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第452回 リストランテ アルポルト オーナーシェフ 片岡 護氏
update 14/09/30
アルポルト
片岡 護氏
リストランテ アルポルト オーナーシェフ 片岡 護氏
生年月日 1948年9月15日
プロフィール 工業デザイナーを目指し、芸大を受験するが失敗。外交官である金倉氏の「コックになってミラノについてこい」という誘いを信じ、料理店で3ヵ月修業のうえ、20歳の若さで金倉氏と共にイタリアへ渡る。25歳までの5年間、総領事付き料理人という肩書で、仕事をすると同時にイタリア料理を現地で修業。帰国後、「小川軒」にて、再度修業したのち、テノール歌手の五十嵐氏をオーナーにして「マリーエ」を開業。6年間、連日満席という偉業を成し遂げ、34歳の時に独立。リストランテ「アルポルト」をオープンする。いわずと知れた、日本におけるイタリア料理の第一人者である。
主な業態 「アルポルト東京ビッグサイト店」「アルポルトカフェ」「トラットリアアルポルト」「カフェテリアアルポルト」
企業HP http://www.alporto.jp/

一つ屋根の下で。

東京都品川区目黒。片岡がこの町に生まれたのは、1948年。
1945年が終戦の年と言われているから、戦後からそれほど日は経っていない。男ばかりの4人兄妹で、長男とは16歳も年が離れていた。
「次男とも8つ差でしょ。三男とも4つ。末っ子だから、みんなが可愛がってくれました。私が生まれてすぐに父を亡くしたこともあって、母は兄弟4人を女手一つで育ててくれました。部屋が多い家だったので、そこを下宿屋にして。だから、学生さんとか勤め人さんもいて、みんな一緒にご飯を食べたりしていました。だから全く寂しい思いはしませんでした」。
大家族みたいなものだった、と片岡。大きなお兄ちゃんたちに囲まれて、いつしか人懐っこい子どもに育っていった。「昔から、人を喜ばすことが好きだった」と片岡。「だから、昔からサービス業に向いていたんだよね」とも。
一つの屋根の下で、少年、片岡は誰からも分け隔てなく、愛情たっぷりに育てられていく。

カルボラーナと片岡少年。

片岡の人生は、いろいろな人との「縁」を抜きにしては語れない。なかでも、金倉氏は、特別な存在である。
「母は内職もやっていたし、家政婦もやりました。家が貧しいものだから、仕事を選ぶこともできなかった。私が中学生の頃、母は金倉さんというお宅で家政婦をしていました。金倉さんは、外交官をされていて、私もまだ小さかったから犬の世話などをしに何度かご自宅へ伺っていました」。
「金倉さんの奥さんも、いろいろなことをご存知だったんでしょうね。まだ、私が中学生の頃だからイタリア料理なんて一般的ではなかったのですが、奥さんが作ったカルボラーナを母がいただいてきて、それを食べたんです。おおげさじゃなく、その時、『世の中にこんなに美味しいものがあるのか』ってビックリしました」。
一口食べた、カルボラーナの味が片岡の記憶に刷り込まれる。だからといってすぐに料理の世界を目指したわけではない。「当時、私は工業デザイナーになりたかったんです」と片岡は言っている。

工業デザイナーになりたくて。

「中学3年の時にできた友達が、絵が好きな奴で、いっしょに絵をやろうって誘われたんです。でも、うちは貧乏だから、絵画とか芸術をする余裕はない。だから、職業として成り立つ工業デザイナーになろうと思ったんです」。
「金倉さんも絵が好きで、日頃から展覧会等に行くように勧めてくれていました。それも絵を始めた要因の一つです。その友達といっしょに、芸大に行こうと言っていたんですが、私は落ちて…。浪人もしたのですが、2回目もダメで。その時、たぶん、私を励ましてくれるつもりだったんでしょう。金倉さんが、『もし、だめならコックになって、私に付いておいで』って仰ってくれていたんです」。

目標は、日本一のパスタ職人。

「金倉さんは、まさか私が『一緒に行かせてください』と本当に言うとは思っていなかったようです。芸大はダメだったのですが、一方料理はお皿の上にデザインするのと同じだと思い、もう自分は本気モードになっていました」。
「あれは、芸大を2度落ちて、また浪人しようかどうかと迷っている時でした。たまたま金倉さんがメキシコから帰ってきて、次はミラノに赴任するということで、『なら、一緒に連れていってください!』とお願いしたんです」。
いま振り返れば、何という最高のタイミングだろう。日本のイタリア料理の1ページは、この偶然から生まれた。
ミラノに行く前は、「つきじ田村」で3ヵ月、鍋洗いと刻みの修行をした。そして、4月。金倉夫妻とともに、飛行機に乗った。肩書きは、日本総領事付きの料理人。むろん、イタリアも、総領事付きの料理人も初めての経験だった。
「当時はドル/円のレートが360円です。海外に行く人なんて限られていました。こういう幸運を頂いたので、よし!日本一のパスタ職人になってやる!と意気込んで、ミラノに向かいました」。

