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第43回 株式会社ワイズクルー・コーポレーション 代表取締役プロデューサー 山川博史氏
update 09/04/28
株式会社ワイズクルー・コーポレーション
山川博史氏
株式会社ワイズクルー・コーポレーション 代表取締役プロデューサー 山川博史氏
生年月日 1971年、長崎市生まれ。
プロフィール スポーツインストラクター、居酒屋店員、店長業務に携わる。
27歳の時に独立し、飲食店の経営をはじめる。紆余曲折を経て、現在では、東京、大阪で8店舗の飲食店の経営のほか、老舗料理店とのコラボレーション、美川憲一監修のレストラン「鉄板焼みかわ」などの新規事業のプロデュースなど、飲食店に関わる幅広い分野で活躍中。
著書 『1店舗目で成功したオーナーはなぜ2店舗目失敗するのか』
主な業態 「銀座パノラマ」「バル7」「ほんとま屋」など
企業HP http://www.ys-crew.com/

大阪発の躍進企業が、大物歌手の店をプロデュース

 歌手・美川憲一氏が監修した本格鉄板焼きダイニング「みかわ」が2008年11月、東京・西麻布で産声を上げた。高級感の漂うエントランスとスタイリッシュな内装は、一流を知る美川氏のこだわりが随所に感じられる大人の極上空間。高品質の黒毛和牛や魚介類の鉄板焼きを中心にしたコース料理を揃え、連日、芸能人などで大盛況している。
同店のプロデュースと運営を受託したのが株式会社ワイズクルー・コーポレーションだ。客単価1万2000円の高級店「みかわ」での経験を、「東京でしかできない貴重な経験」と語るのは、同社代表取締役の山川博史氏。
同社はもともと大阪を拠点に成長してきた飲食企業で、創業は1999年。現在、関西に4店舗、東京に4店舗を展開している。業態は多岐にわたり、「みかわ」のような高級店のほかに「京都・烏丸 つゆしゃぶ CHIRIRI」などの豚しゃぶ専門店、「銀座パノラマ」、「汐留バル7(nana)」、「Salon de O」、「炭火焼鳥酒場 新橋バル8」などのバー(バル)業態、「333円均一居酒屋 ほんとま屋」、「炭火焼鳥ちんどん」などの格安居酒屋も展開している。
一方、山川社長といえば、最近ではセミナー講演などでも活躍するほど。昨年出版された自身の書籍「1店舗目で成功したオーナーはなぜ2店舗目で失敗するのか」(アーク出版)も話題になっているのだ。成功から一転、借金地獄へ、そしてどん底からはい上がってきたこれまでの壮絶な人生。その経験から学んだ彼の経営哲学やスキルが、いま注目を集めているのだ。


スポーツトレーナーの仕事で、太った将来の自分が見えた

 「大阪の地下鉄の乗り方も、アメリカ村も、ファッションも、すべてが新鮮だった」と専門学校進学の頃を振り返る山川社長。長崎県の出身で、高校卒業後、スポーツトレーナーを目指し、大阪のスポーツ関係の専門学校に進んだ。その頃から夜はバーなどで働いていた。
卒業後はスポーツジムを運営する会社に就職し、2年間トレーナーを務めた。しかし30代の先輩たちを見て、将来への希望を失う。「体力勝負の商売であるのにかかわらず、偉くなるとデスクワークが増え、みんなぶくぶく太りだす。先輩たちからは楽しそうな様子が伝わってこなかった」。そして山川氏はこう続ける。「このままここにいたら、自分もこういうふうになるんだなと思って、すぐに辞める決意をしました」。
その後、21歳の時に友人たちと営業力を武器にした会社を立ち上げたが、最初は失敗。次に始めたのが飲食業で、27歳の時に当時のオーナーから店を買い取り、2000万円で独立した。それが「ワイズクルー(=Y‘s船員)」の船出だった。
「当時はもう、自信のかたまりでしたね」と山川氏が笑うように、飲食業は順風満帆。山川氏の鶴の一声でスタッフが軍隊のようにきびきび動き、山川氏は週末ともなるとサーフィンにあけくれた。さらに妻子にも温かく見守られるという、誰もが羨むような人生を送っていた。
しかしその後、悪夢のような日々が襲ってくるのである。


