株式会社人形町今半 代表取締役社長 高岡慎一郎氏 | |
生年月日 | 1958年11月6日 |
プロフィール | 玉川大学卒業後、いったんコンピュータ会社に就職。3年半、家業と離れた仕事を経験する。「人形町今半」に入社したのは、26歳の時。仕入れや弁当の営業など地道な業務からスタート。店長、総支配人、常務取締役を経て、現職の社長に就任する。 |
主な業態 | 「人形町今半」「今半万窯」「喜扇亭」「たか福」 |
企業HP | http://www.imahan.com/ |
牛鍋とは「すきやき」のこと、と言っていいのかどうか判らないが、ともかく牛鍋は、今の「すきやき」の原型ではあるようだ。森鴎外の著書のなかにも「牛鍋」という作品がある。小説にも登場するくらいだから「牛鍋」は昔から尊ばれていたのかもしれない。
調べてみると、牛鍋は幕末の頃に初めて登場している。
「今半」が創業したのは、明治28年。曾祖父が牛鍋屋を開業したのが始まりである。
「当時の牛鍋は、ビール1本よりも安かったそうです。今のように高級ではなく、大衆食だったんですね。曾祖父が開いた『今半』は、かなりの人気店だったようで、金メッキの鍋で提供したりしていたと聞いています」。
「食」は、その時代の文化なり、思想なり、経済なりを極めて正確に映し出す。明治から大正にかけ、日本の食文化がほどよくこなれてきた様子が、今半の当時の様子からも伺える。
曾祖父が、開業した「今半」は、祖父の代で「浅草今半」を生み、次男だった高岡の父が「人形町今半」を設立したそうだ。その意味でいえば、高岡は、「今半」の4代目であり、「人形町今半」の2代目店主となる。
今回は、この「人形町今半」の2代目店主、高岡慎一郎の足跡を追いかけた。
大人しく、目立たない性格だったと高岡は、幼少期を振り返る。高岡が生まれたのは1958年11月6日。四谷生まれ 荻窪育ちだそうである。2人兄弟の長男で、次男はいま副社長を務めているとのことだ。
「両親とも仕事をしていましたので、私はお手伝いさんに育てられたようなもの。私が小学4年生の頃からでしょうか。母が初の支店である有楽町店の責任者となり、、ますます忙しくなりました」。
「両親共忙しい仕事の合間を縫って、外食にはよく連れて行ってくれました。今でいうなら星付きのレストランです。私や弟の舌を鍛えるためと言っていましたが、父本人が、旨いものを食べたかっただけだったかもしれません(笑)」。
まだ子どもである。旨いかどうか判断する材料はない。それでも、子どもの頃の味覚は、生涯を決定すると言ってもいい。
父にすれば、これも「食育」の一つであったのだろう。ただ、この時、高岡が魅せられたのは料理よりも接客だったそうで、「クオリティの高い接客を受け、幼いながらにも憧れた」と言っている。
母からは「勉強しろ、塾に行け」と、よく尻を叩かれた。父は、特段何も言わない人だったが、テーブルマナーについては、色々言われたそうである。
かけっこが不得意。運動音痴だと思っていたと笑う。
それでも小学生の時には、スケート、剣道をかじり、高校では柔道を少し経験している。「高校生になって人並み程度には走れるようになって。ちょっとスポーツにも自信がついた」と高岡は大声で笑う。
高校生になって性格も少し変わった、と高岡。大人しいだけではなく、自己主張できる青年に変わりつつあった。高岡は、玉川学園から玉川大学に進学。大学に入るとアーチェリーを始めた。本人いわく、「足をつかわず、上半身でできると思ったから(笑)」とのこと。ところが、案外体力は使う。精神的にも肉体的にも徐々にポテンシャルが高まったのは、この時期か。
「当時の関東学連アーチェリー連盟は、6部まであるんですね。うちは弱くって、4部でした。それでも、ほんとにアーチェリーバカばっかりで。授業がある時以外は、みんな部室にいたりして、練習に明け暮れていました」。
練習がものをいったのか、連戦連勝。
高岡が卒業する頃には1部への昇格を果たしている。高岡にもスポットが当たった。関東学生アーチェリー連盟の委員長に就任。2000人の前で話をしたのは、このときが最初。
「もともとは引っ込み思案だったでしょ。だから、凄いことになったなと。それでも、案外、構えることなく話すことができました。少し自信にもなりましたね」。
ところで当時、「人形町今半」を継ぐつもりはまったくなかったそうだ。高校の頃から、「どうすれば継がなくていいか」を考えていたくらいである。
「だから、就職活動も普通に行いました。親も5年はほかではたらいていいと言っていましたから」。
コンピュータの営業会社に就職する。社会人1年生、このまま継がすに済ますつもりだったかもしれない。しかし、「5年という約束だったんですが、3年半で戻れと、指令が下りたんです(笑)」。
