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第444回 株式会社La Brea Dining(ラ・ブレア ダイニング) 代表取締役社長 高橋知憲氏
update 14/08/05
株式会社La Brea Dining
高橋知憲氏
株式会社La Brea Dining(ラ・ブレア ダイニング) 代表取締役社長 高橋知憲氏
生年月日 1969年6月16日
プロフィール 愛媛県出身。年齢を重ねるごとに、都会の生活に対する憧れが強くなり、大学受験のためと、上京。大学時代に訪れたロスに魅了され、いつしかロスで店を出すという野望に突き動かされるようになる。30歳、恵比寿に恵比寿「砂漠楼」をオープン。すべてがそこからスタート。1号店出店時「いつかハリウッドに店を出す」と早々と宣言する。
主な業態 「砂漠楼」「陣や」「瀬戸内水軍」他
企業HP http://www.la-brea-dining.com/

アメリカでも注目される若き経営者

海外の人たちにとって日本料理は、どのような位置づけなのだろうか。晴れの日に食べる料理という話も良く聞くが、晴れの日ばかりが日本料理ではないだろう。
もっとも日本料理のイメージをたずねると「寿司」がランキング上位にくるはずだ。
カリフォルニアロールなど、海外仕様となった寿司も少なくないことからも伺える通り、寿司は海外でも立派に市民権を獲得している。
もちろん、日本でも寿司は晴れの日の料理だが、寿司もまた日本料理の一つに過ぎない。
では、日本で広く親しまれている「ラーメン」はどうだろうか。
ラーメンは、もともと「中華」と付いたぐらいだから、中華料理の一つとして紹介されたのは間違いない。しかし、カレーライスと同様、中華料理から独立し、いまや日本特有の味付けが施されている。
なかでも豚骨ラーメンは、日本固有種と言えるのではないだろうか。
話は長くなったが、今回、登場いただく高橋知憲氏は、この豚骨ラーメンなどのラーメンをメインメニューして、海外、特にアメリカに進出。同時に炉端のブランド「Robata JINYA」を展開し、2011年にL.A.の「レストランアワード」を受賞。いまやアメリカで注目と喝采を浴びる若き経営者の一人である。

少年時代。

高橋は1969年6月16日、愛媛県西条市に生まれる。西条市は松山市から車で東に1時間ほど移動したところにある海岸沿いの町である。
ご両親は、この西条市の駅前で割烹料理店「割烹むさし」を営んでおられる。兄弟は男ばかりの3人で、高橋は長男である。
いま振り返れば、どこかで両親の影響を受けたのは事実だが、「店を継ごう」と思ったことはまったくなかったそうだ。
「弟たちは皿洗いをしてお小遣いをもらったりしましたが、私は一切しなかった」とのこと。
とにかくスポーツ少年で、小さい頃からのソフトボールや野球を始め、柔道や空手も習っていた。小学5年からバスケットをはじめ、高校3年まで続けた とのこと。
両親は共働きで、なかなか子供にまで手が回らなかったのでしょう。長男の私は、子供の頃からあまり勉強をやれとか言われた記憶はなく、好きなスポーツに打ち込み自由を謳歌していました(笑))」。
「中学時代は真面目に勉強して、県有数の進学校に進みましたが高校では勉強はまったくせず、学校抜けて麻雀したり海行ったり、本当よく卒業させてくれたと思います(笑)。
それでもバスケットだけは全国大会出場を目指して、三年間必死で頑張っていました」。
しかし、本人は、そういうことよりも田舎を脱出することに注力を傾けていたそうで、勉学も、田舎を脱出する手段だったそうだ。

