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第436回 リストランテMASSA オーナーシェフ 神戸勝彦氏
update 14/06/10
リストランテMASSA
神戸勝彦氏
リストランテMASSA オーナーシェフ 神戸勝彦氏
生年月日 1969年10月15日
プロフィール 山梨県山梨市出身。駒澤大学在学中、下北沢の和食店で4年間、アルバイトをする。卒業後、こちらも在学中に海外旅行で回ったイタリアに魅せられ、イタリア料理の勉強を開始。片岡護がオーナーを務める人気イタリア料理店「アルポルト」で修業したのを皮切りに、イタリアに渡って、3つ星レストラン「エノテカピンキオーリ」で3年間、修業を続ける。その修業時代に、「料理の鉄人」から出演オファーを受け、イタリア料理の鉄人としてTV「料理の鉄人」に登場。27歳にして鉄人の称号を得て、30歳で独立。恵比寿に人気イタリアレストラン「リストランテMASSA」を開業する。
主な業態 「リストランテMASSA」
企業HP http://www.massa-ebisu.com/

果樹園の下で。

果樹園が広がっていた。神戸勝彦の小さな頃の記憶である。
「もともと祖父が稲作をやり、次に果樹園を始めた。それを私の父親が引き継いだんです。兄弟は3人。弟と妹がいました。小学校は1クラスだけで40人です」。
山梨市。県名と同じだが、山梨の県庁所在地は、山梨市より西にある甲府市である。「人口3万人くらい」と神戸。「農業やっていると結婚できないんです。嫁さんが来ないから(笑)」。過疎化は、現在進行形だそうだ。
神戸が子どもの頃も、人口が多かったわけではない。もっとも山梨市の駅の近くには料理店も多く、うち2軒の中華調理店は、神戸の親戚が経営されていたそうである。「子どもの頃は良く食べに連れてもらった」といって目を細める。
神戸が初めて料理をしたのは、小学校4年生の時。
「同級生に和菓子屋の子供がいて、その子のうちでクッキーをつくったのが最初ですね。小学4年生でした」。
中学校になると生徒も増え、6クラスになった。高校では11クラス。高校は山梨でも有名な日川高校。
「林 真理子さんやジャンボ鶴田さんも卒業生なんです」と神戸。ちなみに調べてみると両氏以外にも、有名人、著名人、政治家も名を連ねていた。彼らの中には、山梨に残った人もいるのだろうが、大半は山梨をあとにして、東京へと旅立っていったのではないか。神戸も、その1人である。

海外1人旅。

「色々なものを見たかった」と神戸。神戸もまた山梨を離れ、東京の駒澤大学に進学する。むろん、独り暮らし。「授業にはちゃんと出席していました。その一方で、バイトにも精を出しました。もっともバイト先は一か所で下北沢の和食店です。4年間働きました」。
「食材に対する考え方を教えていただいたのはこちらの店。卒業する頃には、すでにイタリア料理をしようと決意していたのですが、それもこちらの大将の影響が大きかったように思います」。
神戸にとって、かけがえのない一つの縁がそこにはあった。
一方、色々なものを見たかったという思い通り、海外も旅行した。2年の夏にアメリカへ2ヵ月、3年夏にヨーロッパへ2ヵ月半。春休みには、東南アジアへ3週間。
大学4年時には既にイタリア料理をやりたいと思っていたので、フィレンツェの語学学校へ3ヵ月留学。卒業時、1ヵ月さらに留学した。こちらもまた縁である。
海外を見て、また留学して、「自分のちっぽけさ」を痛感したという。
ちなみに、旅行といっても、優雅な旅ではない。リュックサック一つ背負ってグレイハウンドバスに乗り旅に出た。
「アメリカはサンフランシスコから入って、オレゴン、バンクーバー方面に行き、飛行機でワシントンまで行って、ニューヨークへ、そこから南下してマイアミ、キーウェストまで行きヒューストン、ダラスを回り、テキサス州に行き、ラスベガス、ロサンゼルスに行って、そこからアウトしました」。3日に1回はずっとバスの中だった。1泊10ドルほどのユースホテルにも泊まった。2ヵ月間の旅費が30〜40万円。「困らない程度には英語が話せるようになった」そうだ。ヨーロッパの旅もある意味凄まじい。
「ロンドンから入って、アムステルダム、ドイツ、ハンガリー、ユーゴスラビア、ブルガリアに行きイスタンブールから飛行機でチューリッヒへ行き、パリ、スペイン、ポルトガル、ニースの方に行きベニス、イタリアを回った」とのこと。
いずれも独り旅である。
未知なるものに対する強い想い。そういう想いが神戸のなかに渦巻いている証の一つだろう。むろん、「イタリア料理を」と思ったのも、この旅のお土産の一つだった。
そして、留学して分かったことは、自分の小ささと、自分は色々な人に支えられてここまで生きてこれたということだった。
帰国後、料理人を目指すと打ち明けたところ、家族や親戚に大反対された。ただ、せっかくの1度の自分の人生、とのことで神戸は料理人として目指すことを決意した。

