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第429回 株式会社フランスフーズ オーナーシェフ 岸本直人氏
update 14/04/15
株式会社フランスフーズ
岸本直人氏
株式会社フランスフーズ オーナーシェフ 岸本直人氏
生年月日 1966年12月29日
プロフィール 高校卒業後、コックに憧れ、ステーキのスエヒロに就職し、飲食の道に入る。のちに「ラ・ロシェル」のムッシュ坂井に会い、師事する。1994年に渡仏。2年間の間に、有名店を渡り歩き、実力を高める。帰国後、銀座「オストラル」をスーシェフとして立ち上げ、2001年より同店シェフに就任。2006年11月に、南青山にレストラン「ランベリー」をオープンする。そして今年の4月下旬に京都店をグランドオープン予定。
主な業態 「L'embellir」
企業HP https://www.lembellir.tokyo/

兄は走り屋。弟はTVの料理番組が好きなお調子者。

岸本は1966年12月29日、東京千駄ヶ谷に生まれる。2人兄弟の弟で、5歳上の兄がいる。父はカメラマンで、兄も現在、カメラマンをされているそうだ。
岸本は、菅原文太の「トラック野郎 一番星」が大好きな少年だった。
中学生になると料理が趣味となり、「天皇の料理番」や「料理天国」といったTV番組を見逃したことはなかった。
「お調子者だった」と岸本。「勉強はやらなかったですね。そもそもジッとしていることができない性格でした」という。
少年時代の兄は走り屋だったそうで、岸本も集会に何度か連れて行ってもらったことがある。兄の仲間も走り屋だった。当時のことについて岸本は、「自分は小さな頃からワンパク小僧だったけど、兄貴やその仲間の人達は、とても優しくしてくれました。色々連れていってもらえたことも覚えています。」と振り返っている。そして続けて、
「うちの両親は『人さまに迷惑をかけなければ自由にやりなさい』という方針でした。だからではありませんが、私も、兄も結構、好きにさせてもらっていました(笑)」と岸本。
団地住まい。友達はたっぷりいる。小学生の4年生から兄と手伝って新聞配達もした。学校では、半袖半ズボン賞を取ったこともある。
少年野球とサッカーに精を出した。代わりに、勉強はやらなかった。やればできると思っていた。そして、中学生になり、「天皇の料理番」や「料理天国」を食い入るように観るのである。華麗な料理の世界にどんどん魅了されていった。
卒業式では、仲間達が荒れないように兄に見回りを頼んだこともある。
「中学を卒業すれば、調理師学校に行くつもりだった」と岸本。しかし、母親から、せめて高校くらいはと諭されて、高校受験に切り替えた。だが、時、既に遅し。
たいていの高校の受験日は過ぎていた。
「結局、親の薦めもあって、長野県にある高校に進むことになったんです。2次募集をしていました。生徒が集まらないで困っているような学校だったんです。試験も、面接だけで、たいていの受験生がなんなく合格です」。

少年から大人へ。長野県のある高校での3年間。

「クラスは2つあって、ほぼ全員、寮生でした。6時30分に起床。その後1.4kmのランニング、準備運動、体操と続きます。冬は7時起床。風呂場から部屋まで歩くと、髪が凍りつくんです」。
日曜日は、マラソンが無かったが、点呼と門限はあった。
「初めは地獄でした。中学時代は、自由気ままにやってきたのが、いきなり団体生活で掃除、洗濯、身の回りの事は全て自分自身でやらなければならなかった」と岸本。
全く知らない人との共同生活。同じ学年でも年上が多かった。しかも全員、ごつい体をしていた。風呂に入った時にも、唖然とした。目の前の同期の体に刃物で切られた痕があったからだ。
先生たちも尋常ではない。熊みたいな人達ばかりだったそうだ。
「私らは常時監視されている様なもの。自由もない。朝が来れば強制的に走らされ、点呼を取られる。日曜日まで門限があって…。停学者、退学者は続出です」。
「私も、あの時はいつ抜け出そうかとそればかり考えていました。でもね。今になれば、逃げださないで良かったし、何より、あんな凄い学校に入れてもらえてよかった。親に感謝です。ぶち込んでいただいて本当に感謝、感謝」。
矯正施設の様な高校だったが、多少は、自由も利いた。冬はスキーに明け暮れた。バイトもした。夏はパチンコ店にも顔を出した。
ともあれ、長野の高校で過ごした3年間。それは、少年岸本が大人になる3年間でもあった。