イタリアの日々。

昼はイタリア料理、夜は日本料理を作る。これがサイクルだった。接待用の料理も作っていた。
週1回は研修のため、いろいろなイタリアの料理店に行き、厨房にも入らせてもらった。食材も、片岡が買い付けた。
「いい食材を仕入れるために、いろいろ工夫しました。ウイスキーを土産に持参したりしました。向こうは、チップの国なんです。だから、ウイスキーとかをプレゼントすると喜んでくれて、それまで堅物だった八百屋や魚市場の店主が、相好を崩して『好きなものを持っていけ』ってなるんです」。これも、いい勉強になった。
とはいえ、まだまだ料理人とは言えない。領事館で、金倉夫妻に料理を作る際にも毎回、試験を受けているような気分だったそうである。
ところで、領事館とは別に、研修でいろいろな店を回っている時に出会った一軒のレストランがある。「ダリーノ」という名のレストランだった。
「イタリア料理ってわりと大皿でボリュームも多いんです。でも、ダリーノはまるで日本料理のように、小皿で十数皿出てくるんです。イタリアにもこんな料理があったのかと、ある意味で、衝撃的でした。日本に帰ったら、こんなイタリア料理をしよう!そう心に誓ったほどです」。
そしてもう一軒、片岡にとって欠かせないレストランがある。
ミラノのナヴィリオ地区にある「アルポルト」である。ドメニコ氏が経営している魚介料理専門の有名店だ。
「ミラノにある『アルポルト』の存在は、私の店を語るうえで、無くてはならないものです。店内の両側には新鮮な魚がずらりと並んでいて、その中から好きなものを選んで、パスタにしてもらったり焼いてもらったりします。奥には前菜が並んでいてそれも好きなものをオーダーできます。大変美味しかったですね。総領事館で働いていたころ、私はそのお店が気に入って、仕事が空いたときには良く研修に行きました。たしか23歳のときです。
そして、自分の店をオープンするときに「アルポルト」という名前にしたいと思った私は、ドメニコさんのもとを再び訪れ、ぜひ名前を使わせてもらいたいのですがいいですか?と言ったところ、ドメニコさんは喜んで私の申し出を了承してくれたのです」。と片岡は懐かしそうに振り返った。
港という言葉に象徴されるひとつの物事の始まり(出港)と終わり(帰港)、さらには人生の出発、そして終着といった意味の考え方に心から共感を抱き、片岡は名前を頂いた。
後に出てくるが、かくして1983年、西麻布に「アルポルト」が誕生することになる。
20歳でイタリアに赴任し、25歳で帰国するまでの5年間は、片岡にとって、とても貴重で濃密な日々だった。料理の知識もゼロ。ただ、かえってそれが良かったとも言っている。
「変に料理のことを知らないから、何でも素直に吸収することができたし、発想も自由だった。小皿料理のイタリア料理を観た時に、抵抗なく凄いなと思えたのは、何ものにも縛られていなかったからだと思います」。
さて、25歳で帰国。5年ぶりに日本の地に降り立った。

「小川軒」での修業の始まり。

「帰国してすぐに小川軒にお世話になりました。金倉さんから、『まだ全然、修業が足りないんだから一番厳しい店でもう一度、修業しなさい』と言われたからです」。
一番厳しい店とのことで選択した「小川軒」だったが、偶然にも片岡が目指している小皿で提供する料理をすでに実践していた。
「目から鱗というか(笑)。もう、驚きました。イタリアでも珍しい小皿の料理を日本で、既にされていたんですから」。
むろん、片岡にとってはラッキーだった。独自に勉強しなければいけないことが、既にかたちとなって目の前にあったからだ。幸いなことに、「小川軒」でも、片岡はある意味、一目置かれた。ある程度の料理は、教わるまでもなく、テキパキこなしたからだ。だから、実は、「小川軒」でも「料理の世界にありがちな大変な思いは、していないんです」とのこと。
とはいえ、多少は理不尽な目にもあっただろう。ただし、片岡はそういうことを苦にしない人である。たぶん、あったとしても、笑い飛ばすに違いない。2年間修業して、もう一度、イタリアで1年間修業。この1年の間に、テノール歌手の五十嵐喜芳氏と知り合い、爆発的な人気店となる「マリーエ」を開業する。
これが、片岡、28歳の時のことである。

「マリーエ」にて。

「これも一つのご縁なんです。たまたま、五十嵐さんが総領事館においでになった時に私の料理を食べて気に入ってくださったんです。それで『日本に帰ったら一緒にお店をしよう』と言ってくださったんです。それが、『マリーエ』の始まりなんです」。
「マリーエ」。オープン当初から、6年間、連日満員だったそうである。オードブルからデザートまで十数品。あの「ダリーノ」で出会った小皿料理をイメージし、創作したイタリア料理の「懐石風小皿料理」である。
これが、日本でのイタリアン・ブームの火付け役となる。メディアも盛んに取り上げ、片岡も時の人となる。五十嵐オーナーとは6年契約だった。そして、その6年が訪れる。

