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第435回 株式会社ケンコー 代表取締役 藤井 健氏
update 14/06/03
株式会社ケンコー
藤井 健氏
株式会社ケンコー 代表取締役 藤井 健氏
生年月日 1978年5月15日
プロフィール 中国福建省生まれ。12歳で来日。中学在学中から仕事を始め、卒業後、中華街などで勤務。23歳で独立を果たし、FC店などを展開。埼玉県最大のショッピングセンターのイオンに入り、爆発的な売上を記録。2014年現在、中華料理店の「王記厨房」(12店)、「唐庄酒家」(12店)や「支那そばや」(8店)などを出店する。
主な業態 「王記厨房」「唐庄酒家」「支那そばや」
企業HP http://www.kenkojp.com/
昨年(2013年)10月、モスフードサービスが、「ちりめん亭」を売却するニュースが流れた。売却先として登場したのが「ケンコー」。その時、初めて「ケンコー」という会社を知った人も多いのではないか。
「ケンコー」は中華料理店の「王記厨房」(12店)、「唐庄酒家」(12店)や「支那そばや」(8店)などを出店する、新進気鋭のフードビジネス企業。今回は、その社長である藤井 健氏に話を伺った。

福建省、出身。

藤井は1978年5月15日、中国の福建省に生まれる。福建省といえばウーロン茶の宣伝で知られた日本人の我々にもなじみがある。だが、CMの映像から勝手に内陸部だと思い込んできた。今回、藤井をインタビューするなかで「魚や貝を良く食べた」という話が出てきたので、改めて調べてみると台湾の対岸に位置する沿岸の都市だった。
「うちのお婆ちゃんが、残留孤児だったんです。私が12歳の時にお婆ちゃんが日本に帰国することになりました。祖母と叔父が私たちより1年早く日本に向かい、翌年の1990年に親族合わせて200人くらいで日本に渡りました。そうですね、当時の日本といったらバブルの真っ最中です。不安よりもむしろ凄い国に移住するんだという期待の方が大きかった気がします」。
「父は福建省ではタクシーの運転手をしていました。タクシーと言いましたが、日本のタクシーとは違って三輪車です。15人くらい乗れる大型の三輪車で、生活はそれほど貧しくありませんでした。それでも、経済大国の日本には憧れていました。大人たちは、我々子どもと違って不安もあったんでしょうが…。」
12歳。日本では小学6年生となる。
「日本に来て住んだのは、横浜の本牧というところです。来日して、しばらくは3階建ての住居の3階に3家族が住んでいました。ちょうど1Fと2Fが弁当屋で、親族そろってそちらでアルバイトをさせてもらっていたからです」。
当時、横浜の本牧には中国の方がたくさん住んでおられたそうだ。

12歳の少年、バナナに驚く。

日本に来ていちばん驚いたことはなんですか?という問いに、藤井は、可笑しげに「バナナ」といった。「当時、中国ではバナナは高価だったんです。年に1度食べられるかどうかという。それが日本に来たら食べ放題だったわけで、それがいちばん驚いたことです(笑)」。
バナナは腹いっぱい食べられたが、けっして裕福なわけではなかった。残留孤児といっても、国からの支援は何もなかったという。
「父は自動車関連の工場で勤務していました。工場内は、とても暑いといっていました。耐えきれず辞める人も多かったようです。ただ、中国人の父は辞めるわけにはいかなかった。お金を稼がなければいけないから、残業する人を募られると真っ先に手を挙げていたそうです」。
父は勤勉を絵に描いたような人だった。母も父も倹約家で、とことん切り詰めた生活。
「当時、いちばんたいへんだったのは、父が仕事の最中に誤って指を切断してしまったこと」と藤井。
母も仕事をしていたが、父が家族の生活を支えていたからだ。幸い、父は半年で復帰。話を聞いていると、父の頑張りが目に浮かぶようだ。交通費を切り詰めるため、1時間半かけ工場と自宅を自転車で往復されていたらしい。会社からの評価は高く、契約社員から正社員に昇格している。