捨てる神と、拾う神。

「中学の時もそうでしたが、高校を卒業する時にも、目標はコックさんです。中学の時は調理学校へと思いましたが、今回は、就職です。最初に受験したのは、プリンスホテルさんでした」。
岸本が18歳の年だから1985年。時代はバブルの兆候が始まった頃である。「あの頃は、ホテルも人気で、すごい人だかりでした。ともかく、面接と筆記試験です。いずれも試験が終わった瞬間、落ちたと確信しました。座る態度からして、全然ダメでした。面接官の方から『君は胃下垂か?』とも言われてしまうくらいで」。
尻をずらし、足を投げ出す。面接を受ける態度ではなかった。
「まぁ、舐め切っていたんです。合否はどちらでもよく、プリンスホテルを受けたという事実だけで満足だったんです」。
プリンスホテルでは、もう一つ、思い出がある。
「受験の時にカレーライスを食べたんです。これが凄く美味しくて、おかわりしてしまいました(笑)」。
数日後、通知が届いた。予想通り、不合格。
ただし、捨てる神あれば、拾う神ありだ。
「中学の時、母に連れて行って貰ったステーキレストランのことを思い出しました。目の前で焼く鉄板スタイルに凄い憧れがあったんです。その想いがあり今度は『スエヒロ』を受験することにしました」。
こちらが、拾う神だった。試験を通してくれただけではなく、人生にも大きな影響を及ぼした。無論いい意味で。

実践を通し、料理のイロハを知る。スエヒロ時代の話。

「最初の配属先は、調布店でした。私の料理人生は、ここからスタートしました」。
ただし、「スエヒロ」といっても岸本が配属された調布店は「スエヒロ5」といって、いわゆるファミリーレストランだった。
岸本が憧れたステーキ店とは、少し様子が異なる。ただし、そんな違いにかまってはいられなかった。とにかく忙しい。真夜中の2時まで、ひっきりなしに注文が来た。厨房は戦争だった。
「今では、問題になるかもしれませんが、当時は長時間労働も当たり前でした。だからこそ、勉強になった気もします。おまけに、当時のチーフが何の因果か、プリンスホテル出身の方だったんですね。さすが、ホテル出身の方だと思いました。私は、この方から料理のイロハはもちろん料理人の志を教えていただきました」。
一方、「スエヒロ5」はファミリーレストランだが、店内でゼロから料理するスタイルだった。その点でも、恵まれていた。
「グラタンもベシャメルソースをかけて一から作っていました。ピザも一からです」。
仮に、ホテルに就職していたとしたら、かなりの下積み期間を覚悟しなければならなかったはず。それに引き替え、「スエヒロ」を選択したおかげで、岸本はすぐに食材に触れ、実践を通し、料理を学べたのである。
もっとも才能もあったのだろう。調布店で1年半経った時、チーフがワンランク上のフランス料理を扱っている店舗へ推薦をしてくれた。
「スエヒロのなかでランクが上の店でした。全国で選ばれた6名のみという小さな枠に入れてもらえたんです」。
今、思えば、鼻高々になっていた。お金も貯まり、浮かれた。「それが落とし穴だった」と岸本は、反省の色を浮かべた。

紹介された料理人は、「ラ・ロシェル」のムッシュ坂井だった。

「体調を崩して、スエヒロを退職した後は、兄の友人の掃除屋さんで働きました。最初は、2週間だけのつもりだったんですが、結局8ヵ月働きました。長野での高校時代、先生に、『勉強はできないなら、掃除だけはちゃんとやれ。目立つ所なら誰でも掃除できる。人間性が出るのは四隅だぞ』と言われ、当時は何言ってんだよ。とバカにしていましたが頭には残っていたんです。それを実践しました」。
そして、岸本の仕事ぶりに誠実さを観た社長が、一緒にやらないかと声をかけてくれた。しかし、スエヒロは退職したが、コックの道を諦めた訳ではなかった。
誘ってもらったことで、逆に気持ちが固まった。と岸本。
「コックの道は捨てきれない。だから、もう一度リスタートのつもりで、近くにあった地中海料理のレストランに就職したんです。ここで、またまたいい先輩に出会います。私は、本当に恵まれていると思います。その方は、料理長を務めたこともある腕の立つ料理人でした。でも、立場は私同様、バイトの身でした。立場が同じということで、気楽さも手伝って、仕事が終わってから、その人を質問責めにしていました」。
「当時、凄く優しい人で、嫌な顔一つせずに何でも答えてくれました。実は、その方から『ラ・ロシェル』のムッシュ坂井さんを紹介してもらったんです。ええ、まだTVには出ていない時ですね。でも、当時から『ラ・ロシェル』の坂井さんといえば、料理人の中ではビッグネームの方でした」。