新たな決断。リストランテ「アルポルト」オープン。

片岡が独立し、店を持ったのは34歳の時だ。20歳で海を渡り、14年。「マリーエ」のシェフとしても、もうその名を知られていた。さぞオープンから人気を博しただろう、と話を伺うと「とんでもありません」という返事だった。予想外の答にまたまた耳を傾けることになる。
「6年契約だったのですが、オーナーとしては手放したくなかったんだと思います。しかも当時、家内がレジをやっていまして。私が独立すると、彼女も一緒に辞めることになるから、大事な戦力が2人もいなくなる。とのことで、ちょっと待ってくれよ。と」。
五十嵐氏としてみれば違った言い分があったのかもしれないが、とにかく話は平行線。勘当だ、とまで言われたそうである。
しかし、片岡はもちろん五十嵐氏も、お互いの言い分は分かっていた。20数年後、五十嵐氏のお嬢様の計らいで、2人は再開し、語り合い、昔を懐かしく振り返ったそうだ。
当時の話に戻すと、片岡は五十嵐氏に対する義理を通し、奥様以外はだれ一人部下を連れていかず、「マリーエ」の名も伏せオープンした。
知名度もない。というか、名を伏せていたのだからしょうがない。4月にオープンして8月まで、全然、客が入らなかった。
「全然、お客様がいらっしゃらなかったです。そして、8月だし『夏休み』だってわけで、お休みしたんですが、もちろん休むと、売り上げぶんが減っていく。そして、たちまち給料も払えない状況になってしまったんです」。
どうやって苦境を脱出したのだろうか?
「その時にまた出会いがあったんです」と片岡。片岡が途方に暮れている8月後半。女優の有馬稲子氏が、朝日新聞のコラムに片岡の店を取り上げた。
「それから1年間、満席です」。
新しいイタリアンを標榜していた。小皿に分けた美しい料理。「マリーエの時よりバージョンアップさせました」と片岡は言う。
もし、あの記事がなかったら。
「独立してダメなら、屋台でもやろうと思っていたんです」とあっけらかんと片岡は言う。実際に、やってしまいそうな人である。
ともあれ一片の記事で、リストランテ「アルポルト」は超人気店となる。もちろん、この記事がなくても、いずれ片岡の力量を認める人物が現われたに違いないが、まさに偶然の出来事にギリギリのところで救われたのだった。
片岡にとって、有馬稲子氏も特別な人であることに違いない。

時代を変えた、イタリア料理の第一人者。

リーマンショック、震災、様々なことが起こった。「アルポルト」といっても、いい時もあれば、調子が悪い時もあった。
デフレは深刻化し、接待需要はもう見掛けなくなった。だが、本当に美味しい料理には人々はちゃんと対価を払っていった。インタビューをお店でさせていただいたものだから、インタビューの合間にも、お客さま方と接するオーナー片岡の、愛嬌ある人柄を垣間見ることができた。
今の若者をどう思うか、ということも伺った。
「今の若い人ですか? たしかに皆さんが良く言われるように、昔のようにバイタリティのある子ばかりじゃなくなったのは事実だと思います。私みたいに何にもできないのに、総領事付きの料理人って肩書きをもらって、ゼロからイタリアへ。なんて無謀な子もなかなかいないのではないでしょうか(笑)」。
「でも、全部が全部そうじゃないと私は思っているんです。例えば料理学校に1000人くらいの生徒がいれば、その何パーセントかは、目をギラギラさせている人がいるはずなんです。幸いそういう彼らにとって、うちの店は選択肢の一つとなっています。そして、いつまでもそうなるように、私たちも頑張っております」。
「たとえば、ちゃんと独立をさせてあげる道を用意してあげるんです。そして、独立した子は、その子自身で必死に頑張った結果、成功します。すると、うちの店で修業したら成功できるという自信にも繋がります。もちろん、料理もしっかり教えます。最高のイタリア料理を。目を光らせている子の選択肢にうちの店が入らないわけがないと思っているんです」。
たしかに、そうだ。
だとすると若者ではなく、彼らを迎え入れる大人たちの役割が今、改めて問われているのかもしれない。
若者を批判するのではなく、我々もまた当事者となって「今の若者」という課題を考える必要があるだろう。
片岡はそういうことも我々に教えてくれているのかもしれない。
最後にもう一度、片岡というシェフについて考えてみた。
イタリア料理のブームを起こしたシェフ、片岡。
片岡は、日本におけるイタリア料理のブームをつくっただけでなく、イタリア料理を日本式のスタイルにまで落とし込んだことで、革命的な仕事を成し遂げたと言っていい。
その仕事を一言でいえば、イタリア料理の新たな1ページを日本で開いたことになる。もう、ブームでは無く、もはやそれは日本に根付いた一つの「食文化」なのだ。

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