働くしかない。選択肢は、1つだけ。

「凄い国へ」、そう思って来日した藤井だったが、中国とは違った意味の現実が待っていた。
「言葉が全然、わからないんです。もっとも家族も、従兄弟たちもいましたから、そういう意味では、言葉がわからなくてもさみしくはなかったのですが…」。
むろん、来日して驚いたことはたくさんある。
「電車に、高速道路に、インターコンチネンタルビル…、中国で私たちが住んでいたのは田舎町なので、初めて目にするものばかりです(笑)」。
藤井たちは、授業とは別に日本語を習うことができた。だが、ご両親たちは、なかなか教わる機会もなかったそうだ。
親族全員で移住してきたから、小さなコミュニティはあったが、それは閉ざされた世界でもある。日本という国に溶け込むには、外部に向かってコミュニケーションの輪を広げていくしかない。そのコミュニティ機関として、藤井たちには学校があり、ご両親たちには職場があった。
しかし、藤井は中学2年で、学校というコミュニティから抜け出してしまった。「1年生の時は毎日、通っていたんですが、言葉もわからないし、勉強がまったくわからない。だから、勉強の代わりに手に職をつけようと思ったんです」。
生きていくこと。来日して、突きつけられた現実は、それ。「学校にはうそをついて週1回くらいしかいかなかった(笑)」。年齢も偽って、飲食店で働いた。
「給料は10万円くらいです。2000〜3000円だけ残して、あとは全部、両親に渡しました」
日本で育った人たちと比較しても意味がないと知りながら、やはりどこかで比べてしまう。
日本の子どもたちがいけないというのではないけれど、欲しいもののためだけにバイトに精を出す。悪ふざけして学校に行かない。
インタビューの最後に、いまの若者に一言というと、藤井は「ハングリーな、つまり欲を持って欲しいな」といったが、たしかにいまの日本人には、生活、欲がない。
それだけでも、藤井と比較して大きな差だと思った。
「中学を卒業してから、すぐに中華街で勤務します。新聞配達もしました。飲み屋でも働きました」。働きだしてからも、藤井は16万円の給料内、3万円を残し、すべて両親に預けた。「独立するしかないと思っていました。独立するために、資金がいるでしょ。だから預かってもらっていたんです」。
「いちばん儲けたのは、新聞配達と飲み屋をいっしょにしている時ですね。月40〜50万円にはなった。もっとも40〜50万円といっても、朝2時から新聞配達をスタートして、配達が済んで、6時に眠って、昼の3時に起き出します。夕刊を配って、そのまま飲み屋で朝2時まで。四六時中、働いていたわけですからね。とにかく、私たちが多くの収入を得るためには、働くしかなかったんです」。
遊ぶ時間など、なかったし、鼻から遊ぼうとは思っていなかった。独立資金は、ドンドン貯まっていく。とはいえ、そのために生活のすべてを捧げた。

独立。もう後には引けない。

「独立」。この2文字は藤井にとって、通過点に過ぎない。中国の残留孤児として育った祖母以外は、日本という国に望郷の念はない。日本で突きつけられた現実は、中国のそれとは違って意味で過酷だった。「独立」を果たしたからといって、それがゴールでないことは明白だった。
「別に飲食でなくてもよかったんです」と藤井。「ただ、当時、とてもラーメンが好きになって。それで資金も少しは貯まったので、独立という第一ステップに向け、スタートします」。めざすは、ラーメン店店主。
鎌倉街道沿いにあった人気のラーメン店で修業を始めた。給料は?と聞くと、「え、給料ですか? ないです。ゼロです。修業だから」と淡々と答える。
半年間、藤井の修業は、それで終了する。結婚相手もみつかり、結婚をするなら「独立」と考えたから。
「まず物件ですね。たまたま磯子にラーメン店の物件があって、それを観に行った時、隣の家が売りに出されていたんです。その時でもう築40年です。でも、親がそちらにしようと言って買ってくれたんです」。
裕福なポケットからでたお金ではない。倹約に、倹約を重ねて、蓄えてきた虎の子のお金である。「父も母もそうですが、中国の人は、『借りるよりも、買いなさい』という考えなんです」。19坪、12席、店舗兼住居。
「購入費は約2500万円です。内装にも800〜1000万円くらいのお金がかかりました。これを全部、両親が出してくれました。私は月に50万円ずつ返済する予定でした」。
藤井が学んだのは、「家系」と言われるラーメン。家系ラーメンはたしかに人気があったが修業したのはわずか半年。成功するとは限らない。それでも、最初は、失敗するとは思っていなかったようだ。しかし、オープンが近づくに連れ、不安が頭をかすめる。まんの悪いことに、藤井が最初紹介され、見送った隣の物件にラーメン店ができるという噂も入ってきた。
「そちらのラーメン店は居抜きだったこともあって、結局うちより3日早くオープンするんです。噂を聞いた時から、もう毎日、眠れなくって。ガラガラの店が夢にまで出てくるんです(笑)」。
ともあれ、藤井、最初の大一番。もはや逃げ出すわけにもいかなかった。