イタリア料理、武者修行。

「下北沢のアルバイト先のお客様が、ホテル西洋銀座の料理長である室井氏を紹介してくださいました」。
室井氏とは、ホテル西洋銀座「リストランテ・アトーレ」の料理長を17年間務められた室井克義氏のことである。
「直接、室井さんにお会いして想いを伝えたところ、すぐにアルポルトの人気シェフであり、オーナーの片岡護さんに電話を入れてくださって…。それで私の就職が決まったんです(笑)」。
アルポルトでの修業は、1年半。その後、イタリアに渡った。
「私は、最初に室井さんが主宰されていたイタリアトリノにある外国人専用の専門学校に入学しました。学校のカリキュラムは2ヵ月で終了です。その後、研修先を紹介され、そちらで3〜4ヵ月、働きました。普通はそれで終わってしまうんですが、私はある方の紹介で、日本にもある『エノテカピンキオーリ』の本店で3年間、勤務させていただきました。今では7〜8年、向こうで勤務する人もいますが、当時は珍しかったと思います」。
現地のレストランでも修業は厳しいものなのだろうかと思い、聞いてみると「全然、そういうことはない」との答え。ただ、ミシュランにも登場する3つ星レストランだけに仕事量が多かった。また、黄色人種へのバッシングも少なからずあったそうだ。
食材に対する考えは大学の時の和食店で習い、イタリアンの基礎・味の付け方はアルポルトで習い、イタリアの文化、人々のバイタリティ、料理のバリエーションはイタリアで学んできた。そして帰国の時が来た。
実は「鉄人」の声がかかったのは、そのまさに帰国しようと思っていた時のことだった。

パスタのプリンス、TVに登場。

イタリア料理の鉄人。和洋中の鉄人のカテゴリーを外れ、第4のカテゴリーとして、突然、TVの表舞台に登場したのが、「パスタのプリンス」と呼ばれたイタリア料理の鉄人、神戸勝彦である。
「妹が結婚したこともあって、そろそろ実家に帰ろうと思っていた矢先のことでした。イタリアでも有名な3つ星レストランで、パスタ場のシェフもさせていただいていましたので、『やることはやった』という思いでいたんです」。
「番組が、イタリアで修業した日本の料理人を探していたそうなんです。それで、私にもどうかという声がかかって。最初は、挑戦者だと思っていたんです。だから1度くらいはと思っていたんです。いい思い出にもなるだろうと思って」。
しかし、ご存知の通り、挑戦者ではなく鉄人の仲間入りだった。
「初めての収録前は、1週間前から緊張して眠れなかったですね。当日、緊張していたからではありませんが、結局負けてしまいました。そして、まぁ、これで終わりだと思い、これを一つの記念として、私はいったん山梨に帰りました。それから1ヵ月後くらいでしょうか。またオファーがあったんです。視聴率が取れたのかもしれませんね(笑)」。
神戸は、鉄人で唯一の20代である。「プリンス」という称号も、この若き鉄人にはピッタリだった。のべ1年半で23回、出演した。すべて真っ向勝負である。
戦績は、23戦15勝7敗1分、勝率65.2%となっている。

