イル ギオットーネ オーナーシェフ 笹島保弘氏 | |
生年月日 | 1964年1月22日 |
プロフィール | 大阪府吹田市に生まれる。デザイナーを志すが、次第に料理に惹かれ、ついにはイタリア料理を本格的に修業するようになる。24歳で初めてシェフを任され、その後は独学で研鑚。32歳時にはTV「料理の鉄人」にも出演。38歳で、独立し、京都に「イル ギオットーネ」をオープンする。以来、イタリアンの明日をデザインするかのように、古都京都、また東京で出店を行っていく。 |
主な業態 | 「イル ギオットーネ」「イル ギオットーネ クチネリーア」「コード クルック+イル ギオットーネ」 |
企業HP | http://www.ilghiottone.com/ |
笹島が生まれたのは1964年1月22日。大阪府吹田市出身で、2人兄弟。
子どもの頃は、本を読むのが好きで「小説家になりたかった」と笹島。祖母の影響で考古学にも興味があったそうだ。
体を動かすことも好きだったが、それよりもクリエイティブなものに関心があった。
どこか大人びたクールな少年というイメージだろうか。
小学校の頃から成績はよかったが、中学になるとテストの点数も隠すようになる。勉強もしなくなっていった。「友だちの手前というか、あまりいい点を取ると引かれてしまうでしょ。だから、だんだん成績がいいのを隠すようになったんです」とナイーブな一面も覗かせる。
料理との出会いは、高校時代のアルバイト。
「17歳の時です。仲が良かった先輩の紹介で高級料理店で、バイトをさせてもらいました」。接客を通じ、初めて社会との繋がりを感じた。お金ではなく、働くことの楽しさや面白みを実感したのも、この時。「同級生といるよりも、社会人といるほうが楽しかった」と言っている。結局、笹島は、そのバイト先に就職した。
バイト時代もそうだが正社員になっても、先輩たちから可愛がられた。もちろん、厳しい一面もあったが苦に思ったことはなかった。ただし、ホールで就職したつもりが、人手が足りないからとキッチンに回された時には唖然とした。キッチンのノウハウは何一つなかったからである。
「とにかく洗いものです。洗い物以外は、危なっかしくて任せられなかったのでしょうね。『いいよ、お前は』って」。
大阪の御堂筋線の「江坂」駅近くにある人気店だった。「とにかく、忙しいのに人がいない。5〜6人は必要な店なのに、私を合わせて3人しかいません。それでも先輩たちは気を遣ってくれて。飯に行ってこいよとか、優しい言葉もかけてくれました」。
先輩たちの優しさに、頭を下げた。その一方で、何もできない己を腹立たしく思った。「キッチンが足りない? 全然、解決していないじゃないか!」。
「せっかくキッチンに入ったわけですよね。でも、皿洗いしかできない。先輩たちの手助けもできない。飯も食べずに頑張っている先輩たちを見ているから余計に腹が立った。それで考えたんです。キッチンで何が困っているか。すると魚や肉を下すことだったんです」。
「それで店には内緒で魚屋さんや鶏肉屋さんに行って、バイト代はいらないからと頼み込んで、働かせてもらいました。店が休みの日だけですが、それでもいい訓練になりました。ある程度できるようになった時、先輩に一度やらさせてくださいといって披露してみたら、『案外、できるじゃないか』ってことになって(笑)」。
笹島の料理人生の一歩は、たしかに、この時。
カレーも、シチューも、ハンバーグも、全然作れなかった少年が、やがてレシピまで理解するようになる。料理の奥は深い。金銭には代えられないほどの、感動が少年を包む。この時、笹島は17歳。社会人1年生でもあった。
「料理に興味を持った私は、ほかの店でも修業したいと当時の料理長に相談しました。そうすると、何でも屋はだめだ。専門的な料理人にならなければとアドバイスをくださいました」。
「当時は、フランス料理が花盛りだったんです。三國さんや坂井さんがスターシェフとして登場された頃です。だから、フランス料理に関心を持った人は多いと思いますが、私には合わないと思いました。フレンチはもう完成されていると思ったからです。それに比べてイタリアンは、まだイタリアから持ってきたものをそのまま出していた頃で、今からといった感じだったんです。そういう未完成な部分に、クリエイティブ魂が刺激されたというか(笑)。もともとデザイナーになりかったくらいですから、イタリアという国そのものにも興味があった。それも影響したんだと思います」。
専門的な料理というアドバイスを受け、笹島はイタリア料理に向かってみようと心を決めた。ただし、修業先が必要だ。
「たまたま心斎橋にイタリアレストランがオープンするという話を耳にしました。しかも、東京で店を出されていたシェフがオーナーというのです。オープンしてから早速、伺いました。もう、なんとかして採用してもらいたいから、お金はまったくなかったけれどワイン一杯と前菜のみで、毎晩のように通いつめました。すると、だんだん親しくなって、オーナーから食事に連れて行って貰えるようにもなったんです」。
「空きがでたら、必ず電話してあげるから」。優しい言葉もいただいた。
その言葉は嘘ではなく、しばらくして連絡が入った。
「空きがでたから、やってみないか」。
「当時、関西のイタリアンといえばコースでも2,000円くらいです。それをこの店では一品で2,000円くらいの料金をいただいていました。それでも人気だった。大阪には全然無い店だから、かえって良かったのかもしれませんね」。