東京へ。そして、ロスへ。ロスに魅了された青年時代。

東京の大学へ。今度は、チャンスを逃がすつもりはなかった。進学は手っ取り早く田舎を脱出する方法である。高橋は、一浪の末、帝京大学に進んでいる。といっても、予備校に通うためといって、すでに東京で独り暮らしを開始していた。「もう、東京にいるわけですから、予備校の時もバイト三昧です。居酒屋、ケーキ屋、鉄板焼屋…。割烹の長男なのに飲食を経験したのは、この時が初めて(笑)」。
意図して、飲食を選択したわけではない。
多くの学生と同様に、手軽なバイト先として飲食を選んだに過ぎない。
ところが、このバイト時代に、重要な転機の一つが訪れる。
振る舞われた賄を食べた時のことである。
「賄が旨くないんです、全然。田舎のうちの店のほうが断然、美味しかった。そのとき、ふと、これなら、と閃くんです」。
これなら、俺にもできるのではないか。賄を食した時、いままで雲泥の差があると思っていた田舎と都会が一つになった。もったいぶらずに言えば、「都会もたいしたことはないではないか」ということだった。
「これで初めて、私の人生の選択肢に飲食というカテゴリーが登場するわけです」。
もっとも、それからの学生時代を飲食、または起業に向けて捧げたわけではない。「当時は、サークルやディスコ等のパーティーは流行していて、私は企画を立て…。楽しい青春時代を謳歌していました」。
大学生になって行動エリアも、グンと広がった。サークル活動の一環として北海道や沖縄旅行などを仕掛け、自らは無料で旅行を楽しんだこともある。海外旅行に出かけたのも、この時。L.Aやオーストラリアなどに出かけた。これもまた転機となる。
海外、特に高橋は、L.Aが気に入った。抜けるような青い空、明るい日差し、乾いた空気。
すっかりL.Aに魅せられた高橋は、それから1年に2〜3回、「暇ができればL.Aに飛んだ」という。
余談でもあるが「2000年に会社を設立するまで合計10数回は行った」と言っている。「アメリカ進出の夢を、夢で終わらせないように、ハリウッドに真っ直ぐ伸びるストリート La Brea Aveからとり、La Brea Diningとつけた」とも。
それだけL.Aに魅了された。いくつかの転機が、一つの構想に向かって収斂するかのように、高橋を導いていく。

一般企業も経験。「社長の近くで働ける会社」を選択する。

とはいえ目標に向かって一直線というわけにはいかなかった。L.Aへ、という目標は定まったが、すぐに行動を起こせるわけではない。L.Aで飲食という構想も固まっていない。
「とにかくサラリーマンになる気はなく、将来的には独立して起業したいと思っていました。でも、何をするにしても会社を知らないと話にならないと思い、某化粧品会社に就職しました。小さな会社です。私には、小さい方が社長との距離が近くて良かったのです」。
「とにかく1年でいろいろなことをマスターしようと決意していましたから、猛烈に働きました。学べることはすべて学んでやろうと」。計画通り1年で退職。
ギャップも感じた。社会人の常識も知った。一般的な企業で勤務したことで、高橋のなかで「飲食」が改めてクローズアップされてくる。
まだまだ勉強の時間は終わらない。
独立資金を貯めるためもあって、都内の割烹やさまざまな店で料理人として働いた。一時、「出家する」つもりで実家にも舞い戻った。

目標に向かって。本を読み漁った修業時代。再び、勝負の地、東京へ。

30歳で独立。明確な目標も立てた。ターゲットは、大学時代に閃いた「飲食」。
むろん家業を継げばノーリスクである。「頭をよぎったことはなくはない」と高橋は笑う。
修行の日々は、けっして楽ではなかった。「正直、これほど辛いものだとは思ってもいなかった」そうだ。
そんな時、『I LOVE RESTAURANT』を観て、勇気を奮い立たせた。本は、何百回読んだかわからない。飲食経営関係の本や雑誌を読み漁ったりもした。すべてが血肉になる。
30歳というゴールを定め、計画した資金800万円をなんとか貯蓄した。準備万端。高橋は再び東京に向かう。二度目だが、一度目の状況とはすべてが異なっていた。今度の東京は勝負の舞台である。
1号店は、「恵比寿に」と考えていた。理由はLAの3rd stに拘った時と同じで流行に敏感なおしゃれな人種が集まるエリアで勝負したかった事、そしてこれから注目される街になると思ったからだそうだ。先を見越した出店。当時、恵比寿には、まだ店がそれほど多くなかったという。
結論からいえば、高橋の狙いは見事にあたった。メディアにも取り上げられた。本店も、2号店も、紆余曲折はあったが繁盛する。有名な芸能人も通ってくれた。
「割烹料理で本気で修行してきたので、割烹レベルの和食をオシャレな空間で居酒屋値段で出すというコンセプトが恵比寿にハマるという自信はありました。しかしオープン当初から、順調だったわけではありません。それでも、狙い通りTVなどにも登場させていただき、赤字もなく店を展開することができました。ただし、日本での展開は、いわば海外に進出するためのパスポートのようなものです」。
1号店である恵比寿「砂漠楼」のオープンの時の朝礼。高橋は「恵比寿で成功させて、ハリウッドに行く」と宣言している。
ところで、高橋の店づくりは大胆だ。初期投資は3500万円に及んだと言っている。大半が借入れ。立地にも、内外装にも、こだわったからである。
メニューには、日本語の下に英語を入れた。オリジナルカクテルは、「マリブビーチ」や「ニューポートビーチ」など、すべてL.Aのビーチ名にした、とも言っている。
L.Aに対するこだわりとも言えるが、一方では、高橋のビジネスセンスと読み取ることができる。日本にL.Aの風を! 高橋のセンスは喝采をもって迎え入れられたことになる。とはいえ、真の挑戦は今からだ。

