株式会社ワインカフェカンパニー 代表取締役 東浦眞也氏 | |
生年月日 | 1972年5月14日 |
プロフィール | 高校卒業後、大阪ヒルトンホテルに入社。フード&ビバレッジ部門に配属され、ルームサービスを担当。花形であるスカイラウンジでも勤務し、ヒルトン流のサービス・マネジメントを体得する。5年後、先輩に誘われるまま、とある企業に転職。飲食部門にて手腕を振るい不採算店の黒字化などを達成するが、一方で挫折も味わい退職。ふたたび先輩の誘いを受け、上京。マネージャーとして新店を次々にオープンさせるとともに、求人サイト「求人JP」の立ち上げも主導。のちにこの事業を買取り、独立する。「ワインをくつろぎながら、気軽に楽しく、飲める店」というコンセプトに自らも飲食店を開業し、2011年12月、ワインカフェカンパニーを設立。自身は「ソムリエ」の資格も持つ。フランチャイズ展開をめざす一方で、社員1人1人に専門のビジネスコーチをつけるなど、人材育成にも注力しているのが特長である。 |
主な業態 | 「ワインカフェ」「串焼き わか」 |
企業HP | http://winecafecompany.com/ |
1970年、大阪市吹田市で「万国博覧会」が開催されると同時に、吹田市はニュータウンとして多くの人口を抱えることになる。
「千里ニュータウン」という名称もついた。
「ニュータウンには戸建ての一軒家や文化住宅、公団などいろんな層の人が混在していた」と東浦。東浦は、万博が幕を閉じた翌年の1972年にこの千里ニュータウンの一角で生まれている。
「父親は公務員。姉弟は3人で、姉が2人いました。小さい頃は17時45分には両親→父が帰って来て、18時に夕飯を食べるのが当たり前だった」と東浦はふりかえる。東浦家は、職員専用の宿舎に暮らしていたが、周りには億はくだらない大きな家もあり、たくさんの公団住宅も建っていたそうだ。
いろんな人が住んでいたのもそのためで、幼馴染や同級生には、たとえば関西でも屈指の総合病院医院長の息子さんもいたという。
そういうさまざまな家庭の少年たちと野球チームでいっしょになり、ポジションを争った。
「小学1年生から、父親がコーチを務める軟式の野球チームに入りました。けっこう人数が多く、おなじポジションに3〜4人の選手がいて、A〜Cまでわけられていました。練習を休むとレギュラーを下ろされてしまうので、休めません(笑)。盆や正月に旅行にいくぐらいで…。」
3年生から公式試合がはじまり、以来、小学校を卒業する時まで、俊足の左打者として1番を打ち、セカンドを守っていたそうだ。チームの成績をたずねると、「最高で」と断りながら、「地域2位」と言う。一つ下の代が強くて1位となっているそうだ。ちなみに、学年はちがうが対戦したこともある、とあるチームに元ヤクルトの宮本慎也選手がいたそうである。
小学6年まで野球をつづけた東浦だが、中学生になるとバスケットボールに転向する。野球は6年つづけたが、こちらは半年で退部した。
2年の春には、仲のいい友人と2人してテニス部へ入った。
だが、こちらも水にあわなかったようだ。「基礎練習しかやらせてくれない」という理由で退部している。5月の終わりくらいになると、今度は2人して水泳部に入部する。
あっちへいったり、こっちへいったりいそがしい。
ところが、この水泳部が水に合った。
「最初に先生から、『春は涼しいからテニスで、夏は暑いから水泳か』と言われました。そういうつもりでありませんでしたから『ちゃんとやります』と、言ってしまうわけです(笑)」
言葉通り、猛練習にも耐えた。夏休みには、毎日10キロも泳いだそうだ。
「女子ばかりのクラブだったので、知り合いを誘って、男子部員を10人ほど確保しました。これが先生たちに評価され、3年生の時には部長に選ばれました」。
もともと運動神経に恵まれている。やったこともない50mバタフライで「市の大会に出場し、決勝まで進んだ」とのことだ。
「当時はまだ規制がなかったので、ドルフフィンキックで半分以上まで行って、あと2、3回だけ、バタフライしたらそこがゴールでした。それで、決勝まで行ってしまったんです(笑)」。「ところがそのあと『予定があるから』と言って、ツレと喫茶店へ。顧問の先生が、私を探すために、走りまわっていたということです」。
こちらはいまだに笑い話のネタの一つになっているそうだ。
なんだか、有名人が多い。宮本選手が対戦相手にいたことはすでに書いたが、今度は高校時代の話である。
中学を卒業した東浦は、隣の茨木市にある高校へ進んだ。
「中の下ぐらいの高校だったかな。1つ上に矢部さんがいて、もう1つ上に岡村さんがいました」。矢部、岡村というのは、いうまでもなくナイティンナインの2人である。