店を持たない鉄人。

ところで気になるのは、撮影がある日以外はどうしていたのかということである。田舎である山梨で暮らし始めたのではなかったのか。直裁に聞いてみた。
「最初は、プロデューサーの知り合いのお店で働きました。その後、人手が足らないということだったので銀座の『エノテカピンキオーリ』で勤務させていただきます。番組は、1999年に終了するのですが、そのあと、この番組が終了する時まで、荻窪にある『ドラマティコ』というお店で働かせていただきました。ただし、私が、働いていることは決して口外しないでくださいと言いました」。
最後の一文はオーナーにとって微妙なところだったのではないか。
「料理の鉄人がいる店」ともなれば、いままで以上に人気になることは間違いないからだ。
「でもね、お店もそれほど大きくなかったから、いきなりメディアに取り上げられても大変になると思っていたので、口外しないことを条件にさせていただいたんです」。神戸らしい言い分である。
ちなみに、神戸が初めて鉄人を演じたのは、27歳の時。料理界では、歯牙にもかけられない年齢である。しかも、神戸が大卒だということを考えれば、わずか5年のキャリアで頂点の一つを極めたということになる。にもかかわらず、神戸は控え目である。
「番組が終了した時は、29歳です。最後に戦ったのは、陳さん。コテンパンにやられてしまいました」といって懐かしむように振り返った。

30歳、鉄人が独立を果たす。恵比寿の中で輝く星に。

「番組終了が1999年の10月です。一区切りですね。たまたま私自身も、店を出そうと思っていた時でした。それまでにも、実は色々なお話やお誘いをいただいていたんですが、全部、お断りしてきました。しかし、ちょうど30歳ってこともあって。一つ勝負に出ようかと」。
独立するなら恵比寿しかないと思っていたそうだ。「元々、鉄工所だったんです」と言って、店内を見渡す神戸。物件を観て、すぐさま決めたお気に入りの場所でもある。
「独立して15年、あっという間だったよね」と神戸。いい時もあれば、そうでない時もある。この15年で、恵比寿には沢山の飲食店ができた。今では90店もあるそうだ。
しかし、神戸の店、「リストランテMASSA」が、その中でも一際、輝いていることは言うまでもない。
ところで、有名店のオーナーであり、シェフであるにもかかわらず、神戸は軽快である。
「銀座に行く際は、自転車で」とさらりと言う。築地への買い出しは、地下鉄で。ゴルフは殆どしないそうだが、週一度、ジムに通い、健康には気を配っている。
この地道さというか、ひた向きさ。これもまた鉄人に選ばれた理由の一つと言えるのではないだろうか。
また、最後に若い方たちへのメッセージも伺った。
「20歳を過ぎたら、過疎地へ農業に行かせたり、アルバイトをさせて海外へ積極的に行かせるようにした方がいいと思っています。そしてその活動の間は、携帯を一切持たせない。デジタルな世界では無く、実際のリアルな世界を通して、本当に人の為、自分の為になるような経験をするべきだと思っています。日本政府が大々的にそういったことを行っていけば、日本は必ず良くなっていくと思いますよ」。と神戸は言う。
若いうちに世界の舞台へ自ら足を運び、自分の肌で「リアル」を感じてきた神戸だからこそ、その大切さが身に染みて分かるのだろう。かつて神戸がそうであったように、今からでも世界へ出て自分自身の無限の可能性を呼び起こす時なのだ。

思い出のアルバム
 

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