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第428回 株式会社ラムラ 代表取締役 村川 明氏
update 14/04/08
株式会社ラムラ
村川 明氏
株式会社ラムラ 代表取締役 村川 明氏
プロフィール 北海道に生まれる。高校卒業後に上京。大手居酒屋チェーンに就職し、史上最年少で、支店長に就任する。独立は29歳の時。以来、1人で「ラムラ」という多業態飲食チェーンを育てる。お客様の「健康」、食の「安全・安心」を第一に掲げ、食材に対するこだわりが強い。現在、生まれ故郷である北海道の観光大使も拝命している。
主な業態 「土風炉」「日本橋亭」「京町家」「鳥元」「過門香」など
企業HP http://www.ramla.net/

北海道の農家にて。「農業」が好きな少年が生まれる。

村川氏は、北海道のオホーツク海に面した小さな村で生まれた。父親はもともと農家をされていたそうだが、親戚が行っていたコンクリートの事業を手伝われるようになり、のちに社長まで務められるようになる。
村川氏は、11人兄妹の8男坊。広大な農地、豊かな自然、人と人の息遣い、それらすべてにみちた世界のなかで、村川氏はいつしか大きな心を育てていった気がする。
「父は、農業やっているくせに、農業がきらいだった(笑)。もともと頭がいい人だったから。それで、私が中学の頃かな。親戚の会社の手伝いをするようになる。その会社は、北海道の深川というところにあったんです。こちらも小さな町ですが、それでも私には都会に思えたんですね」。
村川氏が深川市に移り住んだのは、中学1年の時から。ところが、便利なはずの都会の生活に1年で飽きてしまう。
「スイッチを入れれば、ごはんも炊けるでしょ。マキもいらない。便利だけど何もすることがない。農家が、すごく恋しくなった(笑)」。
父に許可をもらい、もとの農家へ。
「あの時はさぁ、朝がくるのがたのしみでね」。
北海道の朝はいうまでもなく寒い。オホーツクから吹き付ける風は刃のようだったろう。しかし、少年の村川氏は、その朝がくるのを何より楽しみにしていた。
「都会に行って改めて、農業の仕事のたのしさに気づいたからでしょう。農家の仕事がとっても好きになっちゃうんですよ」。
野良仕事、牛や羊の世話。
「首筋をなでると、可愛い顔をする。そりゃ楽しいですよ」。牛にも、馬にも、羊にも接した。どこまでもつづく広い大地。畑を耕し、手にはいくつものマメができる。村川氏にとって、何の問題もなかった。冬の凍えるような寒さもバネにしながら、氏は強い心を育てていったに違いない。

人生、思い悩む。

転機はいつですか? という質問に村川氏は、高校時代だと言った。一つは、父の息子というだけで周りの大人たちが愛想笑いをする、そんなシーンに出会ったことだという。
「当時、父は工場長だったんですね。その息子というだけで言葉は悪いが、みんなヘコヘコしていた。そういうのを観て、将来、偉くならないといつも頭を下げておかないといけなくなるって思ったんですね」。
むろん、まだ何をするかは決まっていない。ただ、偉くなろう、と思い立ったのはその時だそうだ。ただし、当時の村川氏は、なかなか周りの生徒たちと交流が持てないタイプでもあった。
「発音がおかしかったんです。言葉がなかなか出てこない。だから、周りと話すこともしなくなってしまうんです」。
思春期。友だちの輪からポツンと一人離れ佇んでいる。いまの村川氏とはイメージがずいぶん違う。
「悩みましたよ。悔しくて、情けなくて」。人生についても、この時から思い悩んでいたそうだ。高校1年と2年の頃には本を読み漁った。どうすれば、いいのか。そのヒントが欲しくて。
心が決まったのは、いつだったろう。
「ある時、とつぜん、このままでいいのかって。何も言えないまま社会にでるのかって…」。
己に向かって『冗談じゃない』と叫んだ。
「それからです。上手く言葉が出ず、話すこともままならないんですが、それでもどんどん話しかけるようにしたんです。そうこうしているうちに、生徒会長にもなって」。会長時代には校長先生に直談判して「制帽も廃止にした」という逸話も残している。
スイッチが入れば、村川氏は強い。
「何のために生まれてきたのか、という答えにまで近づいた」と言っている。
宗教にも、学生運動にも興味がわいた。
高校卒業。
「ほんとうは大学に行きたかったんだけども、経済的にもそういうわけにはいかなかった。親父が大手の企業を紹介してくれたんですが、どうも違うように思って。手に職をつけよう、一旗揚げようと東京に出てくるんです」。