ともかく、無事、笹島はイタリアンのシェフを目指して第一歩を踏み出すことになった。
ホームページを観ると、笹島は、24歳で「ラトゥール」のシェフ、27歳で「ラビィータ」のシェフを務めたとある。「24歳でシェフになってからは独学だ」と笹島。32歳、「イル・パッパラルド」へ。フジTV「料理の鉄人」で、初の東西対決を経験するのもこの時。相手はイタリア料理のアイアンシェフ神戸勝彦氏だった。この「イル・パッパラルド」を経て、2002年12月、「イル ギオットーネ」を開業する。38歳の時のことだ。
「この時、お金があったわけじゃありません。正直いえば無一文。でも、やるからにはちゃんとした店を出店したかった。概算1億。でも、金融機関は相手にはしてくれません。そんな時、ある人が手を差し伸べてくださったんです」。
ふぐ料理の専門店で知られる、株式会社関門海の創業者、山口聖二氏。一代で上場企業を育てた山口氏は、それほど会ったわけでもない笹島に何をみたのか。
「1億円の保証人になってくださったんです。山口氏は亡くなられてしまいましたが、奥さまとは今もお付き合いがあって。『私は辞めておきなさいよって言ったんですよ。でも彼は、最初の金ばかりはどうしようないからって、言い張ってね』なんて話をしてくださったんです。金融機関には、『もし失敗したら、オレが代わりに払ってやるからって』。凄い人です。全然、欲なんてない」。
山口氏の気持ちにも押され、いよいよオープンの日を迎えた。コンセプトは「もしイタリアに京都という州があったら」。
京都発信のイタリアンを目指し、笹島の新たな歩みが始まった。
「イル ギオットーネ」の足跡をもう少し辿ってみると、2005年、「イル ギオットーネ 丸の内」をオープン。京都と東京で、予約の取れない人気レストランとなる。
2008年には、「イル ギオットーネ クチネリーア」を京都の鴨川沿いにオープン。京都の風情に溶け込んだ、イタリアレストランが誕生する。
2010年には更に「トラットリア バール イル ギオットーネ」を開店。2013年には大阪・グランフロント大阪にコード クルックとのコラボレーション店舗「コード クルック+イル ギオットーネ」を開店し、現在2014年に至る。
看板シェフとして、笹島もつとに忙しい。TVや雑誌などのメディアでも活躍しているから尚更だ。
「京都と東京を行き来している生活」といって笑う。しかし、笹島がいなくても、店が回る。これが大事なポイント。笹島の人材に対する考え方が、この角度から伺える。
「スタッフ、特に社員にはガラス張りです。うちがいくらでも給料を出せれば別でしょうけれど、それほど多くの給料が払えるわけでもない。でも、私は、綺麗ごとでもなんでもなく、お金が全てではないと思っているんです」。
「お金以上にモチベーションとなることって、たぶんあるんです。もちろん、そのスタッフが目指す方向も大事で、たとえば料理長になりたい人、経営者になりたい人、さまざまです。私は1人1人、どうなりたいかと聞いたうえで(もちろん将来考えが、変わるかもしれないことを前提にして)、じゃぁ何をすべきかを教え、サポートします」。
「そのうえで、全部、任せています。たとえば、ワインなら、担当のスタッフが好きなワインを買えばいい、と言っています。その代わり、責任を持って売ろうね、と。うちは、すでに言ったようにガラス張りですから、仕入れの額も、売上も全部わかる。ワインもどれくらいで仕入れなければいけないかという範囲はちゃんと理解できる。あとは、その範囲を知ったうえで、どうするか。結果を先に考えていたら、成長はないし、感動もない。だから、どんどん思うように仕入れてみよう、といって任せているんです」。
これだけ店舗数が多くなると、すべて笹島が管理できるわけではない。信じて、任す。これが笹島流の経営の一つの流儀である。
信じるという意味では、自分を強烈に信じてくれた山口という好例がある。だから、笹島もメンバーを信じる。
身の丈も知っている。「人を育てるなんてことはおこがましいし、できないと思います。だけど、その人が成長していける環境を作ってあげることはできる、と信じているんです」。この言葉もいかにも笹島らしい。
最後に今後についても伺った。「イタリアに自分の店舗を出すこと」が目標という。イタリアという保守的な国でどこまでやれるかを試してみたいのだという。この志も、凄い。日本の先駆けとして、道を拓きたいと考えている。
むろん経営者としてだけではない。むしろ、料理人として、どこまで通用するか試してみたいという純粋な強い想いがそこにはあった。
「料理はクリエイティブだ」と笹島は言う。
特に舌が肥えた日本は、ただ創作料理だといっても旨くなければ通用する時代ではなくなっている。もっと洗練されたオリジナル料理。それが無ければ、もはや生き残ることも難しいという。普通なら、へこたれてしまいそうな状況だが、笹島は「その状況が、楽しいんです」と言う。
常に高みを目指さなければならないプレッシャーを心地良いと感じる。笹島は根っからクリエイターである。
そして、もう二つ付け加えるなら、クリエイターであり、そのうえで職人であり、人情味溢れた武士の心を持っている。
父が連れて行ってくれた舟 | 父が連れて行ってくれた釣り | 独立時 |
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