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第447回 株式会社HAREMUNE 代表取締役 桑江夢孝氏
update 14/08/26
株式会社HAREMUNE
桑江夢孝氏
株式会社HAREMUNE 代表取締役 桑江夢孝氏
生年月日 1975年11月7日
プロフィール 大阪府狭山市で育つ。運動神経も抜群、成績も優秀な少年時代。大学卒業後、放送作家を目標に上京。ゴールデンタイムに放送される番組に参加、「ドリームズ・カム・トゥルー」のプロモーションマネージャーにもなれた。しかし…、ある問題を境に人生は暗転する。もがき苦しむなかで、真実の愛に出会う。体に課題がある奥さまのために漢方を学び、<薬食同源をベースとして薬酒・ハーブリキュールの専門店>を展開。FCを含め現在7店舗。大手薬酒製造会社や医療法人などからも、注目されているそうだ。
主な業態 「薬酒Bar」
企業HP http://yakusyu.net/

少年時代の話。

「サッカーをやろうと思っていたんです。でも、定員オーバーで(笑)」。そういって、桑江は子ども時代を振り返った。「それでソフトボールに。中学校に入ってからは、硬式テニスをはじめました。ダブルスの相方が上手くていきなり大阪大会で優勝して…」。
桑江が生まれたのは1975年。大阪府の狭山市で育った。「父は、お酒もたばこもやらない実直を絵に描いたような典型的な昭和のサラリーマンでした。母はもともと学校の先生で、結婚してからは公文式の塾をはじめます。最盛期には200人の生徒がいたそうです」。
母が公文の先生だとすると…。
「そうなんです(笑)。先生の息子でしょ。僕の成績が塾の評価に直結します。幸い、クラスでも点数はいいほうで、学年で上位をキープ、でも中学校からの成績はたいした事ないです。児童会長や生徒会役員などは積極的に参加しました」。

「お笑い」でも才能を発揮。

「高校に入ってようやくサッカー部に入ります。レギュラーにしてもらって。スポーツは得意でした」サッカーのかたわらでバンドも始める。「大阪でしょ。お笑いも始めたんです」。
「凄く面白い友人とコンビを結成して、<元気が出るテレビのお笑い甲子園>に大阪代表として出場しました」。競争率はむろん高い。200組〜300組がいて、代表に選ばれたのは桑江コンビのほか2組だけだった。
「COWCOWや2丁拳銃さんとかいました」と言って笑う。こちらも羨ましい世界である。
「その頃から作家になりたいと思っていました。祖父が学者みたいな人だったので、その影響を受けたのかもしれません。お笑いをやったのも、作家になるという長期目標があったからです」。
なりたい人は、結構いる。だが、なれる人は少ない。目標に向かって進めば進むほど、ゴールが遠ざかることもある。果たして、桑江はどうなるんだろう。

フライパン一つ抱えて。

大学は家の近くということで、大阪芸大に進学した。同時に大阪シナリオ学校にも通う。
一方、大学になってボクシングを開始した。すぐにリングに上がり、大会ではレギュラーになった。運動神経は、健在だった。
3年の後半から先輩のパブを手伝うようになった。有名人も来るような店で、売上も悪くなかった。「最後4ヶ月間タダ働きでしたけど良い経験でした(笑)」。売上は悪くなかったが、自転車操業経営で。結局、1年でクローズ。
もっとも、桑江はひとまず目標を放送作家と定めた。大学を卒業すると、フライパン一つ抱えて友人の車に飛び乗った。放送作家になるためである。
ところで、フライパンを持っていった理由を伺うと、「いつか話のネタになるかな、と思って」と笑った。

放送作家の卵、新宿の中央公園にて、寝る。

子どもの頃から物語りが好きだった。仕事ともなれば好きなだけでは務まれないが、幸運にも仕事にはありつけた。とはいえ、持参したのはフライパン一つ。炒める食材もない。シャレにもならなかった。むろん、雨風をしのげない。
「仕事はあったんですが、報酬が入るのは、先でしょ。だから、お金がない(笑)。困りました。しかたなく最初の数週間は、新宿の中央公園暮らしです」。
ご同輩もたくさんいた。テントはたいていブルーシートで覆われていたが、なかには2LDKを超える豪華なテントまであった。
「新宿はものが一杯あまっているでしょ。だからだと思うんですが、 公園生活に困っている様子はなかったですね。どこに行けば何があるか、判っているんですね。ご相伴にも預かりました(笑)」。
それも、一つの体験である。彼らの生活をトレースすれば、それだけで一つの物語りができそうだった。
友人ができると、友だちの家も転々とした。とにかく金がない。腐ったシーチキンを食べて、救急車を呼んだこともある。当時を振り返って、「素麺、あれがいちばんいい。早く作れて、何より安いから」ということを教えてくれた。
「仕事のほうは、スーパーナイトという番組のリサーチャーから始めることになりました。リサーチャーっていうのは、番組にするネタを探すのが仕事です。だから、毎日、全国の新聞40紙を隈なく観ていました」。
「恋ボーイ恋ガール」でゴールデンタイムも経験した。
月に30〜40万円、儲けられるようになっていた。
放送作家へ。一歩、一歩、進んでいた。この頃は、たしかに。

