株式会社ティー・ケー・ジー 代表 高木康政氏 | |
生年月日 | 1966年8月16日 |
プロフィール | 東京都葛飾区立石出身。3人兄妹の長男。高校卒業後、「辻調理師学校」に進み、1年後、同校の「フランス校」に入学。帰国後、「マルメゾン」「ホテル西洋銀座」を経て、再度、渡欧。有名店で修業を積む一方で、1992年にはヨーロッパでもっとも権威のある「ガストロノミック アルパジョン」で優勝(日本人最年少記録)、翌93年にはシャルルプルーストで3位入賞するなど実力を示す。1997年にフジテレビの人気番組「料理の鉄人」に登場したほか、TV出演も数多い。日本の洋菓子におけるトップランナーの1人である。 |
主な業態 | 「ル パティシエ タカギ」 |
企業HP | http://www.lplctakagi.jp/ |
高校を卒業するということ。それは、たいていの人にとって、大きな意味を持つ。それまでとは違って、自ら進路を決定することに迫られるからだ。
むろん、大学受験のみがまっとうな進路ではない。ただ親からすれば、それを勧めるのが、まっとうなことなのだろう。
高木の父もまた、大学を受験せず、菓子職人になるという息子の決断を聞いて、「馬鹿をいうな」と怒鳴られたそうである。それから、互いに口もきかない日々が続いたそう。そして1ヵ月たったある日、もう一度決断を尋ねられ、高木はもう一度、「フランス菓子をやる、と答えた」という。
高木にすれば、進路を決定するうえで悩んだ末の結論だった。しかし、父にすれば、唐突すぎたのだろう。空白の1ヵ月間は、息子の思いを試す時間だったのかもしれない。
息子の決意を聞いて、父もまた自らの決断を口にする。
「やるなら真剣にやれ」「フランス菓子をしたいなら、フランスに行ける学校はどこだ?」。「辻調理師学校」とすぐに答えはしたが、躊躇する思いがないわけではなかった。入学金など諸々の費用がいちばん高かったからだ。
しかし「そういう問題じゃない」と父。「ただし、一つ約束しろ。もしフランスに行くことができなければ、菓子職人を諦めて大学に進学しろ」と、言われたそうである。
どういう思いでそれを口にされたのか。息子の決断を「良し」とされたのか、それとも…。
ともかく「辻調理師学校」を出発点にして、いまや菓子職人の頂点に立つ高木の飲食人生は、こうしてスタートした。
高木は1966年8月16日、東京都葛飾区に生まれる。
父はサラリーマンだったが、祖父はワイシャツ職人で、親戚は、萩焼職人という職人家系でもあった。
高木家は、高木が小学4年生の時に東京の葛飾から千葉に引っ越している。当時は光化学スモッグが激しく、妹が喘息を患ったための引越だったそうだ。
高木自身は、東京でも千葉でも変わらず、熱心な野球少年だったが、その一方で料理も好きな少年だった。
「私の母は、モノづくりが好きな人だったんです。菓子も手づくりしてくれていました。当時は、マドレーヌを良くつくってくれました」。
そのマドレーヌが、高木の人生をある意味決める、小さな、それでいて大きなきっかけとなる。
「マドレーヌを焼くたびに、オーブンからバターのすごくいい匂いがするんです」。
匂いに惹かれるように高木も母のとなりで菓子づくりを手伝った。
当時の様子を、高木はHPにも綴っている。
<少年の頃、母に内緒でつくったお菓子><帰ってきた母から、勝手に火を使って、と叱られる><しかし、お菓子を一口食べた母から、おいしいね、と言われた>と綴り、<母から人を喜ばすことの素晴らしさを学んだ>と結んでいる。
「おいしいね」、優しい母の一言は、少年の胸をふるわしたに違いない。
「中学3年生のときに『菓子職人になる』と母には言うんです。でも、その時、『高校くらい出ておいたら』と母が言うもので、そのまま高校に進学しました」。
高木は、頑なというより素直な心を持っている。人の意見を素直に聞く人なのである。ただし、大学受験は、何度言われても頑なに断ったようではあるが。