高岡の「人形町今半」時代は、朝の仕入れと弁当の営業から始まった。そののち、購買部の立ち上げに参加し、店長、総支配人、常務取締役を経て、現職の社長に就任する。
こう記せば、順風満帆のような道だが、試練ももちろんあった。
それも、特別な試練が待っていた。
「人形町今半」だけの話ではない。だから一層、対処に困った。牛肉をメインにする業態の、すべての店が「あの時は、潰れるかもしれないと思った」と語るBSE問題である。
「うちも正直、潰れるかもと思いました。9月にBSEが発表され、10、11、12の3ヵ月は、特に酷かった」。正直、どうしていいかも判らなかった、と言っている。
「人形町今半」だけの固有の問題であれば、対処の方法もあっただろう。しかし、すでに社会現象ともなっていた。波が去るのを、待つだけしかなかった。しかも、いつ落ち着くのか分からない。
「お客様が半分になってしまいました。そこで、蟹など食材を替えたり、弁当等に注力したり、その場しのぎの対策をしていました。しかし、あることに気が付きました。
店回りをして、半分ぐらいしか席が埋まっていない状況を見て、いつもなら肩を落とすところだったんですが、その時は、逆に、半分のお客様が今もうちのお肉を食べに来てくださっているんだ、とふと思ったんです」。
「そうなると、このお客様たちをもっと大事にしようと。そう、肉の質と、ボリュームのアップです。仕入れ先も見直しました。もともと、うちの店の特選牛は、近江牛のみです。それ以外を仕入れようと思っても、普通は、購買部が許さない。しかし、あの時は、そうも言っていられない時でしたので、近江というブランドにとらわれることなく、いい肉をたくさん探してこい、という指令を実行してくれました。肉の質を上げ、ボリュームもアップしたんです」。
いい肉をたくさん、食していただく。肉の質にも、量にも絶対の自信がある。
少し話は先に進むが、「人形町今半」では、職人が牛一頭一頭、丹念に目利きして仕入れているそうだ。
「最近の健康志向で、家庭では赤身が重宝されていますよね。脂身が少ないから。しかし、うちに来られる時は、『せっかく今半に行くんだから、今日くらいは』とおっしゃって、口のなかでとろける、サシの入ったお肉を希望されるんです」。
確かにそうだ。「今半」に来た今日一日くらいは、となる。
「でも、うちは、職人がちゃんと目利きしていますから、実は、全然、もたれないんです。飽和脂肪酸というのを良く聞きますが、うちの肉は不飽和脂肪酸なんです。こういうことも含めて、肉の質を上げてきたわけです。もちろん、エイジングにも工夫を一層凝らして、と思っています」。
このような肉に対する強い思い入れ、それもまた、BSE問題を経て得た、財産と言えるかもしれない。
いい肉をたくさん。高岡が示した方向の正しさは、BSE問題が収まると、一気に業績に表れた。
「6年連続です。既存店が、前年対比でアップしていくんです。既存店の売り上げが年々アップするなんて普通、考えられないことですよね」。
実をいうとBSE問題が起こった冬のボーナスは、食事券でまかなった。1年半、管理職の給与は下げに下げた。
「退職者が出るだろうな、と覚悟していたんですが、だれも、そう1人も辞めなかったんです。みんな『今半』が好きなんですね」。
「老舗ってオーナーのものってところがあるじゃないですか。でも、あの時、うちはそうじゃないと。『人形町今半』は、社員やスタッフみんなのものなんだってことに気づいたんです」。
この気づきは、大きい。本来の意味で、個人店から法人・企業に進化した瞬間でもあった気がする。
ここ数年は、組織のスタイルも替えた。平成13年からは新卒採用にも注力している。定着率が極めていい。
高岡の話を聞いていると、その事実にも頷ける。少ない時間の会話のなかからも、社長である高岡の聡明さや懐の広さを感じることができたからだ。
ちなみに、こんな制度もあると伺ったので追記しておく。
「うちでは今、ドリンクアドバイザー制度っていうのを設けています。この制度を入れてから、みんながお酒の勉強をするようになって、なんとソムリエの資格を3人が取得したんです」。
高岡は、嬉しそうにいう。もう、明治でもなければ、大正、昭和でもない、平成生まれの新人が、入っている。牛鍋より、和食よりも、ハンバーグやスパゲティといった洋食で育ってきた新人たちである。
創業明治28年のお店を語ろうとしても皮膚感覚が違うことだろうと思っていたが、高岡という人間が真ん中に入ることで、この両者が、うまく結びつき機能しているように思える。
少なくとも、平成生まれの新人とも、もう、強い、強い絆が生まれている。平成の人間たちが継ぐ、明治生まれの伝統の味。その今からの進化にも期待したいところだ。
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