公立高校だったが規則はそれほど厳しくなく、金髪やロン毛もOKだったそう。「制服の下もワイシャツじゃなく、白だったら、ポロシャツでもよかったんです」と東浦。
アルバイトもOKだったんだろう。私立に通う友人と2人、ゴルフの打ちっぱなし場でアルバイトをはじめた。
「タダで練習ができたんですね。だから、私たちは毎日のようにゴルフの練習をしていました」とのこと。どうでもいい話だが、その時のベストスコアは83くらいだそうだ。たしかに運動神経がいい。
このゴルフ場でのアルバイトは、高校を卒業しても、つづけた。東浦は、大学には進学せず専門学校に進んだが、それからもせっせとアルバイトし、無料でボールを打ちまくった。スコアもそのたまものだろう。
「高校時代からできればゴルフで食べていきたいと思っていたんですが、それほど甘い世界でもないことは百も承知していました。当時、『hotel』というTVドラマがやっていて、かっこういいなと。それで、専門学校の観光ホテル科のホテル専攻に進みました」。
「目標にしていたのは『大阪ヒルトンホテル』というホテルへの就職でした。このホテルではたらいている人も知っていたからです。結局、2年間、ホテル科の線も学校に休まず通いつづけ、成績も悪くなかったので、先生の推薦もありヒルトンに就職することができました」。
最初は、ノックするのもドキドキしたのではないだろうか。ヒルトンに入社した東浦は、希望の宿泊部門ではなく、フード&ビバレッジ部門に配属されルームサービスを担当させられた。
「ベルボーイがかっこういいと思ってホテルに入社したかったのでガッカリしました」と東浦。しかし、先輩からアドバイスを受け、「こっちもわるくない」と思い直したそうだ。ルームサービスといえば、映画にも時々、そのシーンが登場する。タキシードを着たボーイが客にワインを注ぐ、あのシーンだ。ただし、東浦は客室に入るまでに1年間もかかったという。「1年間は、廊下に出されたものを下げることしかさせてもらえなかったんです(笑)」。東浦が、特別、仕事ができなかったわけではない。ある意味、これがヒルトンホテルのレベルの高さを物語っているといえる。
「客層が、客層なので…」と東浦。ルームサービスとなれば、なおさらゲストの質も異なってくる。新人がいきなりサービスできる相手ではなかったはずだ。それでも1年とは長い。根をあげず良くつづいたものだ。
2年目からは客室にも入った。芸能人にもたくさん出会ったそうだ。「はじめてお客様の前でワインの栓を抜くとき、キャップシールで手を切ってトーションがロゼを開けてるのに真っ赤になった」とこちらを笑わせる。
「計5年、ヒルトンで勤務しました。勉強になった。特に最後の2年はスカイラウンジではたらくのですが、こちらでいろいろな経験を積むことができました。12月ともなれば最大ですが、1日に1000万円も動きます。このスピードといったら…」。
日商1000万円。目を丸くしたに違いない。
ともかく5年後、東浦のヒルトン時代は幕を閉じる。先輩が東浦を誘ってくれたからだ。
会社を離れてみて、初めてわかることもある。東浦が誘われ転職したのは、アミューズメントなどの事業をする会社のフード事業部門だった。先輩がこの部門の責任者として引き抜かれ、そのあとを追ったことになる。
「ヒルトンの時とは違って、店のなかがぜんぶ業務の範疇です。皿洗いもあるし、トイレの掃除もしなくちゃいけない。何よりたいへんだと思ったのは、スタッフがほとんどアルバイトなんです。社員じゃないから、モチベーションも低い」。「力技も通じなかった」といって笑う。
しかし、この会社に在職した数年間もまた貴重な経験となった。
「2年目に赤字の店を任されたんです。600万円が採算ラインにもかかわらず、400万円くらいしかいかない店でした。神戸のハーバーランドの外れにある店です。この店を再生させることたことで、評価もいただき、自信もつきました」。
「ブライダルの2次会に利用してもらっていたんですが、その数を増やしました。パーティの景品などをこちらで用意したりして」。
工夫もかさねた結果、時には以前の倍の800万円に届いたこともあるそうだ。
「いちばん嬉しかったのは、入れ替えたスタッフがみんな辞めなかったことですね」と東浦。この時、東浦は、いま片腕としてはたらいている仲間とも出会っている。
会社からも信頼され、たぶん将来の幹部としても期待された東浦だったが、次に配属された店で、かつてなかったようなカベにぶちあたった。
「もともと他社に運営を委託していた店だったんですが、うまくいかないので直営にするということで、私に白羽の矢が立ったんです」。
レストランブライダルを行っていた店だったそうである。スタッフは全員、受け入れた。そこが失敗の始まりなのだが、ブライダルという性質上、予約が先まで埋まっていたこともあって、「戦力となるスタッフをすぐに辞めさすわけにもいかなかった」のである。