母に菓子職人になると言うくらい菓子職人にも憧れていたが、野球も高木にとってはなくてはならないものだった。少し時を逆にもどし、中学1年時の話もしておこう。
「中学に入学したばかりの春です。練習試合があって。そう、ランナー3塁、2アウトの場面でした。私ら1年は、まず試合に出ないんですが、たまたまというか、私が代打に指名されて。3塁打をかっ飛ばしたんです」。
これが1年時の思い出。
「それからです。1年では私1人だけレギュラーで。のちにはファーストで4番を打っていました」。3年時には、県大会にも出場している。いつしかマドレーヌの甘い香りも、バターの香りも、土の匂いや汗の匂いに置き換わっていたのだろう。
ともあれ、そうした中学生活を終え、母の忠告にも耳を傾け、高校に進学する。
「私は、高校野球で有名な学校に進みたかったんですが、学校の先生が、『こちらにしておけ』ということで、『成田高校』に進みました。『成田高校も甲子園に出たことがある』ということでした」。
もちろん、高校に進学するなら、甲子園だ、と思っていた。それだけの、ちからもある、とどこかで信じてもいたのだろう。
野球漬けの日々は、望むところだった。
「ところがですね。練習場に向かう時にかぶっていた帽子(格好いいようにペシャンコにしていたそうだ)のことで、監督に怒鳴られたんです。しかも、ぶん殴られて…。私は、ぜんぜん悪気がなかったもんですから、向こうも腹が立ったんでしょうね。結局、そのことが原因で退部しました」。
退部、その瞬間、甲子園が消えた。
「殴られたことが原因で、耳鳴りになってしまったんです。それが、退部の直接的な原因です」。
だが、理不尽な大人の行為が許せなかったのも要因の一つだろう。
大人への反発。
「野球を辞めて。そう、こっちです」とアクセルをふかす真似をする。
それからは、父が、学校に呼び出されたことも少なくなかったそうだ。
「それでも、親父は、ひとさまに迷惑をかけていなければいい、というスタンスでした。内心はどうかわかりませんが、特に気にしている風でもなかったですね」とのこと。
父は高木にとって良き理解者でもあったのだろう。父という信頼できる大人の存在は、大人への反発で揺れ動く高木の青年期に、一つの重石となっていたのではないか。
反抗か、それとも、甘えか。
それもまたはっきりしないまま、高木の高校時代が終わろうとする。
高校時代が、終わる。その事実は少年たちに、少なからず「将来」という2文字を考えさせる動機となる。高木も、3年生がスタートすることになって、つるんでいた友人らと、「そろそろ、勉強でもするか」と、思い立ったように話あったそうである。
「もともと、勉強ができないわけじゃなかったから、いったん勉強をはじめるとみんないい成績で。いい大学にも進学しましたよ」。
ただし、高木本人は違う。
「そういえば、高校3年の夏にみんなで、記念だと言って、八丈島に行ったんです。不良みたいな恰好は、それで終わり。遊び〆みたいなものでした」。
八丈島から舞い戻ったとたん、不良少年のすべてを向こうに置き忘れてきたかのように、髪型から制服まで、高木らは普通の学生になった。
「先生が何かあったのかと、真剣に心配するくらいでした(笑)」。
もちろん、ふつうのスタイルになったとはいえ、進路が明るくなるわけではない。
「私は、友人たちのように大学進学だけがすべてだとは思えなかったんです。祖父や親戚の人がものづくりをしていたように、そういう『ものづくり』の遺伝子が流れていたんでしょうね。最初は、飛行機の整備士を目指しました。ただ、調べるとこれが意外に大変で。それで今度は、通関士を目指しました。職人ですよね。ところがこっちも、国家試験は年に1度しかなく、もう終わったばかりだったんです(笑)」。
そして、最後の選択肢として「菓子職人」を目指すことになるのだが、背景には、すでに触れたように、小さな頃の母の一言と、母と一緒にお菓子をつくった思い出がある。
