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第445回 株式会社敬香堂飲料店 代表取締役社長 村山 敬氏
update 14/08/12
株式会社敬香堂飲料店
村山 敬氏
株式会社敬香堂飲料店 代表取締役社長 村山 敬氏
生年月日 1974年3月13日
プロフィール 宮城県栗原市生まれ。法政大学卒業後、サントリー系列の株式会社ダイナックに就職。湯島のバーに配属され、バー業態中心にキャリアを育成する。2006年、独立。湯島に「バーカドヤ」をオープン。角ハイボールを売り出し、時代の火付け役となる。
主な業態 「バーカドヤ」「カドヤ食堂」「ピッツェリアアンゴロ」他
企業HP http://www.keikadou.co.jp/

優秀な兄の背中を追いかけた少年時代の話。

「宮城県栗原市は、田園風景が広がる長閑な町だ」と村山。市の北西には栗駒山が聳え、栗駒山を含む栗駒山地は栗駒国定公園にも指定されているそう。周りは、むろん米作農家ばかり。
この町に村山が生まれたのは、1974年3月13日のこと。4歳離れた兄との2人兄弟。
「父は、運送会社を経営し、長距離の大型トラックを運転していました。私も良く一緒に東京に向かいました」。
「東京が近づくと、東京タワーや超高層ビルが見えてくるんです。なんか、すごいなぁって…」。父と向かった東京。それは、鮮明な記憶の一つとして、今も残っている。
「父と共に車の工場に行くことも多くって、車の修理工場と喫茶店が一緒になった店があればなぁ、と漠然と思っていました」。
ものづくりが好きで、大工にも憧れていた。
小学2年生になると、兄と一緒に空手道場に通った。才能があったのだろう。県の大会で3位になっている。サッカーを始めたのは、小学6年生になってから。
中学2年次には、マラソン大会で優勝。
成績も、スポーツも優秀な兄の後を追いかけた。兄ほどではなかったが、少しずつ目立つ少年になっていった。
「私は兄の背中を追いかけて大きくなった」と村山。その兄は、国立の東京学芸大学にストレートで進学。「勉強すれば、私も兄のようにストレートで合格できると思っていたのですが、現実は甘くなく、浪人する羽目になりました」といって村山は笑う。

「8時間仕事をして、8時間遊んで、8時間寝る」。元日産の営業マンの持論。

「早稲田か明治かと思っていました。でも、1年間の浪人生活もむなしく2浪が決定してしまいました(笑)」。いまなら笑って言えるが、当時は、「何をすればいいのかまったく分からなくなった」そうだ。
さすがに親に迷惑ばかりかけてはいられないと勉強の傍ら、バイトも開始する。小さな居酒屋。その店のマスターが粋な人だった。
「日産の営業マンだったそうです。脱サラして店を開いて。マスターの持論は『8時間仕事をして、8時間遊んで、8時間寝る』でした。ダットサンにサーフボードを積んで、せっせと波を追いかけて。私も当時まだ18歳でしょ。なんだか格好良くって。その時、飲食というか、飲食を通して、こういう生活もできるんだというのが、頭の中にインプットされたんだと思います」。
24時間、3分割。確かに合理的。均等な割振りでもある。だが、仕事に重きを置かざるを得ない、サラリーマンには無縁の話であるのかもしれない。
やはりマイペースで生きようと思うなら、独立するしかないのだろうか。もっとも、「独立すれば、好きなように生きられる」と思い込むのは早計であるのだが。
いずれにせよ、このマスターの生き様は村山の生き方に多少なりとも影響している。とはいえ、浪人生。まだ独立、開業は頭にない。