この時、東浦は28歳。大半の社員が彼より年上だった。しかも、再生のために乗り込んだのは東浦1人。若造が、何しにきたのだという白い目を公然と向けられた。
「もう、あの時はね。心身ともに参りました」。
手も荒れ、肌も荒れた。思うようにいかないという苛立たしさ。50代の料理長は、東浦を歯牙にもかけなかった。
「この時が、いままでいちばんつらかった時期」と東浦は言う。もし料理長と打ち解けあえるようになっていたらずいぶん、将来もかわったことだろう。少なくとも、すぐにはこの会社を辞めなかったはずである。
業績があがらない。東浦は責任を取るようにして、会社を辞した。心もすさんでいたに違いない。だが、これが上京するきっかけともなった。
どうでもいいことだが、東浦が辞めるときに料理長の不正がみつかる。まっすぐな東浦とはもとから合わなかったわけだ。
ともあれ、東浦は会社を辞し、先輩に誘われるまま、新幹線に乗った。
東浦にはふたつの肩書がある。ワインカフェカンパニーの社長という肩書きと、株式会社フードループという会社の社長という肩書きだ。上京した東浦は、先輩とともに店をオープンし、年に1店舗のペースで出店を行っていった。
前職での苦労もむろん、財産になった。先輩の片腕としてゼロから店を、事業を立ち上げる。何の障壁もない。東浦にとって、まさに実力通りの仕事ができたに違いない。マネージャーとして敏腕をふるいつつ、ある程度の土台が出来たときに、新事業もスタートさせる。「求人JP」。いわゆる求人サイトの運営事業である。
「当時も、スタッフの採用が難しく、どうすればいいかと考えていた時に、じゃぁ、うちで求人のサイトをつくったらどうかという話になり、新事業として『求人JP』がスタートするのです」。
「仕組みづくりからすべて私がかかわりました。もっとも当時は社長ではありません。ただ、私がこちらの事業に専念した頃から、もう一つのフード事業のほうが悪化しはじめたんです。それで、まだ軌道に乗らないこちらの事業を私が買い取ることにしたのです」。
これは、ワインカフェカンパニーを起業する以前の話である。
しかし、現在は「もう任せっきりで」と東浦。株式会社フードループの社長も務めているが、完全に「ワインカフェカンパニー」に軸足を置いているという。
では、「ワインカフェカンパニー」はどういう風にできたのだろう。
「私は、当時、ソムリエの資格も持っていたので、資格取得の講座も時折、開いていたんです。少しずつ回数が増え、それで事務所を構えることにしたんですが…」。
それが「ここだ」と、取材先となった店の天井を見上げる。
「借りようとした事務所、それがここなんですが、店舗にしてもおもしろいんじゃないかと思って…」。
血が騒いだのかもしれない。
「ワインをくつろぎながら、気軽に楽しく、飲める店」というコンセプトで、ボトルワインが2980円均一の「ワインカフェ」を構想し、事務所にと思っていたところにその店を開いた。
これが、「ワインカフェ」のはじまり。
「ワインカフェカンパニー」の設立は、2011年12月となっている。
それから、取材させていただいた2014年、現在で、早くも8←16店舗の出店を実現している。東浦ならではのプロデュース力、ホスピタリティが、随所にかたちとなった店である。
最後に今後の展開も聞いてみた。
「いまいるスタッフには、将来、独立できるぐらいになってもらいたいと思って、1人1人に外部のコーチングスタッフをつけています。コーチの方には守秘義務があるので、どのような話になっているのかはぜんぜん知らないですが、コーチをつけてからみんな成長してくれて、喜んでいます」。
「直営はそれほど急激に増やすつもりはなく、FCで展開していくつもりです。今は北海道から沖縄までいろんなところからオファーを頂戴しています」。
この2つの話を統合すれば、スタッフの育成+FC出店が今後のカギになるようだ。
「もう一つ、構想があるんです」と東浦。
「実は、酒販免許を取得して、ワインの輸入と販売を手がけていきたいんです。おいしくて、手頃なワインを直接私たち自身で探すようなことができればおもしろいと思っています」。
なるほど、たしかにおもしろくて、楽しみだ。
飲食はいま店だけですべてを語る時代ではない。食材や商品の流通を含めた、店づくりが人気を呼ぶ。その意味では、ワインの輸入を手がけることで、また一つワインを提供する楽しみも、プロが選択したワインを楽しむ、愉しさも広がるような気がする。
「ワイン」。いつのまにか、それが東浦のキーワードになった。たしかに、熟成されたという意味では、共通点が多い。
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