ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション エトワール シェフ 須賀洋介氏 | |
生年月日 | 1976年11月15日 |
プロフィール | 愛知県生まれ。高校卒業後、フレンス・リヨンに渡る。帰国後、有名シェフの下で修業を重ね、再度、フランスへ。20代前半で、ジョエル・ロブション氏と出会い、大きな転機を迎える。その後は、ロブション氏に従事し、氏の片腕として「星付きレストラン」を世界中につくりあげていく。 |
主な業態 | 「Joel Robuchon」 |
企業HP | http://www.robuchon.com/ |
「新フレンチの鉄人」「ロブションの愛弟子」、須賀洋介を語ろうと思って真っ先に浮かぶのが、この2つのキーワードである。
日本ではTVの影響もあって「新フレンチの鉄人」というのが早いが、世界ではむろんジョエル・ロブション氏の愛弟子といったほうが通じやすいだろう。
ジョエル・ロブション氏とは、世界11カ国に店舗を持ち、ミシュランガイドにて総数28個の星を獲得している、世界でももっとも認められた料理人の一人である。
「世界一星を持つシェフ」が、ジョエル・ロブション氏を語るうえでのキーワードとなっている。
今回は、須賀洋介氏とロブション氏との出会いも綴っていくつもりだが、事前準備として、氏の下で須賀が関わった仕事の幾つかを列挙しておこう。
2003年4月、東京・六本木ヒルズ「ラトリエ・ドゥ・ジョエル・ロブション」のオープンに際し、エグゼクティブシェフとして日本に帰国。ロブション氏がつかさどる料理のクオリティの高さを改めて日本に知らしめた。
2005年9月にはラスベガスに飛び、翌2006年8月にはNew York、2009年10月には台北に立て続けに新店舗をオープンさせる。
2010年11月、パリに「ラトリエ・ドゥ・ジョエル・ロブション」がオープンすると、責任者に就任。国籍を超え、たちまちパリの美食家たちに愛されるようになる。
まさにロブション氏の愛弟子、また片腕と呼ぶに相応しい仕事ぶりである。
現在の正式な肩書は、「ジョエル・ロブション」パリ本店総料理長であり、ロブションインターナショナルコーポレートシェフとなる。現在もパリ在住で、日本とフランスを行き来する。2013年10月28日、忙しい仕事の合間にインタビューをさせていただいた。
須賀は、1976年11月15日、名古屋市の緑区に生まれる。3人兄弟の末っ子。
「祖父が船の上で料理長をしていました。退職後、陸に上がり洋食屋を開いたのがうちの始まりです。1978年、私が2歳の時に、父がフランス料理店を開きます。こちらはいま兄が継いでいるのですが、私は、このフランス料理店の三男坊として育ちました」。
幼い時の記憶では母に連れられ店を行き来し、ごはんを食べ、店の片隅で遊んでいたそうだ。もっともこれはフランス料理店ではなく、洋食店での話。料理人も、可愛がってくれたそうだ。
「母が、洋食店のほうにいたもんですから、よく出かけていきました。まさか、フレンチレストランのほうに行って、おもちゃで遊んでいるわけにはいかないでしょ(笑)」。
その話からも推測できるが、父が経営するフランス料理店は、当時の名古屋にはまだなかった本格的なフレンチレストランだったそうだ。
「非常に才能のある飲食店経営者」と須賀は父親のことをそう表現する。オーナーとして手腕を発揮されていたことを鮮明に記憶しているからだろう。
親交も広く、様々な業界の著名人とも交流が深かったという。もちろん、著名なフランス料理人とも付き合いがあったことは言うまでもない。
「当時の名古屋にはフレンチの料理人なんていませんでした。だから父は、1人上京して、現在、東京ドームホテルの総料理長をされている鎌田昭男氏や『フレンチの鉄人』の坂井宏行氏らに会いに行っては料理人を紹介してもらっていたそうです。関係ないですが、叔父も飲食の仕事をするようになります。私の周りに、少しずつ飲食の世界が広がっていきました」。