上京。チェーン店にて、戦う。

村川氏が、就職先に選んだのは、大手居酒屋チェーン店だった。配属されたのは横浜にある店だった。若い血が騒いだ。
「支店長というのがさ、ちょっとやっかいな人でね。営業中は寝ているわ、起きたら怒鳴り散らすわで、その人がイヤで先輩たちはどんどん辞めていった。先輩らがいなくなるもんだから、入社したばかりの私が上に上になって、直接、怒鳴られる立場になっていくんです」。
「こんな奴に人生狂わされてたまるか」と怒りにみちた。「それでね、人事部に直接電話をして、『あの人の首を切らなきゃ、オレたちが全員辞める』って言ったんです」。
生徒会長もやった。学生運動も参加した。政治にも関心がある。まだ18歳だったが、そう簡単に引き下がらない。
結局、村川氏たちの言い分が聞き入れられた。1年後、村川氏は副支店長になり、22歳の時には、支店長となっている。むろん、最年少での抜擢だった。
当時の仕事の話も伺った。「いまじゃ考えられませんが、休みなんてない。週に1回、あるにはあるんですが、ミスをすると休みなし(笑)。ミスをしなくてもちゃんとした休みは3ヵ月に1回あるかどうかでしたよ」。
毎日、毎晩、店に入り、喧噪のなかで働いた。若いとはいえ、肉体的にも辛かったのではないだろうか。
「ただ、私はちょっと変わっていたんでしょうね。休みというものがない農家をやっていたこともあったんでしょうが、みんながいうほど苦労だとは思ってなかった。ある意味、これもまた修業だと割り切っていました」。
早く力をつける。それが、村川氏の選択。
「転職ということをすぐに考える人もいますが、転職すればまたゼロからでしょ。そういう時間が私にはもったいなかった。だって、考えてみてください。たとえば、上の立場にならないとわからないことっていっぱいあるでしょ。だから、私は嫌でも歯を食いしばて頑張ったんです」。

「ラムラ」のはじまり。日本へ、そして世界へ。

23歳の時、本部長の辞令が下りる。不採算店の立て直しもした。スタッフの再起も図った。そういうことすべてが村川氏の力となっていった。
30歳で独立という青写真も描いた。
「でも1年早まってしまいました。辞めようとしているのがバレちゃったんですね。それで、亀戸の支店に飛ばされ…」。
亀戸の支店で1年間頑張った。翻意もうながされたが、心は変わらなかった。そして、予定より1年早く、独立。29歳の時だ。
1号店は、もといた居酒屋の加盟店だった。しかし、どうもあわないと思った。せっかく独立したのだから、という思いもあっただろう。
どれだけ、自らのちからが通用するのか、勝負に出た。
村川氏、オリジナル。それが、いわば「ラムラ」の始まりである。
地元をPRする、という思いもあったそうだ。
「ラムラ」のホームページで確認してみると、1号店オープンは1980年6月となっている。1982年には、会社設立。1986年から大型店に方向転換。2年後の1988年に「株式会社ラムラ」に社名を改称している。それからの躍進ぶりは「凄い」の一言だ。
首都圏中心にマルチブランドを展開。多数の店舗を出店している。現在では、ブランドだけでも41。日本だけではなく、海外にも進出。北米にも進出している。
「北米には2011年の4月に初めて出店して、翌年に2号店、さらにその翌年に3号店を出店し、今春にはパームスプリングスに、夏にはサンフランシスコに、秋にサンディエゴにオープンを予定しています」とのことだ。
いまの巷の主流は、何と言っても東南アジアだが、そこも違う。食文化がある意味成熟した、エンターテインメントの国へいきなり挑戦する、これもまた村川流の戦略といえるかもしれない。

食を通して、産地と消費者を結ぶ仕事。その最前線にて。

村川の話し言葉には年齢を感じさせない。やりたいこともまだ数多くあるからだろう。
ラムラには、「ダイレクト産食」という言葉がある。村川氏の発案だ。ダイレクトに産地と消費者を結ぶ、ラムラのミッションを、この一つの言葉によって表現した。
「食材の8割が国産だ」と村川氏はいう。当たり前の話だが、国産かそうでないかで、原価はずいぶんと異なる。しかし、価格は意に介さない。お客様の「健康」、食の「安全・安心」を第一に考えているからだ。
もっともそれだけではない。日本の農家への愛情もあるに違いない。
北海道の観光大使を拝命しているが、現在、村川氏のもとには多くの県の役人たちや県知事などが訪れる。
「今週もある県の方がいらっしゃいます。その県の食材をPRするためです。どんどんやればいいと言っているんです。日本のいいものをみんなで育てる。食は都会のなかで唯一、毎日接することができる自然なんです。自然のものを食べて元気になる。そして、産地も豊かになる。そういう関係を、私どものいうダイレクト産食は、つくっていけると思っているんです」。
ちなみに4年前から北海道で、「ラムラ」は農業事業をやっている。農業が好きという村川氏の血がまたまた騒いだのだろうか。
ともあれ、自然の恵みを都会へ、そして人の心のなかへ。飲食のなかに、村川氏のような経営者がいる、そのことだけで我々はとても、安心できる気がする。
最後に今後の展開を列挙しておこう。
村川氏は、住まいが近いという青山の国際連合大学で毎週末開催されている「Farmer’s Market」に顔をだし、良いと思う生産者に声をかける。「信頼できる生産者」を発見し繋がりを強化することも目標の一つである。食の安全についても、さらに強化した体制をつくる。そしてまた、北海道の海産物、農産物を扱う「北海道スーパーマーケット」構想もある。「現在も和食店の中で「手打ちそば」をやっているが、今後も本格的な「手打ちそば」を提供できる店舗を増やしていく予定だ。」
今後は、日本全国で信頼できる生産者を探し、そのなかでパートナー経営を模索する。
「一律の顔を持ったチェーン店の時代じゃない」と村川氏。チェーンのなかにあっても、それぞれの店が、「独自の顔」を持つことが、大事なのだという。それがパートナー経営で、実現されようとしている。
余談だが、社員に対しても村川氏は熱い、熱い。社員だけではなく、家族ぐるみで付き合う。
春、秋はマラソン、夏は富士登山。ファミリーバーベキューやゴルフコンペもあり、家族みんなも参加できる。
そのファミリーの真ん中で、村川氏は、ニコニコと笑っているに違いない。たぶん、社員みんなが家族と一緒につどい楽しむ。その風景もまた、村川氏が追い求めてきたものだと思うからだ。

思い出のアルバム
 

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