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第451回 株式会社備長 代表取締役社長 鈴木 博氏
update 14/09/22
株式会社備長
鈴木 博氏
株式会社備長 代表取締役社長 鈴木 博氏
生年月日 1959年3月24日
プロフィール 愛知県刈谷市生まれ。大学卒業後、九州の柳川で1年修業、その後、名古屋のうなぎの名店「西本」で10年修業し、独立。「ひつまぶし」専門店をオープンし、「ひつまぶし」を全国区にするとともに、そのブランド化に成功。「ひつまぶし 備長」は、今や海外からも出店のオファーが絶えない人気店である。
主な業態 「ひつまぶし 備長」
企業HP http://www.hitsumabushi.co.jp/

大学卒業までの鈴木博。

鈴木が生まれたのは、愛知県刈谷市。父は公務員。 2人兄弟の次男で、兄は、誰もが認める優等生だった。 「まずうちは母親がもう、子どもべったりというかな、そういう家庭で。兄貴は、それに応えて学校の成績は良かったんだけど、弟の俺は、ちょっとそういうのに反抗したっていうか。兄貴と比較されんのも嫌だったわけ。それで一時期、悪さもするようになって。あれは高校2年の時だと思うんだけど、親父から『無人島に行って暮らせ』って。そうすれば誰にも迷惑が掛からないから。あの時の親父の目は、冗談を言っている目じゃなかった。それで俺もハッとなったんです。元々しっかり育ててもらっていたこともあり、勉強もやれば一応できた。たまたま進学コースちゅうこともあって、それで勉強も真面目に取り組んだんです。結果、推薦で大学に進学したんです」。
大学時代の話も、大胆でユニークだ。
「スポーツサークルに入っとったわけですよ。1年の時、ペンションのオーナーと親しくなり、『人を何人か連れてきたら、いくら』みたいな話になって。それで50人連れていったわけです。そのうち、とある旅行会社の社長とも知り合いになって。名刺も刷って、パンフレットも配るようになって。一時は、まだ学生の分際で、栄にオフィスを構えて、100人のスタッフを動かしていました。まぁ、それなりに儲かりました」。 
鈴木は、「小銭」というが、金額を聞くと小銭どころの話ではなかった。
「でも、まぁ本分は大学生でしょ。それで、大学3年で引退し、ハワイ大学に2ヵ月間短期留学をしました。大学を卒業する時には、4つの選択肢があったんです。1つ目は、お世話になっていた旅行会社の社長が、『会社を作るから、社長になれ』というもの。2つ目はペンションのオーナーから、『ペンションオーナーになってみないか』というお誘い。3つ目は、スペイン料理のママに気に入られていたこともあり、『うちで働かないか』と。そして、最後の選択肢が起業だったわけです」。

起業するなら、「うなぎ専門店」だ。

「サラリーマンになっても兄貴には勝てないと思っていました。確かに社長とか、ペンションのオーナーとか、そういうものにも興味があったのですが、とにかく私は、やるなら『現金商売』や!と思っていたんです。これは家具店をやっている親戚の叔父に言われたことなんですが、私もその通りだと思って。そうなると、手っ取り早いのは喫茶店とか、うどん屋とかだった。でも、私は違った。『うなぎや』になろうと思ったんです。理由は、単純なことなのですが、子どもの頃、よく祖母がうなぎを焼いてくれたんです。それがとても好きだったからなんです」。
もっとも好きだけではない。鈴木流の計算も立てた。
「和食というのも、根本にはありました。だから鮨やうどんも頭の中にあったんですが、うどんも鮨も結構、店が多い。ところが、うなぎの専門店ってそう多くないでしょ。あるのは創業何年ちゅう老舗ばかり。だから、結局誰もやらん。そう考えたら、逆にチャンスと思えてきたんです」。
うなぎ専門店。確かにそう多くない。
「でも、いきなり店を開くことはできません。まず修業です。最初は、福岡の柳川にあるお店を紹介してもらいました。1年、そちらで働くのですが、そちらのうなぎは東京のように蒸すんです。だから、私が食べ慣れた焼きうなぎと違う。それで、2年目から名古屋に帰り、名古屋の老舗である『西本』に入れてもらったんです。それが23歳の時です」。