高校を卒業する段になって、須賀も飲食に興味を持ち「料理を勉強するために、フランスに行きたい」と父親に直訴している。
「兄二人が、大学に進学していたので、どういう風に言われるかと思っていたんですが…」と須賀。快諾だったそうである。
三男ということもあったかもしれない。ただ、それだけでもない気がする。
「息子をフランスで修業させる」。それはひょっとすればフランス料理店のオーナーである父の、ひそかな願いだったかもしれないと思うからだ。
ともあれ、三男坊の須賀は、フランスへ向かった。
「当時の心境を正直に言えば、フレンチのシェフを完璧に志していたわけではなかった。たまたまうちがフレンチレストランだったことや、高校時代にも1ヵ月くらい住んだことがあったので、『フランスへ』となったんです」。
向こうでは、リヨンにあるカトリック系の大学で語学研修を受けた。約半年。計画では、その後も残って料理の勉強をするつもりだったが、ピザなどの問題で断念しなければならなくなったそうである。
だが結果として、これが幸いしたのかもしれない。なぜなら、フランス料理が学べるのはフランスに限ったことではなく、日本にも優秀なフレンチのシェフが少なくなかったからだ。しかも、ある意味、フレンチ勃興期。フランス人より、日本人シェフがフランス料理に貪欲だった時代でもある。
その代表は、言うまでもなく現、東京ドームホテル総料理長、鎌田昭男氏であろう。当時は、ホテル西洋銀座におられたそうだ。帰国後、須賀は父の紹介で、この鎌田氏の下を訪れている。
「鎌田氏とは、料理人を紹介してもらってからの昵懇の間柄」。
「父の紹介ということもあり、最初からメインダイニングに入れてもらった」と須賀もそう言っている。
しかし、いきなりのメインダイニング。
普通なら、喜ばしいことだが、須賀には荷が重すぎた。
「高校時代、イタリア料理のお店でバイトしていたことがあるんです。現在は家業の造り酒屋である萬乗醸造を経営され、世界的にも醸し人九平次で有名な久野久平治さんなのですが、彼は東京から戻られ、28歳で小さなお店のオーナーシェフをされていたんですね。当時、僕は彼のことをマネージャーと呼んでいたのですが、楽しみながら一緒にパスタを作っていたので、僕自身結構料理の才能があるんじゃないかと思っていました」。
「でも、ぜんぜんダメでした(笑)。オーダーもフランス語です。半年、勉強はしましたが、訳が分からないほど早いスピード。しかも、周りにはもうとんでもない人達ばかりで…」。
日本を代表するようなシェフがいて、ソムリエ、パティシエも無論日本の第一人者ばかり。威圧感だけでも半端なものではなかったはずだ。
「コテンパンにやられた」と須賀は笑う。だが、このホテル時代がなければ、いまの須賀もないというのも事実である。
「体力的にも、きつかった」そうだ。
「まだまだ先輩、後輩の関係も厳しい時代です。朝が早いシフトの私は、先輩より先に仕事が終わるのですが、先に寝るわけにはいかない。だから朝2時くらいまで起きていて、4時にはもう朝の仕込みをスタートさせている、という毎日でした」。
睡眠時間はゼロに近い。それでも不思議と辞めようとは思わなかったそうである。しかし、ダイニングにいたのは1年だけで、翌年からは菓子づくりに転向している。
「クリスマスの時に手伝いに入ったのがきっかけで、やらせてもらうようになったんです」。
その時の上司もまた凄い。稲村省三氏という。
稲村省三は<フランス、シャルルプルーストコンクール>で銀賞を受賞した日本を代表する菓子職人の一人である。
「とにかく、菓子部門も忙しかった。だからでしょう。食材にも触れさせてもらって。ダイニングにいたら、できなかった経験もさせてもらったと思います」。