そして「冒頭の親父とのやりとりにつながる」のである。その時の決意をもう一度、お伝えする。「フランス菓子をやる」。18歳の決断だった。
希望通り、「辻調理師学校」へ向かうことになった高木は、ある日の夕暮れ時、1人、電車を乗り継ぎ、甲子園球場に向かった。以下はその時の話。
「偶然ですが、管理人のおじさんがいて、東京から来たんですが少しだけ入れてもらえないですかと頼んだんです。すると15分くらいならいいと言うことだったので、言葉に甘えて入れてもらいました」。
「はじめて観るリアルな甲子園です。すげぇな、と感動するのですが、その一方で、猛烈に後悔したんです。なぜ、野球を辞めてしまったんだろうと。もし、野球をつづけていたらと」。
「でも、その時に思ったんです。菓子職人はぜったい最後まで、何があっても最後まで追いかけてやる。何が何でも菓子職人になってやる、と、この時、誓ったんです」。
いつかは立ちたいと願っていた甲子園である。
3歳からはじめた野球への思いの残滓が高木を貫いたと言っていい。ただ、その思いは未練ではなく、次の道へ進む決意となって現れた。
菓子職人になる。そのためには、まず、フランスだ。
「辻調理師学校を選んだのは、フランス校があったからです。ただ、その当時は誰もが入学できるわけではなく、厳しい条件をクリアしなければなりません。欠席や遅刻は、絶対に許されず、学科試験も平均点以上で、何より実地試験を一発合格しなければなりませんでした。朝校門にいる先生のチェックに引っかかってもダメだと言われ(笑)」。
もちろん、やる気は満々。「絶対、フランス校へ行く」。
それがすべてのモチベーションになった。
「結果的に、フランス校への切符をいただきました。10人という狭き門でしたが、そのうちの1人に選ばれたんです」。
いざ、フランスへ。むろん、ただではない。のちに父親が「2年で、医大に行けるくらいの金を使った」と言っているから、バカにならない費用がかかったというべきだろう。
フランス校にいた時の思い出は、決して楽しい思い出ばかりではない。「人種差別も受けた」と語っている。しかし、それで決意が揺らいだわけではなかった。
「フランス校で半年、学び、向こうのお店で半年、修業します。当時、まだまだ人種差別があって、東洋人をすごく下にみていました」。1年後に帰国する。
入学から2年。留学から、1年。帰国した息子に、前述した通り、「2年で医大に行くぐらいの金を使った」と父は言い、それから未練がましく、「十分に遊んだんだから、いい加減大学受験しろ」と言われたそうである。
父にすれば、息子は期待通りの結果を残したが、それでもまずは大学という選択肢を捨てきれなかったのだろう。
しかし、高木本人に迷いはない。「何を言っているんだ、ここからが勝負だろ」と言い切った。
ともあれ、そういう風に父に言うのだから、自信がないわけではなかったが、まだ出発点に立ったに過ぎない。
ここからが本格的な修業時代の到来と言っていいだろう。
「最初に、大山栄蔵さんの『マルメゾン』で働かせてもらいました。つぎに、東京ドームホテルの総料理長、鎌田昭男に紹介いただいて、『ホテル西洋銀座』に就職することになります。ただ、何か違うな、と思っていて。そんな時に鎌田さんから、『大山みたいな個性的な店にいたんだから、もっと違うとこに行くか、金貯めてヨーロッパへ行けよ』と言われ、視界が広がりました」。
「当時、私にフランスにはあまりいい思い出がありませんでした。人種差別というか、はっきりといえば、腹が立っていた部分もあって。この時には、それが逆にモチベーションになって、『よし、フランスの奴らをギャフンと言わせてやる』と、1年で150万円お金を貯め、もう一度、今度は個人で、フランスに渡ったんです」。
フランスから帰国し、もう一度、フランスに向かう。一度目は、向こうに行くことが目的だったが、今回は、違う。「フランスをギャフンと言わせる」という目標がある。
