株式会社綱八 代表取締役社長 志村久弥氏 | |
生年月日 | 1960年1月31日 |
プロフィール | 株式会社綱八、2代目店主志村圭輔の長男として東京・新宿に生まれる。1983年3月、慶応義塾大学商学部卒業。同年4月、株式会社綱八、入社。同年10月、取締役に就任。1999年11月、代表取締役社長に就任する。 |
主な業態 | 「天ぷら つな八」 |
企業HP | http://www.tunahachi.co.jp/ |
さくっとここちよい音がする。
衣に包まれた、新鮮なネタの旨みがとたんにつたわってくる。天つゆでいただくのもいいが、塩もおつだ。
ホームページのクレドのなかに次の一文が載っていたので、引用する。
<我々にとって食材は『食財』です。旨いの源です。食財を大切に常に最高の状態でお客様にご提供します>。
食材を食財という。この思いがいい。食材が改めて、注目されるなかで貴い考えであるとも思う。
天ぷらといえば、アッパーなイメージが先行しがちだが、ランチだと昼膳が1260円で食せるそうだ。コストパフォーマンスもいい。
創業は、大正13年。創業者は、志村久蔵氏。
今回ご登場いただく、現、代表取締役社長、志村 久弥は、久蔵氏の孫にあたる。
店名について、おもしろい話も伺ったので掲載する。
「もともとは、網八(あみはち)だったんです。だけども、祖父が達筆すぎたんでしょうね。お客様が『網』じゃなく、『綱』と思って、綱八(つなはち)というんです。良く考えると響きも良く、『結ぶもの』として『綱(つな)』という字が、魅力的だと考えて、いまの『綱八(つなはち)』に変えたそうなんです」。
結ぶもの。なるほど「綱」は、つよく結われ、多くのものを結ぶ。創業以来、「綱八」が結んできたものも含めて、話を伺った。
「祖父は、職人気質だった」と志村は語る。20歳まで祖父は存命だったので、志村も祖父のことは鮮明に記憶している。
「みなさんが職人と聞いて想像する通りの人です(笑)。店も、いわゆる『天ぷら屋』。基本的に無口で威厳のある人でした」。
「もともと曾祖父の代までは魚屋だったそうです。当時、新宿周辺には、天ぷら屋が多くあったそうです」。
創業当時は、「綱八」もよくある街の「天ぷら屋」だった。
もっとも職人気質の久蔵氏が揚げる天ぷらは、このうえなく旨かったに違いない。いまも受け継がれている、当時の「心」と「技」からも想像できることだ。
元来、町の天ぷら屋だった「綱八」が、世間一般に知られるようになったのは、父、圭輔氏によるところが大きい。
若い頃は、「東大」をめざしたというから、博学の人だったのだろう。大学卒業後、迷わず「綱八」に入社し、従業員として、寮で寝起きし、イチからすべてを学ばれたそうだ。
その父と祖父が一度、口論することがあった。
「マイシティ店を出店する時です。祖父は職人気質なんで、手を広げることに反対だったんです。逆に父は、チャンスだと思い、譲らなかった。それで口論になったんですが、結局、祖父が折れ、出店が決定。父は、時代を感じ取っていたんでしょうね。当時は、高度経済成長期です。マイシティ店を皮切りに、小田急店など次々と新店を出店し、成功を収めました」。
創業者から、2代目、経営者へ。個人商店から企業経営に大きく舵が切られたのは、この時である。
志村が生まれたのは、1960年。日本の高度経済成長期がスタートした頃だ。志村が小学生の頃には、日本最初の超高層ビル「霞が関ビルディング」が建設されている。
そのビルの1階に「綱八」が入店することになった。この店の成功で圭輔氏は、さらに加速をつけ、銀座や駅ビルに店舗展開を進めることになる。
「私が、10歳かそこらの頃ですから、大阪では万国博覧会が開かれ、日本は先進国の仲間入りを果たすべく、東京の街も一気に近代化されていきました。霞が関ビルディングが建ったのもそういう頃で、このビルが竣工された時、私も外付けのエレベーターに乗ってビルをみてまわりました」。
すでに東京オリンピックが開かれた後だったが、東京の街はさらに加速するように変貌を遂げていった。高層ビルの窓から、志村も、林立しはじめたビル群を望んでいたのではないだろうか。
志村に話をもどすと、中学3年間はサッカー部、高校・大学の7年間はハンドボール部。ハンドボール部では、体育会漬けの日々を過ごしたという。国体選抜にも選ばれ、国際大会にも出場して日の丸を背負ったことがあるのだそうだ。
学力も高く慶應義塾大学を卒業している。
ところで、飲食についてはどうだったのだろう。志村の話を聴いていると、父の圭輔氏は、小さな頃から、次代店主にすべく教育をほどこしていたように思えてくる。
「そうですね。外食となれば、相当、いい店に連れて行ってくれましたね。子どもたちの味覚というものを育てたかったんだと思います。また大学4年生まで、年に1回は必ず家族旅行に行っていました。そんな旅行の記憶の一つですが、鴨川グランドホテルに行った時のことです。父は仲居さんの気配りに感心して、私たちに観ておくようにと。そういう父の気遣いなどがあったおかげで、いまの私があるんだと思います」。
小さな頃の初期教育。新鮮であるぶん、いまも鮮明にその時のことを思い出すことができるのだろう。圭輔氏はもう一つ布石を打っている。