鉄人は開口一番、「彼女はいるのか?」と問いかけてきた。

「彼女はいるのか?」
それが、ムッシュの最初の一言だった。
どう答えればいいのか。
「正直に、います。と答えたんです。するとムッシュは、うんうんと頷いて『男は彼女がいるくらいじゃないとダメだぞ。魅力がある男になれ。人間を磨け』と言われ、この人についていこうと決心しました」。
もう一度、言うが当時から坂井といえば、ビッグネームだった。岸本も、「ようやく、この人に会えた」と武者震いしたと語っている。
雲の上のような存在のムッシュが目の前にいる。その時、いただいたランチの美味さは、いまだに忘れてはいない。料理名まですべて、暗記している。
憧れのムッシュに会って舞い上がっている岸本に対し、ムッシュのほうは、むろん冷静である。「明後日から、那須高原に行けるか」。いきなり、強烈なパンチを放ってきた。
「地獄が、始まった」と岸本。
「自分にムッシュを紹介してくれたその人が、一緒に那須に来ることになりました。以前の優しい時とは、全然違いました。あれは仮面だったのかと思うほどで、ともかく鬼の形相です。料理人になって初めて、厳しい師弟関係というものを知りました」。
岸本が地獄というのだから、相当だろう。高校時代の寮生活、そして、この那須の時代を岸本は「地獄」と呼んでいる。
「那須では相当しごかれましたね。そのしごきに耐えかねて、次から次へと人が辞めていきました。でも、ある時、私達に散々怒っていたその方から自分宛に電話をいただきました。『金の卵は1個でいいんだ』と。そのお言葉を聴いた時、この方にも心底ついていく決心をしました」。
ムッシュから、料理人の育成も任されていたのかもしれない。ともかく、虎の穴のような那須高原のレストランで、岸本はいっぱしの料理人に育て上げられた。ムッシュの付き人の様になったのは、その後のこと。
「どこへ行くにも一緒で、どこに行ってもムッシュのお弟子さんで話が通った」そうだ。
ムッシュらしい話も伺った。
料理の鉄人の話である。
「初め、ムッシュは出演を断っていらしたんです。『俺はマスコミの玩具になんかならない』と言って。ところが、TV局の人が持ってきた真っ赤なフレンチコートを着て、すっかりその気になっちゃったんですね(笑)」。

フランスの空の下で、途方に暮れた1日から、修業はスタートした。

ムッシュのもとを離れ、フランスに旅立ったのは27歳の時。29歳まで2年間、フランスで修業している。
「最初に向かったのはロワール地方です」と言いながら、渡仏した当時の話も聞かせてくれた。
「フランスに行くのはもちろんムッシュにも相談していました。アドバイスも受け、店も辞めさせてもらって、いよいよフランスでの生活がスタートという時、パリの空港に到着した時のことです」。
「『パリに着いたら、知人を迎えに来させるから』とムッシュは仰ってくださっていました。でも、待てど暮らせど、全然誰もいないし、来ないんです。あの時は、頭が真っ白になっちゃいました。偶然、通りかかった日本人のスチュワーデスさんにすがりついて電話の掛け方を教えてもらいました。『何かあればこの人に電話をしろ』と、事前にムッシュからメモを手渡されていたんです」。
「その方はムッシュの友人で、むろん日本人です。なんとか連絡も取れて、アパートの住所をアルファベットで教えてもらい、それをメモに書いてタクシーに乗り込んだんです」。
アパートに着いてからも、ひと騒動あったそうだ。
「フランスと日本では、階数の数え方が違うんですね。で、ここだと思うところから違う方が出てきて。もう、仕方がないと1階からインターフォンを全部押していきました。ようやく目的の部屋に辿り着いた時には、ヘナヘナになっていました」。
部屋に着いた後になって、ムッシュが待ち合わせの人へ送ったFAXが遅ればせながら届いたそうである。ともかく、こうして、華々しいフランス時代の幕が上がった。
このフランス時代を時系列でいうと、1994年に渡仏。まずロワール地方の「ラ・プロムナード」で修業を開始。次にパリ「フォーシェ」で。
最後にブルゴーニュ ヴェズレーの「レスペランス」で修業する。帰国は、1996年のこと。
この2年間で、「和」の食材への思いが強くなったと岸本はいう。
「フランスの料理だからといって、全てをいたずらにコピーするだけでは味気ない。もっと型にはまらないフランス料理を…それが、私の結論でした。その結論のなかで、『和』の食材に対する思いが強くなっていったんです」。
「もっと切れが良く、もっと軽い」というのが当時抱いた、イメージ。フランス人のシェフが、自ら美味しい食材を買い付けに出向く姿を目にし、「目指しているのはこれだと思った」とも語っている。
フランス修業について、岸本は最後にこのように述べた。
「フランスは最初の修行先がロワール地方、人口300人の小さな村でした。ラ・ロシェルは、渋谷の真ん中。何一つ不自由なく生活がきました。お腹が減れば、何時だろうがお店は、飲み会だの食事会だのといった具合に沢山開いています。しかし人口300人のフランスの片田舎は、そうはいきません。夜は閉まっているし店などない。そもそもカフェが一軒とパン屋さん、教会、あとは、働かせてもらっていた星つきレストラン、これだけです。だから最初の3か月は本当にきつかったです。ただ長野の高校生活の体験が生きました。ある程度しか、自由がきかなかったし、自分でなんとかする!というような癖がついていたんです」。
そう。長野での厳しい環境が岸本のぶれない原点を作っていたのだった。