どこまで通用するかわからないが、力を試す武者修行が始まった。
2度目の渡欧では、フランスだけではなく、ベルギー、ルクセンブルク、3ヵ国を渡り歩いた。有名店で修業を積み、のちには自ら有名店でシェフを務める。
その間、ヨーロッパで最も権威のある「ガストロノミック アルパジョン」で優勝。日本人では最年少記録だった。また、「シャルルプルースト」で3位に入賞している。
それら情報は、すぐに日本にも伝わった。「フランスにすごい日本人がいる」と噂になったほどだ。
ちなみに、高木本人も、「優勝して人生が変わった」と言っている。
コンクールで高木が披露した飴細工の新技法は、高く評価され「ローズジャポネーズ」と呼ばれるまでになった。いまでも現地の学校では、その名が使われているそうだ。
1995年、幾つもの実績を引っ提げ、帰国した高木は、日比谷「レ・サヴール」のパティスリーシェフに就任する。武者修行は、終わりに近づいた。
これからのちの高木については多くの方がご存じだろう。
1997年、「料理の鉄人」クリスマスデザート対決に出演。これを皮切りに、TV出演も増え、1998年、NHK「トップランナー」に菓子業界若手NO.1として出演。1999年、TBS「美食の宮殿」世界の7人、「たけしの誰でもピカソ」「どっちの料理ショー」などに出演している。
1998年には、NHK「世界芸術菓子杯」モナコ大会に日本代表として出場し、入賞も果たした。2000年も引き続き、「チューボーですよ」「運命のダダダダーン」などに出演。
そして、2000年、ついにオーナーシェフとして「ル パティシエタカギ」をオープン。2002年にも「ル ショコラティエ タカギ」をオープンしている。
むろん、さまざまな誘いもあった。ただ、軸はぶれない。「菓子職人」、それがすべてのスタートであり、向かう先である。
日本生命に入り、経営面も勉強した。独立するためには、職人であり、経営者でなければいけない。これが持論でもある。
上に挙げた独立は2000年、33歳の時のことである。
「ある大手の企業さんからいっしょにやろうというお話が沢山あったんです。その時、フランスで知り合った、ある都市銀行の役員の方から、『おまえ、そんなことのために帰ってきたんじゃないだろ? 好きなお菓子をつくりたいんだろ』と言われ、すべての迷いが吹っ切れたんです」。
好きなお菓子をつくるため、高木の新たなラウンドがスタートする。
それが2000年だった。
フランス、武者修行の果てに。高木は、一つの成果を手に入れたことになる。
むろんこの店は、大繁盛店となる。
その後も、高木は、いくつもの店をオープンする。だれの目にも、「成功」という二文字しか映らない。だが、決してすべてが順風満帆だったわけではなかったそうだ。
「高い授業料を支払うこともあった」という。だからといって、それらが高木の名を傷つけることはない。
「アジアの外国人の従業員も頑張っていますよ」と高木。
「私もたぶんフランスに行った時はあんな目をしていたんでしょうね」といって目を細める。
「素直でポジティブな子は伸びる」というのが高木の経験から生み出された鉄則の一つ。高木の考えには、もう国境というものは無いかのようだ。
高木自身も、ただの菓子職人ではなくなっている。
高木の指導の下、コンクールで賞を獲ったスタッフも数少なからずいることだろう。
ただ、高木が「洋菓子」をつくるのは、賞のためでも、なんでもない。
「おいしかったね」という一言をいただくため。
それは、あの時から、今も変わらない。
母の嬉しそうな顔が、今も菓子職人、高木の根っこにある。
19歳辻フランス校在学。 右:ポールボキューズ |
25歳「オーバーワイス」記念写真 | アルパジョン表彰式 |
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