こちらを2年やり、計3年。それで、ホテル西洋銀座を退職している。「やっぱりレストランで」と思ったからだそうだ。
鎌田氏を中心とした年代は、日本におけるフランス料理のパイオニア的な存在である。
彼らに導かれるようにして育った次世代の料理人たちは、ホテルではなく街でオーナーシェフとなり、小さな、それでいて、フランスよりフランス料理らしい料理店づくりに挑戦する。これが、日本の近代のフレンチ、第二章である。
「ほんとに。今もそうですが、本当に凄い人が沢山いた」と須賀。
キラ星のごとく、だったそうである。
「なかでも、恵比寿にある<アラジン>という店のシェフは、最高だった。当時、放映されていた料理の鉄人に登場されているのを観て、川崎誠也さんというんですが、そのシェフの門を叩いたんです」。
意気揚々、だったはずである。しかし、考えてみれば、いくら才能があるといっても、ホテル西洋銀座でも料理部門にいたのはわずか1年である。
すぐに肉を触るポジションに入れてもらったのだが、長く、続けられなかった。
挫折。生まれて初めての経験。
「半年後、腰を痛めて退職するのですが、今でも後ろめたさというか、すっきりしないというのか。腰を痛めたのは、嘘ではなかったのですが…」。
その後、川崎シェフと連絡を取りたいと思ったこともあったが、勇気がでなかったそう。ところが、数年前、川崎氏から逆に連絡をいただいたそうである。
「フレンチの鉄人、観ているぞ」と言って。
須賀が、川崎シェフをテレビで観てから何年たった時のことだろう。ともかく、川崎シェフの温かい人柄が伺えるエピソードでもある。
今になって改めて俯瞰してみれば、当時の「須賀洋介」と「フランス料理」は、背中合わせの位置にあるように思えてならない。近くにいるのだが、それでいて互いに相手の顔が観えない。
腰を悪くした須賀は、いったん名古屋の実家に戻るのだが、たまたま改装中ということもあって、再オープンまでの時間を利用しフランスに旅立った。
これがまた一つの転機となる。「たまたまロブション氏とお付き合いのある人と知り合うことができたんです」。
ロブション。フランス料理を目指す日本人で、氏の名を知らない人はいない。むろん須賀も、知り合いだと聞いてドキリとしたのではないだろうか。
追いかけはじめた料理人の頂点に立つロブションの像が、一瞬だとしてもリアルに伝わってきたと思うからだ。
これが、須賀とロブション氏が出会うきっかけとなったことも事実。帰国した須賀の店に、錚々たるメンバーが訪れたのは、それからしばらくしてからのこと。
「食べてみないと紹介もできないと、言われ。8人でいらっしゃったのですが、そのなかに著名なファッションデザイナーの芦田淳さんがいらして、強く勧めてくださったようなんです」。
うまいか、まずいか。ロブション氏に紹介するだけの価値があるのか、どうかを見極めるために、地球を半周して須賀が勤務する父の店まで来られたそうである。むろん、テストには合格。
ロブション氏が来日した際、須賀は東京に呼ばれた。
「タイユバン・ロブションというレストランでした」と須賀は目を細める。ロブション氏は、すぐに「来週からでもいらっしゃい」と言ってくれたそうだ。当時、須賀は21歳。ロブション氏とは、随分歳が離れている。
この時から親子ほど歳が離れた、この師弟コンビは、世界中で見かけられることになる。
「料理の腕も、知識も無論ですが、気難しさでも間違いなく世界ナンバーワン」と言って須賀は笑う。そばにいるだけで疲れるというのも、まんざらオーバーな表現ではないようだ。話を聞いているととにかく氏はエネルギッシュである。
「私が、入社した時にはロブションはすでに店からは離れ、コンサルティングをメインに活動していました。TVの番組を持っていました」。
「店は、当時日本にしかなく、本来、スタッフと呼べるのは世界を全て足しても私を含め数名しかいませんでした。その当時から、私たちは完全に、ボスのロブションの為に働く軍団でした」。