ムッシュが待っていた。

帰国した岸本を待っていた人がいる。
ムッシュ坂井である。
「帰国してすぐにムッシュに声をかけていただきました。それが珍道中の始まりです」。
珍道中といってもメンバーが凄い。「道場さん、陳さん、そしてムッシュ。この3人で全国を回るんです。凄い料理のオンパレードでした。残り物は、全部私の担当です(笑)」。
人に恵まれている。しかし、その一言で全てを表現してはいけない気がする。
坂井という偉大な料理人に可愛がられたこと一つからも、「恵まれている」ことの裏付けや理由が推測できる。
それはさておき、いよいよ岸本の日本での動きが活発になる。銀座「オストラル」をスーシェフとして立ち上げ、2001年より同店シェフに就任する。
「オストラル」では、中村保晴シェフに出会った。恵比寿のタイユバン・ロブション出身のサービススタッフとも出会った。これらも全て財産である。
2006年11月に、南青山にレストラン「ランベリー」をオープンする。「ランベリー」では、日本の食材を特に意識した。
「フランス料理の伝統技法文化を日本の食材で表現したかった」と岸本は言う。「ここは日本なんだ」という強烈な思いがあったそうだ。
河豚の調理免許を取得したのも、その表れだろう。
「銀座小十」の奥田透氏、「龍吟」の山本征治氏にも師事した。
「日本料理の伝統や技術を教えていただきました」と岸本。「銀座小十」も、「龍吟」もミシュランから星を獲得する超名店である。
そして、築地には毎朝通った。信頼関係が物を言うことは分かっていた。
「八百屋さんもそうです。互いに信頼できる関係になってはじめて、良いものを仕入れることができる」。「良いものをお客様に届ける、その喜びは本当に大きいものがあります」とも。生産者に対する想いもムッシュから教わったことの一つ。
有名になった。そして、高校時代の時の教師が本を書いた。主人公は、岸本だった。

岸本から、若い方へのアドバイス。

最後にアドバイスをもらった。
「石の上にも3 年。己を買い被るなと言いたいですね。本気でやった世界は、本気でやった者にしか味わえないんです。お金を稼ぐのも、料理を作るのも見方によれば簡単といえば簡単かもしれません。それよりも、いかに自分が本気でやれるのか、それが一番大事なことだと思います」。
例えば、岸本のフランス料理には、オマールエビも、フォアグラも殆ど登場しない。定番の食材を使わない代わりに、知恵を絞る。
「つまり、予定調和というのでしょうか。『こうあるべき』というのに従っていては、そこに挑戦は無いんです」。これも本気の表れだ。
「本気になれる仕事を探そう」、これが岸本シェフからのアドバイスである。
インタビューの最後に、岸本は「天職にありつけて良かった」としみじみ言って笑った。岸本の足跡を追ってみて、確かにそうだ、と頷いた。
ちなみに、4月下旬に京都に新店を出すという。八坂神社の境内というから驚かされる。店名は「L'EMBELLIR 中村楼」。
「中村楼さんという本当に伝統ある老舗のお店に迎え入れていただいて、本当に幸せです。京都は憧れの土地。自分を奮い立たせ、ここで勝負できるのは本当にありがたい」とも語っている。
京都で味わうフレンチ。それは、「ニッポンフレンチ」というまったく新たな料理のカテゴリーとなるだろう。それは、「和」を尊ぶ、シェフ岸本にしかできない挑戦かもしれない。

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