うなぎとチェーンストア理論をいかに合体させるか。

「西本」に入店して、すぐさま「徒弟」という「制度」を骨身で知ることになる。「ありえん世界なわけなんです」。岡持ち4年。4年間は「うなぎ」に触ることもできない。
「軍隊みたいなもんで、大将が右やいうたら、みんな右。でも、そんな店やのに長蛇の列なんです」。
「老舗の力」「うなぎの力」と言ってよかった。
ただし、目を外に向ければ、違った風景がそこにはあった。
鈴木が23歳。その当時はファミリーレストラン全盛期である。1970年初頭、チェーンストア理論によって芽を吹きだしたチェーン化の構想が、全国に行き渡り、大手チェーン店が、興隆を極めた頃である。
「その2つを足し算したら、どうなるやろか、というのが私の発想やったんです。『うなぎ屋』に、チェーンストア理論というものをプラスする。言い換えれば、科学的な経営手法を導入する。そういうことをやってきた『うなぎ屋』なんて無かったんです」。
それがヒントになった。方向が見えてくると人は更に強くなる。経営の勉強もした。
「経営の本を、むさぼり読んだ」と鈴木。「私は大学を出ていましたから他のお弟子さんより年を食っている。そういうこともあって2年目からは、うなぎを触らせてもらえるようになったんです」。抜擢といえば抜擢だが、苦行といえば苦行の始まりでもあった。
「1年間、ずっと大将が試食するんです。そして、文句の連続。やれ、『不味い』の、『硬い』とそればかりでした。でも私は、いつかは『旨い』と言わせると心に決め、仕入れから焼きまで、うなぎを観る目、焼く目を育てていったんです」。
「今でも目を瞑ったまま、うなぎを捌くことができる」と鈴木は言う。九州、柳川で1年、名古屋の老舗「西本」で10年、技術を研き、目を研いた。

「何なんだ、このうなぎ屋は…」。銀座の夜に、同業他社の呟きが漏れる。

「西本」を卒業した鈴木は、33歳になっていた。1992年のことである。この年に鈴木は、愛知県丹羽郡大口に「備長」を開業する。
資金は、「商売のコツを教えてくれた親戚の叔父が、3億円貸してくれた」そうだ。
1992年といえばバブルが弾けたと言われる年でもある。しかし、もろともせず初月から1400万円を叩き出した。
「でもね。最初だけだったんです。そのあと200万円ずつ落ちていって。損益分岐点が700万円だったんだけど、それも割っちゃってさ。『うなぎ』の技術はあったんだけど、大型店を経営するには、まだまだ経験不足だったんです」。
「それでコンサルにも入ってもらって。最初は、『うなぎとカニ』だったんだけど、『うなぎとトンカツ』にメニューも替えて。ただその時、『ひつまぶし』が一番売れたんです。それで、2店舗目を『ひつまぶし』専門店にしようと目論んだわけです」。
もちろん、すぐに2店舗出店とはいかない。名古屋三越新館ラシック7階に「ひつまぶし備長」がオープンしたのは、1号店出店から13年後の2005年のことである。2006年には、本店が売上記録を更新する。
「日商179万円、来客820名、持ち帰り100件」。
翌2007年、ついに東京進出。
銀座マロニエゲート12階に「銀座店」が開業する。銀座に「うなぎ」を食べる人の列ができた。
「銀座に出店したのは戦略の一つ。『ひつまぶし』のブランド化です」。
狙い通り銀座店は注目され、驚異的な売上を叩き出した。年商3億5000万円。
「何なんだ、このうなぎ屋は…」。
同業の飲食店経営者がため息交じりに呟いた。
勢いに乗るように2008年、名古屋の地下街エスカに「エスカ店」を開業する。こちらも20坪で3億5000万円を叩き出した。
「気が付けば、年商は10億円になっていた」と鈴木は言う。
それでもまだ4店舗の時の話である。その後についても触れておきたい。
2010年2月4日、博多店グランドオープン。
2011年11月18日、池袋店グランドオープン。
2012年5月22日、東京スカイツリータウンそらまち店オープン。
2013年4月26日、グランフロント大阪店オープン。
こちらで、絶品「ひつまぶし」が食べられる。

マンハッタンで、うなぎを焼く。職人、鈴木の目標。

「とにかく俺は、ポジティブなんです」と鈴木は言う。本も沢山読んだ。
「最初『西本』に修業に入った時、とにかく歯を食いしばって生きていました。年下からも叱られ、何くそ!といつも思っていました。だから本もむさぼるようにして読んで、一歩でも早く成長したいと思っていたんです。ナポレオン・ヒルの『成功哲学』なんて、何度読み直したのか分からないほどです」。
「いま思い返せば、そういう20代の苦労ってものが、今の私を作っている気がする。だから今20代で、ちょっとした成功をしていい気になっている人をみると大丈夫かよ、と心配になりますね。人としての根っこがなくちゃだめだと強く思います。私の場合、まさしくそれは20代の時の苦労なんです」。
「20代で苦労して、30代で少し経営のノウハウが分かって、40代で人を使えるようになり、50代で経営者として成功、そして60代で業界に対してものを言う。これが、俺の考える人生なんです」。
出店のオファーは、いまだ絶えないという。「無理な条件を出しても、承諾されてしまうから、今は話も聞かないことにしている(笑)」と鈴木。
無暗な出店をしないのは、鈴木もまた職人であるからだ。職人がいないのに、出店はできない。それが、うなぎ職人でもある経営者、鈴木の判断である。
実は国内だけでなく、海外からのオファーもある。むしろ、国内より積極に誘致されている。台湾、韓国…。ただし今、鈴木が真剣に考えているのは、アメリカ ニューヨーク州にあるマンハッタンだった。
「マンハッタンでとびきり旨いうなぎを焼き、勝負したい」。日本のうなぎ職人、鈴木博。アメリカでの挑戦を覚悟したこの一言は、いち経営者としてではなく、日本を背負う、うなぎ職人として心の奥底から出てきた言葉なのだろう。

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