「私は3人兄弟の長男で、妹と弟がいます。現在、弟は、取締役をしてくれていますが、弟は、綱八に入社する時に、『おまえは最高でも副社長か、取締役だぞ。それでもいいのか』とたずねられたそうです。『それでいい』という弟に、『では、兄を支えろ』といったそうです。そのおかげで、私たち兄弟はいまも協力し合って、綱八を育てることができているんだと思います」。
父というのはつくづく偉大である。
その偉大な父が倒れたのは、志村が、綱八に入社して半年経った頃である。慶應義塾大学を卒業した志村は、いったん富士銀行に入社するつもりでいたが、「腰掛け程度と思っているなら、最初からウチに入れ」という圭輔氏の言葉に従い、圭輔同様、大学卒業後すぐに「綱八」に入社する。
「当時、綱八としてはもっとも勢いがあった時で、30店舗ほど展開していました。ちょうど父が52歳の時です。そして、私が入社して半年後、父が倒れてしまうんです。幸い、命は取り留めたものの、後遺症が残ってしまいます。父のカリスマ性が、事業をひっぱっていたところもありますので、求心力がなくなってしまうのではないか、と経営陣は心配しました」。しかし、心配は杞憂に終わった。
「社員はだれ一人辞めることなく、それどころか、『若旦那を全力でフォローしよう』と、私の周りに集まってくれたんです。社員だけではなく、仕入れ先の魚河岸も惜しまず協力してくださって。私みたいな若造でもなんとか道に迷うことなく経営をつづけられたのは、そういう周りの人たちのおかげです」。
いまだに感謝が尽きない、と志村はいう。
「あの時、大学を卒業してすぐに入社しておいてよかったと心底、思いました。それまでもアルバイトをしていましたので、半年でたいていのことはできるようになっていましたし、社員との絆もできていました。ただ、ちょうど、9月に立川店、10月に大宮店のオープンがありましたので、その対応に追われまくりました。いきなり最前線に立ったようなものですから、もう必死です。そのなかで、周りの人たちから『商売とは何か』を学べたことが、いまの大きな財産となっています」。
圭輔氏は倒れてから半年後に復帰し、社長の席に座ったが、現場は、志村が取り仕切っていた。30歳ちかくになると、経営の中心も徐々に志村が担うようになり、39歳で正式に代表取締役に就任する。
1960年生まれの志村が39歳といえば、ちょうど1999年となる。バブル経済の崩壊と共にデフレが定着し、2000年にはいったんITバブルを迎えるが、飲食にとっては、高度成長期ほどの成長を望める状態ではなくなった。
外食というワードに「中食」というワードも加わり、競争も熾烈になる。「バブルが崩壊した後には閉店した店もある」というが、この激戦のなかにあっても綱八は比較的、堅調だったのではないか。
むろん、それは志村の手腕を抜きにして語ることはできない。改めて、事業経営についても伺った。
「経営は人である」と志村はいう。「経営は哲学から入るべきだ。心が大切である」ともいう。「経営は人」とう観点に立つと、「哲学」や「心」というキーワードも素直に耳に入ってくる。
「飲食店の経営は『付加価値経営』だと考えています。だから、デジタルの時代であっても、アナログな部分が大事なんです。人が汗をかいて、心をこめて接客する。これもまた、損得や利益だけを追及した経営からは生まれない発想です。そういう意味でもやはり、経営は人なんです。『人』を育成するためには、哲学がなくてはならず、心がなくてはなりません。企業にとって、理念が大事とされるのはそのためなんです。私たちでは、『クレド』によって理念を全社員で共有しています。『何のために働いているのか』。それを認識できるようにしているのです」。
もっとも時代によって、飲食店に求められることも異なってくる。特に、「綱八」のような老舗の名店ともなれば、尚更だ。
味がいいだけでは、もはや十分ではない。時代をみすえたサービス力の強化もその一つ。いまでいえば、外国人に対応するための語学力も大事となってくる。志村も、「外国人のお客様が増えているので、語学教育にも力を注いでいる」という。
そういう意味では、経営は人であり。その人を人として育てることはもちろん、時代に適合するよう育成することが、飲食店経営の根幹といえるのかもしれない。
今後の戦略も伺った。
「アジアに展開したいと考えています。去年、香港・上海・シンガポールを視察し、手応えを感じました。成長戦略は取るべきで、綱八でも新規出店は行っていきます。ただ、そのためにも人財です。人を育て、年に1〜3店舗のペースで出店を進めていこうと考えています」。
若者へのアドバイスも伺った。
「一度切りの人生です。一つでもいいから何かに夢中になり、誇れるものを手に入れてもらいたいですね。趣味でもいいし、ビジネスなら尚いい。うちでも、いま新卒採用に力を注いでいて新入社員の大半が新卒です。そのような若い人をみていて、根っこがある人が少ないな、という気がしないではない。根っこというのは、もともとあるものではなく、自らのちからではやしていくものでもあるんです。これは、どの時代でもおなじこと。太い根っこをはやすことができるように特に若いうちにがんばって欲しいですね」。
経営の根っこは、人。今回もまた「人」に熱い経営者に出会った。
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