学生にして、高給取りに。

2浪の末、村山が進学したのは、法政大学の夜間部であった。
さっそく本格的にバイトも開始する。
「最初は、ファミリーレストラン」と村山。だが、時給が安い。
「それで、友人の伝手で、葬儀屋で働くようになったんです」。
最初は、慣れなかった。検死に立ち会った時は、なかなか眠れなかったそう。
「それでも、バイト代が凄く良かったんです。日給が3万円になることもありました。計算すれば、当時の新卒給料の倍くらいになっていたでしょうね」。
良かったのは、バイト代だけではなかった。旨い料理もご馳走になった。4年間、ほぼ世話になった。
「勉強にもなりました。仕事に慣れてくると、少しずつお浄めの料理の台数や式の進み具合のチェックもできるようになっていきましたから」。
学生にして早くも高給取り。当時の仕事観は、どういうものだったのだろう。

バーに憧れ、ダイナックに就職。

「当時は、川崎にあったバーに憧れていたんです」。
何しろ、金はあった。薄暗い照明の中、無数の酒と磨き上げられたグラスが並ぶ。時間の許す限り通った。「この時、バーが好きになりました。就職も、バーのような店舗を運営している会社がいいと思って、サントリー系列のダイナック1本で勝負しました」。
最初の配属は、湯島のとあるバー。
「バーに配属されたのは、強く希望していましたから」と村山。
それには今も感謝している。
客層は、様々だった。
「湯島はいろんな人種が入り混じっているような街だった」と村山。夜の闇は、人種の違いを浮き彫りにした。「まず、超お金持ちの人。何代も続く家柄の職人さんとか。そういう人たちはお金の使い方も桁が違っていました」。
人脈もどんどん増えていった。楽しかったからだろう。休んだ記憶はないが、それを苦だと思ったことはない。
その後、業態開発室に配属されたこともある。
「1年間、自由にやらせてもらった」そうだ。この1年の経験も大きい。業態を作る、というなかなかできない経験を積むことができたからである。
経験が増えると、視界も広がる。やりたいと思っていたことに少しずつ手が届くようにもなる。

運命の決断。

村山が、ダイナックを辞めることになったのは、「銀座 水響亭」の立ち上げが引き金だという。莫大な予算が組まれたビックプロジェクトだった。巨大な予算に、怖気づいたわけではない。ただ、やるなら「腹を決める」必要があった。
「骨を埋めるか」「独立するか」の選択を迫られているようにも思えた。この二者択一が結局、村山の背中を押すことになる。
「たまたま湯島のバーに行ったときのことです。隣の店が空いていて、ああ、これもまた運命だろうと思って、決断しました」。
いざ独立へ。店の名前は、「カドヤ」にした。

角の店から日本中に。

店名の由来は、と伺うと「角の物件だったから」とのこと。むろん、もう一つある。「角瓶です。あの無骨な瓶。日本らしくてとてもいいでしょ。それに、昔からの料理長は角ハイボールばかり飲んでいたのも記憶にあるんです」。それで、「角(かく)」をカドにして、カドヤ。
「フライパンで作る料理と角ハイボールをコンセプトにしました」。これが、ズバリあたった。
「角ハイボールのCMもうちのお店で打ち合わせされたんですよ」と村山。「角ハイボール」が、いっきに流行したのは、村山の店からだ。
独立して8年経つ。2014年、村山は40歳になった。
そろそろ、次のことも、と村山は話す。
「店は、湯島を中心にドミナントで10店舗ほど展開したいな、と思っています。外に広げていくのは、それからでいい」。
「その一方で、産地と直接繋がるような店もやってみたいな、と思っています。幸い、田舎に残っている仲間たちもいい歳になって、顔も利くようになりましたら。そうですね。まずは、地元栗原市の食材にフューチャーした店をやろうと思っています」。
「カドヤもそうですが、メインは一つでいいと思っています。向こうの米を使った店。それも面白そうだし、やってみたいなと思いますね」。
田舎を飛び出して、もう20年以上経つ。最近は、田舎のことも良く思い出すそうだ。しかし、村山は過去を観ているわけではない。田舎を通して未来を観ているのだ。

思い出のアルバム
 

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