急速、出店。しかし…膨らんだのは借金だけ。精神的にも追い詰められ、店で倒れる。

「とにかく働くこと、それしかできなかったから、朝11時にオープンして、翌2時まで、年中無休で営業しました。おかげさまで、1日になんとか8万円くらいの売上が立ちました。隣のラーメン店ですか? 向こうはうちより繁盛していました(笑)。でも、向こうは醤油系だったので、客を奪い合うことなく情報交換もさせてもらっていました」。
日商8万円。これだけみれば悪くはない。労働時間で帳尻を合わせた格好である。手取りで90万円くらいが残り、うち50万円を予定通り両親に返済した。それもまた悪くはないのだが、いつまでも16時間、働き通せるわけではない。しかし、短縮すると、帳尻が合わなくなる。けっして流行っていたわけではないからだ。
「この場所で良かったのか、もう少し修業していれば…」という思いが頭を何度もかすめたそうだ。
「むつみや」を知ったのは、そんな時である。「TVで観て知ったんです。それで『むつみや』さんのFCになって…」。
「むつみや」とは、この「飲食の戦士たち」にもご登場いただいたことがあるハートランドが経営されていたラーメン店である。
淡々と話す藤井の言葉に、最初に驚かされたのは、次の一言。
「2〜3年で、『むつみや』を10店舗まで増やしました」。
耳を疑ったが、事実だった。
「いま思えば、無茶苦茶な経営です。後先を考えることなく、ドンドン出店しました」。FCの罠といえば罠である。勧められるままに、店舗を拡大していったのかもしれない。
「利益が出ているのは10のうち2〜3店に過ぎません。もちろん、それで他の店のマイナスをカバーできるほどではない。正直、言って借金ばかりが増えていきました。どん底でした。店で倒れ、胃潰瘍で入院したのもこの時です」。
医者のいうことをきかず1週間で退院した。
店のことが気になってしかたなかったから。

形勢逆転。

いまホームページを観ると「むつみや」の名は載っていない。ある時、契約を解約して、店舗名を替えたからだ。「『むつみや』さんのFCは、結局、私たちではうまくいかなかった。それでも、『むつみや』さんのおかげで、イオンさんと知り合いになることができました。これは、とても大きな財産でした」。
藤井の言葉通り、イオンとの関係もあって、形勢は一気に逆転する。「イオンさんに、中華の経験もあるので、そちらをやらせてくださいとお願いしたんです」。
藤井の真摯な人柄、粘りや貪欲さ。それら以上に、たぶん執念のようなものがイオンの担当者を動かしたのだろう。
「当時、埼玉の最大のショッピングセンターに入れてもらうことができたんです」。藤井が26〜27歳の頃である。
「この店が爆発した」と藤井。おなじブランドをほかのイオンにも出店し、合計3店。うち2店が月商1500〜1600万円を叩き出した。
「いままでの負債すべて返済できただけではなく、うちの会社の足元が固まったのはこの時です」。

中国生まれの、努力家の栄光。

インタビューさせていただいた2014年で、独立から13年が経つ。いまや正社員だけで200人を超す大手企業である。年商は60億円。それでも、藤井はまだ36歳に過ぎない。
「すでに、中国にも2店舗進出している」とのこと。そう言われても、もう、びっくりしない。藤井という人のスケールを知ったからだろう。
しかし、藤井の次の言葉には、多少、驚き、感銘を受けた。「上場は?」と尋ねた時である。
「上場というお話も、いっぱいいただいています。でも、するつもりはないです。自分で楽しくコントロールできる方がいいですから。それに、顔も知らない人のために、やっているんじゃないんです。自分のため、家族のため、従業員のために、私は働いているんですから」。
なるほどな、と思った。いうまでもなく、株式会社である以上、株主はいる。しかし、上場すれば、株主の本質も異なってくる。良い悪いではなく、これが藤井という人の選択なのである。
思えばたどたどしかった日本語も流暢になった。中国で暮らした12年間の2倍の年月を日本で過ごしている。故郷はもはや日本だろう。しかし…。
しかし、もし藤井が日本で生まれ育っていたとすれば、いまの成功はなかったはずである。その意味では、中国で暮らした12年の日々が持つ意味も大きい。
藤井の根底には、今の日本の若者にはない、「まっすぐさ」がある気がするからだ。

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