ベスト・レストランアワードを受賞した若手、社長。

高橋が、フードビジネスの新たな旗手としてメディアにも大々的に取り上げられるようになったのは、アメリカ・ロスでの成功があってのこと。特に、ロサンジェルスで「ベスト・レストランアワード」に輝いたことで、一躍注目を集めるようになった。
アメリカメディアの動向も、少しばかり紹介しておこう。
<NYAの「とんこつらーめん」が、ロサンジェルスでBEST 10 DISHES OF 2010に選出される>
<アメリカの有名シェフ40人が招待される2nd Annual Gold Standard Food + Wine Event に参加決定!>
<LA WEEKLY紙 Jonathan Gold が選ぶ死ぬ前に食べたい一皿ベスト99に「Ramen JINYA」が選ばれる>
<レストラン界のアカデミー賞と言われる Restaurant Awards 2011 in LA を受賞>
<2012度版 ZAGATに「Robata JINYA」「Ramen JInya」が選出される>
今尚、メディアもこぞって、日本からL.Aに殴り込みをかけた高橋の店を取り上げ、賞賛する。
むろん、たやすい道のりではなかった。「海外を本格的に視野に入れ始めたのは、『陣や(JINYA)』を出店し始めたころです。1号店を出店するのに、2年くらいはかかりました。法律も異なる。商習慣も異なる。「日本のやり方を海外に持って行っても、通用しません」と高橋。
先人として、高橋に注目が集まるのも、この異なる文化の国になかば単身で乗り込み成功したからだろう。
現在の店舗を列挙する。
2014年4月現在でオープンしている店は、LAで3店舗、NY、シアトル、バンクーバーに各1店舗、ジャカルタ「Robata JINYA」を出店している。
今後の出店が凄い。
2014年5月以降にオープン予定の店舗を列挙すると、6月にラスベガス店、7月に・ヒューストン Nasa店、8月にヒューストンMid Town店、10月にバンクーバーWest 店、サンタモニカ店、ソルトレイクシティー店、シンガポール店、11月にサンディエゴ店、ワシントンDC店、12月にダラス店、翌年2月にRobata JINYA サンディエゴ店となってる。
目標は、と伺うと、2019年6月までに、全米100店舗ということだ。

ハリウッドに店を!

愛媛県はみかん農家が多い。その県の、小さな田舎町に生まれた青年が海を渡り、海外でも高く評価されるビジネスを展開する。
奇跡にちかい、ロマンだとも思う。
ところで、その昔、アメリカ全土に旋風を巻き起こした「紅花」の総帥、青木湯之助氏が息子たちを引き連れ渡米し、マンハッタンに「BENIHANA OF TOKYO」を開業したのは、もう50年以上前のことだ。
それからもさまざまな日本人が渡米し、日本とアメリカの距離もずいぶん近づいた。しかし、フードビジネスにおいては、やはり本場アメリカはいまだ越えられない高い壁と、言う経営者も少なくない。
そんななか1人の青年が、徒手空拳にちかい状態で果敢に挑戦。その青年の軌跡を辿ったいま、我々はもう一度、盛大な喝采を送りたくなる。
ハリウッドに店を。
ロスに魅せられた青年の野望は、見事に実った。

思い出のアルバム
 

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