ドリームズ・カム・トゥルーの歌とともに。

「そういう仕事のかたわらで、ある人の出資でアパレル企業をやることになったんです。経営者は、僕。友人も誘って出店しましたが、これがぜんぜんうまくいかなかった」。 
  「海外のブランドとアライアンスを組んで、日本で販売したんですが…」。
渋谷に出店した。「家賃が月90万円で、売上90万円」と桑江。
それでも、なんとか食べていけたのは、いっしょに立ち上げから参加してくれた仲間が、ほかの会社でバイトしたお金をみんなで折半していたから。
ただし、月5万円。またまた素麺が恋しくなる生活に逆戻りである。「3年間くらいは、ほんと月5万円で生活していました」。放送作家になる道にも、霧がかかった。その霧が晴れかけたのは、あるイベントを請負った後である。
「ドリームズ・カム・トゥルーの中村さんに認めてもらって、3年くらいマネジメント会社に在籍しました。ドリカムのプロモーションマネージャーなどを務めさせてもらっていたんです、もちろん怒鳴られて怒られながらですけど」。
ドリカム、トップクラスのバンド。プロモーションマネージャーとして、月5万円の生活から、ふたたび少し浮上。
しかも、大スターのマネジメントである。調子に乗ってもしかたなかった。あるレーベルを立ち上げ、TV番組の制作を手がけるようになる。しかし、、。

信用もすべて捨てて、走った夜。

「東北がどっかの、誰のものともわからない場所で膝を抱えて、そう、三角座りで。もうだめだって、天井を見上げてため息をつくんです。信用も、信頼も、すべて失ってしまったから」。
「陥ってしまった」という言葉を使っていいかわからない。
とにかく、夜逃げ状態。仲間の元からいなくなるしかなかった。膝を抱えていたのは、その時のワンシーンである。
29歳になっていた。芸能界にもそれなりの知り合いが出来ていたはずだし、気の合うタレントも出来ていたかも知れない。得意の「お笑い」で、彼ら、彼女らを笑わせたこともあるはずだ。
「ぜんぶ失くしたと思いました。気が付くと追い込まれて、そうするしかなかった」。
桑江は人生の森をさまよった。
方向を見失った時、辛くて星を仰ぐしかなかった時、そばにいてくれたのが、いまの奥さまである。
「信用を取り戻せたわけではないですが、恩人である飲食会社の先輩達やそれでも仲間でいてくれた友人達の優しさで再出発できるようになりました」。
再出発。1人では、とてもスタートできなかったかもしれない。隣には奥さまがいた。
「住所不定無職。そんな僕でもいい、と彼女は言ってくれたんです」。
結婚した。
今度の旅は昔のように、「フライパン一つ抱えて」というわけにはいかない。

30歳、薬酒バー開業。幸せは、どこにあるものでもなかった。たぶん、いつも目の前にあった。

「私にはもう失うものが何もないと思っていました。でも、妻がいたんです。彼女は脳下垂体腫瘍を抱えていたんです。結婚前から聞いていました」。
「私はこのあと、薬酒バーというのを開業するのですが、これも実は彼女の病を治したい一心で、たどり着いた東洋医学の漢方、薬膳から生まれたものなんです」。
怪我の功名というラッキーな話ではない。5年かけ、勉強した。海外にまで赴いている。結果、薬草を用いた飲食物で、奥さまの腫瘍が良くなった。
妊娠までできるようになった。
「最初はね。彼女のいのちを救いたかったんです。そればかりを願って。でも、15年も治らなかった病気が薬膳のおかげで治り、そのうえ、子どもが産めるまでになったんです」。
「奇跡」という言葉を使ってしまうと、うそっぽくなる。だが、事実、奥さまが治ったのは事実だった。そして、子どもまで授かった。これが東洋医学、薬膳のちからである。
間違いはなかった、と叫びたかったに違いない。
「東洋医学のちからをまざまざとみせられ、私たちだけではもったいないと思って」、拡販にも注力するようになる。
もっとも薬膳は、苦いというイメージもある。薬草や漢方も、同様。それで、思いついたのが「薬酒」だったわけだ。
「自然治癒力研究所の阿部先生に勧めていただいて。当時、私はお酒が苦手だったんですが、飲まないといけない時もあった。ならば、飲んでからだにいいお酒があれば、とも思っていたんです。僕自身も20年来の薬アレルギーも良くなりました。
「薬酒バー」をオープンさせたのは、30歳の時。ここから「薬膳」と「薬酒」と桑江の旅が始まった。それは、奥さまの病を直し、2人の子も授かったことで、一つのゴールを迎えたと言っていい。
そこからの旅は、幸いにも手にすることができた幸福を、今度は、ほかの人にも渡していく旅となる。
店は、その旅のステーションである。「現在、FCを含み7店舗」と桑江。店のキャッチフレーズは<薬食同源をベースとした薬酒・ハーブリキュールの専門店>である。
最後に桑江は、「長い間、目の前にある幸せに気づけなかった」と漏らした。そういう意味ではたしかに人間は、愚かだ。だが、その愚かさに気づくこと。それが、人生という旅の味なのかもしれない。

思い出のアルバム
 
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