、仕事にも生活にも満足していた様子である。中国人との交流もそうだったし、お金で全てが解決できた。
免許もお金で買えた。1200CCのバイクを購入し、乗り回した。中国人の彼女もできた。家には、お手伝いさんもいた。そして、日本人より中国人のほうが情に厚いと知った。「一生、中国にいてもいい」と思った。しかし、不安が無いわけではなかった。
「食材もまともに手に入らないんです。そりゃ、水も出なくて当たり前みたいな時代でしたから。バジルを栽培したりもしていましたが、チーズもワインもべらぼうに高く、とても提供できなかったんです。」
「これでは、日本の奴らに抜かれる。」
それが怖かった。そう思うと、いてもたってもいられなくなった。
ただし、中国にいたことで日本では学べないことも数多く学んだ。差別ということも知り、それが実は無意味なことで人間は同じだということを知った。政治や経済の難しさも知った。拳銃を突きつけられたことも、二度ある。
しかし、中国にいることは料理人としての可能性を失うことに等しい、という思いが脳天を駆け抜けた。

帰国と開業。

25歳。桝谷は、北京から帰国する。起業するために奔走した。大使館の料理人になりたいと、外務省へ掛け合ったこともある。
「アフリカとカンボジア、またミャンマーやベトナムではどうか、というオファーを受けたんですが、私は他の国の枠が空くのを待つつもりでいました。そういう時にたまたま、隣の敷地が空くという話があって。それで、いろいろな人に助けてもらって、いろいろなことを教わりました。」
桝谷は、こう言う。
「東京都の融資斡旋制度を利用しようと思っていたのですが、連帯保証人もいない状況で、手詰まりでした。それで困っていたら、昔御世話になった社長がいろいろと助けてくれました。人脈というのは、やはり大事です。偶然できるものではありません。人脈をつくるのに、お金も、時間も惜しんではいけないと思います。」
ところどころに恩人が現れている。
恩人といえば、惣菜屋のおばあちゃんもその1人だろう。
桝谷の要望を受け、店を畳み、貸してくれた。そのおかげで希望通りの立地で、1号店を開業することができたのである。
「9坪12席」。大きくはなかったが、自分の店である。
「自分を天才だと思って店を始めた」と言っている。
たしかに、25歳にして経験は豊富である。日本ばかりか、海外でも実力を示した。本人が天才と思い、成功しか想像していなかったことも頷ける。
しかし、人としての練りがいま一つ足りなかったのかもしれない。
たしかに「辛酸」を舐めたという経験は、無かった。だから、慎重さに欠けた。事業計画に書かれた数字も、「そうであればいい」というぐらいの数字だった。

店主、ギャンブルに走り、ネットの情報で、一発逆転の劇が始まる。

「3ヵ月で、従業員に払う15万円が用意できなくなり、私が他の店に出稼ぎに行くことになりました」と、オープン当初の話になる。
当初のプランでは、月115万円の売上を見込んでいた。しかし、初月の売上76万円。およそ40万円のマイナス。当初の目論見は1ヵ月目から、崩れる。「最低でも、150〜200万円はいくだろうと、高をくくっていました」。そこからみれば予想外のマイナスだったことになる。
計画を下回ったら辞めようと店を開く前には思っていたが、いざ開いてみると、簡単にはフン切れない。挙句の果てには、目先のお金のためパチンコなどのギャンブルにはまってしまった。借金に借金をかさね、自己破産も考えた。
「ところが、もう駄目だって時に、自分の店がインターネットで紹介されたんです。とたんに売り上げがアップし、著名な方々にも来店いただき、塞いでいた時がうそのように店は繁盛しました。それで、また調子に乗ってしまうんですね。」

2度目の、失敗。

1店舗目が好調だったことで、またも慎重さを失ったとも言えなくもない。「天才だ」とも思っているから、尚更図に乗りやすい。
30歳の時に2店舗目を出店した。本人が言うように、「調子に乗って出店した」わけだが、今度は軌道に乗るまでもなく、4ヵ月目で潰れた。借金、総額2200万円。今度は、「間違いなく自己破産だ」と思った。
どん底だったのはいつですか、と質問すると、2004年頃とのこと。「人生の最後に京都御所を観ておこうと、夜行バスに乗った」のもこの年である。
「京都御所へ着いたあと、そこに咲いていた葉っぱをじっと見ていた」と桝谷。
「葉っぱって遠目で観ていると全部一緒でしょ。でも、近くで見ると全部色も形も異なっているんです。あぁ、人間ってこういうことなんだと思いました。裏切られたり、足下を見られたりもしました。でも、まてよ。そんな人ばかりではなく、いい人間もいるじゃないかと。漠然と、でも鮮やかなほど確かにそう思ったんです。」
偶然も重なった。「お金も全然なかったんですが、ある有名なホルモンの店に行ったんです。そうしたら、大俳優と大女優がいたんです(笑)。」
少し話すことになった。店の所在を聞かれ、「代官山です」と答えると、すぐに「行くわ!」という言葉が返ってきた。
耳を疑ったことだろう。冷静に考えれば、もう店は畳む気でいた。彼らが約束通り、訪ねて来てくれたとしても、もう店はないと。だが、そうは言えなかった。そして、言わないことが正解だった。
不思議なもので、新幹線に乗った時には希望の光が見えていた。

失敗の先に。

以上は、TVにも登場し店も超人気店となった、今の桝谷から想像できないような「辛酸を舐めた」日々の話である。
それが桝谷を強くしたことは言うまでもない。
「料理は人格」、とある著名な日本料理人はそう言った。辛酸を舐めたことで、桝谷の人格が練られた。最後のピースが、生み出されたと言っていい。
HPを観れば、出会った人々も、スタッフも、ご両親もすべて大事にされていることが良くわかる。
2013年に移転した広尾店には、父親katuhiro(75歳)さんが語り部となる「Katsuhiro Bar(カウンター2席)」が併設されているそうだ。
「ちょっとした人生相談などで意外と人気を博す」とある。たしかに桝谷という破天荒な息子を見守ってきたkatuhiro氏なら、豊富な経験に裏付けられた人生相談も可能だろう。1号店オープンから今に至るまでも詳細に書かれているので、そちらもぜひ参照してもらいたい。
本文には、こんな恋の経緯も載っていた。<2008年、Luccaでの撮影で妻と出会い(はなまるマーケット)><週刊誌に撮られて初めての目隠しを経験>。妻とは、ご存じの方も多いが、タレントの虻川美穂子さん。
桝谷の、人としての味わいに魅了された1人に違いない。

思い出のアルバム
 
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