オーナーが蒸発。ヤミ金融から1000万円を借金

 最初に山川氏の胸に不安がよぎったのは、知り合いのオーナーから丼店の運営委託を受けて数ヵ月後のことだった。それまで定期的に振り込まれていた運営委託費が突然入金されなくなったのだ。大阪・心斎橋にある8坪の店。家賃は55万円(!)。そのオーナーはロイヤリティを含め、月100万円以上の支払いを怪しげな人たちに払っていたのだ。その滞納が続き、ついに夜逃げしたのだった。
「いやぁ、困りましたよ、本当に。すでにそのオーナーからは3店舗も請け負っていましたので。当面、人件費は払い続けなければいけないので、営業ストップはできないですし。名義変更したいと言ったらその費用に、800万円と言われるし…」
仕方がなく、当時、金利29%台のヤミ金融から1000万円を借り、泣く泣く名義変更をした。人生最大の修羅場を経験し、「もう大人なんて絶対に信じない」と山川氏は力なくつぶやいた。その後は借金返済のため、身を粉にして働く毎日を余儀なくされた。必死に飲食店の経営を勉強するしか、彼には道が残されてなかった。
「どうにかしてお金を生みださないと…と毎日必死でした。精神的にも追い詰められ、うつ状態の日もありました。当時は事業の止め方も知らなかったし…。飲食店なんてやらなければよかった、と初めて後悔しましたよね」と山川氏は27歳の頃を冷静に振り返る。


老舗の名物料理で大躍進!繁盛店を次々に輩出中

 暗黒の荒海に漂う山川氏に一縷の光を差し込んだのが、独立開業を支援する雑誌「アントレ」で、当時、西日本の編集長を務めていた山口氏だった。彼の懇意のおかげで「世の中には純粋に応援してくれる大人もいるのだな」と気づいたという山川氏。この出会いがきっかけで、山川氏は後の繁盛店となる「京都・烏丸 つゆしゃぶ CHIRIRI」とも出会うことになる。
「CHIRIRI」はもともと、60年以上もの間、京都・烏丸に暖簾を掲げてきた料亭「ひょうたん」の名物料理「豚のつゆしゃぶ」を目玉に据えた店だ。老舗の味をそのまま引き継ぎ“秘伝の五段仕込みのつゆ”で食すことを真骨頂とする。
これまで丼店などの庶民派の店を展開してきた同社にとって、本物がわかる一流のお客を相手にした高級店への初挑戦となった。調理力も店舗力も、そして接客力も、大幅な躍進を遂げるのに絶好のチャンスとなった。
この挑戦のおかげで同社はめきめきと実力をつけ、大物歌手の店「みかわ」のプロデュースにまでこぎつけた。ついにどん底から這い上がることができたのである。
 さらに山川氏は次のように意気込む。「当社の理念はLove&Rock。料理に対しても、スタッフに対しても、まず愛情をもって接したいと思っています。そしてロックとはブレないという意味。飲食業に対し、真剣に取り組み、僕たちらしさをまじめに追及していきたいです」。
 大きな苦労を経験した者にしか備わらない人間力のようなものがある。山川氏はまさに辛酸をなめることで、ひたむきに働く姿勢や人としての度量の大きさを手に入れることができたのかもしれない。今後も大衆居酒屋から高級店まで、幅広いマーケットを視野に入れ、さまざまな客層に対応した飲食店を展開していきたいと熱く語る。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム1 思い出のアルバム1
飲食店で働き初めて1年目 居酒屋店長時代 創業当時

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