ロブション軍団のなかでは、須賀が一番年下だった。だから、周りからも可愛がられたのだろう。だが、年齢が大きな問題となる組織でもなかったはず。料理のクオリティ、経営に関するクオリティ、サービスに対するクオリティが重視される世界である。
須賀が最初に任されたのは、東京・六本木ヒルズの「ラトリエ・ドゥ・ジョエル・ロブション」。肩書きは「エグゼクティブシェフ」、つまり料理の責任者。ロブション氏の下で働くようになってから4年目のことである。
「突然、指名されたんです。もともとTV番組のアシスタントが私のメインの仕事だったもんですから、びっくりしました。もう、がむしゃらというか…。オープンだからといって、楽しむ余裕もなかったです」。
いろいろなことがめまぐるしく起こった時期でした。だが、須賀の記憶には、それらの記憶も鮮明に残っていない。簡単にいえば、それどころではなかったのである。
この店の成功を通し、ロブション氏は、須賀という料理人のなかに眠る、経営者としての可能性にも気づいたのではないだろうか。
こののちは、冒頭で述べたように須賀とロブション氏は、まるで親子のようなコンビとなって世界中に、新たな三ツ星レストランを次々、立ち上げていくことになるのである。
「もし、負けたらどうするんだ。リスクを冒すだけのメリットは? 何より今の仕事をやりながらできるわけはないだろう」。
最初にロブション氏に、「アイアンシェフ」の話を切り出すとそう言われたと須賀。言葉だけみれば、子を叱る親の言葉に似ている。だが、そう言われればしかたがない。
「ところが、オフィスを出ようとしたら、もう一度呼び止められ、『スケジュールを見せろ』と言われたんです。ボスは、『年内3回で、うちの仕事に支障をきたさないのなら』という条件で許してくれました。そして『来年のことは来年考えよう』と笑って、そう言ってくれました。私が、ずいぶん残念そうな顔をしていたんでしょうね」。
しかし、ロブション氏が言うように氏の弟子なら勝って当然である。負けるリスクに対してメリットは少ない。それでも…。師は、弟子の表情から心のなかに眠る野心をみて取ったのだろうか。
ともあれ、師の許しがでて、須賀洋介は「アイアンシェフ」に出演するようになる。若きフレンチの鉄人である。当然のこと<「フレンチの皇帝」ジョエル・ロブションの愛弟子>というショルダーを付けられた。
須賀の負けは、ロブション氏の名も傷つけることになる。
想像できないほどのプレッシャーを抱えながら受けたアイアンシェフという肩書きであったが、見事に期待を裏切らない堂々たる戦績となった。
須賀のキッチンでの立ち振る舞いをみた審査委員の1人が、「これは、モノが違う」と称賛したということも付け加えておこう。
「運も実力のうち」という須賀。たしかに須賀の人生をみれば、「運」という言葉が思い浮かぶ。数々の、名料理人たちとの出会いも、運がなければできない相談だ。須賀が「運」を呼び込む何かを持っているのは間違いない。将来は、独立し、パリと東京を行き来しながら、自分の料理をプロデュースしたいという。ただ自分の店を構えるだけではなく、料理人の新しい形を築きたい。
ロブション氏に愛された男が、自らのプロジェクトをリリースする。須賀の今後の新たな挑戦から目が離せない。
19歳の時。ホテル西洋銀座のパティシエ修行時代のもの。洋菓子会の重鎮の稲村省三氏や五十嵐宏氏とともに。 | 21歳の時。ロブション氏のテレビ番組のアシスタント時代。 | 22歳の時。ロブションのラボ時代のバカンス時に、エリック・ブリファール(当時プラザアテネの総料理長、現在フォーシーズンズジョルジュサンクの総料理長)と「シェ・コーべ」30周年イベントの時の様子。 |
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