日本橋ゆかり 店主 野永喜三夫氏 | |
生年月日 | 1972年2月26日 |
プロフィール | 創業昭和10年より続く名店「日本橋ゆかり」の3代目店主として生まれる。「店を継ぐように」と言われたことはないそうだが、幼い頃から、自ら進んで料理に取り組んだ。高校卒業後、「服部栄養専門学校」に入学。実技では右に出るものはなかった。ターニングポイントの一つは、京都の名店、「菊乃井」に入社したことと語る。店主、村田吉弘氏の下、卓越した料理とともに、料理人のもう一つのミッションを修得する。それが世界への発信である。2002年の、「料理の鉄人Japancup'02」の総合優勝で評価を高めニューヨークタイムズ紙で日本の若手料理人5人に選ばれるなど、日本を代表する料理人となる。現在も、総理公邸での夕食会、自治体や企業の料理アドバイス、また世界に和食の魅力を広めるために精力的に活動中。著書「フライパンで和食」をはじめ、レシピも多数公開。名店の3代目店主の枠を超えた幅広い活動に注目が集まっている。 |
主な業態 | 「日本橋ゆかり」 |
企業HP | http://nihonbashi-yukari.com/ |
創業昭和10年。宮内庁にも出入りを許されている老舗料理店「日本橋ゆかり」。3代目の野永が生まれたのは、1972年2月26日のことである。
小学3年生で早くも魚を3枚に下ろせたそう。小学校を卒業する頃には「からすみ」の作り方までマスターしていたという。凄い少年だ。とはいえ、本人は「遊びの一つ。料理をするのが楽しかったから」と当然のような顔をする。料理だけではなく、ものづくり全般が好きだったのだろう。学業では、図工の成績がずば抜けて良かった。
今も料理だけでなく、空間デザインにも、陶器づくりにも興味を持つ野永らしい少年時代の話である。
小学生の頃から包丁を握った。「楽しかったから」と野永は笑うが、「日本橋ゆかり」2代目店主から授かった才能と技は、世代の中ではやはり群を抜いていたのだろう。「服部栄養専門学校」時代、実技で彼に敵う生徒はいなかった。卒業後は京都の名店であり、日本を代表する料理店「露庵 菊乃井」の門を叩くことになる。
「少しでも早く入ったほうがいいだろうと思って、3月26日に入社しました。同期は、私を含め3人。最初から頭一つ抜けようと思ったんです」。ところが、出鼻をくじかれた。「私以外の2人は、1年前から店でアルバイトをしていたんです(笑)」。
標準語になるのかもしれないが、江戸っ子の言葉も壁を作った。
「当然、同期の2人と私では、仕事も違います。彼らは盛付けまで任されていましたが、私は皿洗いなどの裏方の仕事ばかりでした」。周りには、野永同様に名店の2代目、3代目も少なくなかったそう。水をあけられた、と焦る気持ちはなかったのだろうか。「私は、チャンスだと思いました。裏方から周りを冷静にみることができたからです」と野永。
たしかに、端から頭角を現していたとしたら、今の野永はなかった気がする。人は、頭を打たれて初めて貪欲にもなることができるからだ。修業の正体は、それかもしれない。
ともあれ、野永が語る「菊乃井」の話は、とても興味深い。料理人はこうして出来上がっていくというお手本のようにも思えるからだ。
「賄で、うどんを作った時です。こっぴどく怒られました。関東と関西のうどんの違いを知らなかったんです。全く異なる味。怒られながらも、これだけ違うんだって、びっくりしたのを覚えています。」
違いはいろいろあった。料理に対する考え方も、その一つ。「菊乃井」では、男性も接客に努める。料理人であっても、サービスマンでなければならないという考えからだ。知らないことは、全てメモに取った。特に、店主である村田吉弘氏に言われたことは、全てメモに残した。そして、それは何十枚もの束になった。
「もともと菊乃井に入ることにしたのは、父の助言があったからなんです。『これからは、菊乃井の時代になる』と。そういう目で見ていましたから、店をどう運営していくか。料理だけでなく、サービスも含め、総合的に勉強させていただこうと心掛けていました」。
「菊乃井」と実家の「日本橋ゆかり」。その違いを客観的に見て採り入れようともしていたはず。
「人にも恵まれました」と野永は言う。先輩や料理長に可愛がられた。いつしか、はんなりとした京都の言葉もマスターしていたのだろう。「休みの日には、京都の有名な料亭に連れていってもらったりしました。なかには、名店の息子さんもいて。で、『家に行こう』って」。
「繋がっているんですよね」と野永がよく言う。名店の次代を担う店主たちが、修業時代に繋がっていく、そういう様子が伺える。
尊敬できる人にも出会った。「料理長が凄い人で、彼の料理を見てハッとすることばかりでした」と言っている。
食材の生産者にも出会った。「私らが、朝一で農家に行って野菜を仕入れてくるんです。加茂茄子を仕入れに行った時のことです。『食べろ』と言われたんです。『え、生でですか?』って言ったら、『そうだ、食べてみろ』と」。半信半疑でかじると、まるで果物のようだった。「改めて食材の大切さを意識させてくださったのは、この方です。断然、興味が湧いて、休みの日には野菜を育てるお手伝いをさせていただきました」。交流も広がった。今も電話一本で、食材を入手できるのは、当時からの付き合いがあるからだ。
いつしか、先輩たちを追い抜き、頭角も現した。村田氏がTV出演する際のサポートをするようにもなったのは、入社して1年後の20歳の時だった。「神経も使ったし、胃潰瘍も起こしましたが、そういうことを乗り越えて今があるんだと思います」。
才能。野永もインタビューで、才能という言葉を使った。たしかに、野永の料理を見ると、芸術家にも似た才能を感じる。しかし、決して才能が独り歩きした結果でないことが、「菊乃井」時代の話を聞いて良くわかった。
休日になるとバイクで畑に向かい、畑を耕す。店主の言葉を聞き漏らさずメモに取る。「絵コンテ」を描いて、レシピを再現できるようにもした。その一つひとつが、才能という二文字を開花させることになったことは間違いないだろう。
村田氏についても伺った。「天才だと思いました。料理から広がる、無限の可能性を見させていただきました」。村田氏も野永の才能を早くから見抜いていたのだろう。修業が終わってからすぐに村田氏から声が掛かり、シンガポールで開催された「第1回世界料理サミット」に同伴した。野永に世界と言うフィールドを見せてくれたのも、村田氏である。
ここで、時系列を整理したい。
野永が「菊乃井」を辞し、「日本橋ゆかり」に入店したのは、1997年の6月のことである。「親子三代、宮内庁の出入りを許され、春や秋の園遊会や新嘗祭などのお手伝いに出向いています」と、野永は語る。
村田吉弘氏の手伝いで、シンガポールへ出向いたのも、この年。
2000年6月に、店舗を全面改装。この時、「東京建築賞」を受賞している。
そして、2002年。29歳の若さで野永は、フジテレビの人気番組「料理の鉄人Japan-Cup ’02」に登場。お茶の間に姿を現した。
「出るからには絶対優勝する」と闘志を燃やした。「とにかく戦略を立てた」と野永。しかし、試合に使う食材は当日にならないと分からない。幾つもの食材をイメージしてシミュレーションをした。もちろん当日は、ぶっつけ本番である。しかもこの時は、若手料理人が早い段階にてトーナメント方式で対決するという今までにない形式で進められた。対戦相手は和・洋・中にイタリアンが加えられた日本を代表する若手料理人たちである。総合優勝するということは、日本の若手料理人の頂点に立つことを意味していた。
この試合に先立ち、野永は、オーストラリアに1本の電話を入れている。「菊乃井にいた時の同期です。山本という料理人で、当時は彼の段取りの良さに舌を巻いたこともありました。いい意味でライバルだったし、何よりお互いに気心が知れていました。そして、当時オーストラリアにいた彼にサポートしてもらいたくて、急遽電話を掛けたんです」。
快諾だった。そして、互いに経験を重ねた2人が共演することになった。黄金コンビは、強い絆で結ばれていた。負けずに、決勝戦まで駒を進める。最後の相手は、唯一の鉄人、中華の陳健一氏だった。
「この試合で陳さんを破り、総合優勝したことで、様々な人が祝福してくださいました。細木数子さんと神田川さんからも、お墨付きをいただけたことは嬉しかったです」。
この年の9月、野永は再度、海を渡っている。「スペイン・アンダルシアの食材『ハモン・イベリコ、オリーブオイル、シェリー』の生産地を訪問し、日本料理とスペイン食材の初のコラボ企画を実現させました」。
翌年2003年には、ニューヨークタイムズ紙で日本の若手料理人5人に選ばれている。「和食」というカテゴリーが世界的に認められていくなかで、和の料理人の舞台も、日本だけではとどまらなくなった。野永は、いつの間にかその先頭を走るようになっていた。
同年9月には、<「日本のグラン・シェフ55人」皿に彩るアーティスト>に最年少で紹介される。2006年、日本料理アカデミーに正式入会。
2007年3月には、「日本食文化フェスティバル in NY FLAVORS OF JAPAN-Gastronomic Discovery」に参加するためにニューヨークへ渡った。同年10月、「ニューヨーク食文化事業」のため再度渡米。
2009年3月には、カリフォルニア州で日本産農林水産物・食品のPRイベントに参加している。料理だけではなく、日本の食材をPRする役目も担っている。
「世界の億万長者たちから声が掛かるようになった」と野永が言うのは、2009年にニューヨークのメトロポリタン美術館で懐石料理を作ったことがきっかけだった。
2010年9月には、北米レストラン協会「DiroNA」の20周年会議で日本食文化を披露する代表シェフとして招待され、トロントへ渡った。2011年10月には、「GRAND CRUCULINARY WINE FESTIVAL」にゲストシェフとして参加し、ワインに合う日本料理を手掛けた。野永は、以上のような海外での活動では、特に現地にあった日本料理の提案をするように心掛けている。骨の多い魚が苦手な外国人には、なるべく骨の少ない食べやすい品種を使う。野永の日本料理にはそういった心遣いが、至るところに溢れているのだ。それが、外国人のハートをしっかり掴んでいる。
今回、改めて老舗料理店の3代目の半生を追って思ったことは、その明晰な頭脳である。料理は、感覚に近いものだと思っていたが、それを言葉に置き換える。こちらも理解できるようにコミュニケーションしてくれる。どうして、ダシ入りの味噌汁があるのか、といった話も印象的だった。
世界に「和食」という文化を広めるうえでも、こうしたコミュニケーション力は欠かせない才能の一つだろう。
野永が料理の鉄人で勝利し、早12年が経っている。「日本橋ゆかり」の3代目店主であることは言うまでもないが、それ以上に日本料理を世界に発信する代表的立場にあるとも言えるのではないだろうか。
野永が、料理を語るとき、料理は芸術となり、文化になるのだ。
服部栄養専門学校時代 | シンガポールでの第1回世界グルメサミットにて | 日仏食文化ワークショップにて。パスカル・バルゴ氏及び師匠の村田吉弘氏とともに。 |
オーストラリアトップオーナーシェフの和久田哲也氏及び奥様とともに。 | 北米レストラン協会「DiroNA」20周年イベントにて | アメリカCIAでの日本農林水産物・食品PRイベントにて |
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