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第454回 日本料理 一凛 店主 橋本幹造氏
update 14/10/14
日本料理 一凛
橋本幹造氏
日本料理 一凛 店主 橋本幹造氏
生年月日 1970年11月22日
プロフィール 京都生まれ。高校卒業後、料理の道に進み、名店にて修行。青果市場にも勤務したのち、上京。2007年、神宮前に「日本料理 一凛」を開業。2009年、ミシュランの1つ星を取得。2012年には2つ星へと昇格を果たした。NHKの人気番組「あさイチ」にも出演中。日本料理の次世代を担う新進気鋭のシェフである。
主な業態 「一凛」
企業HP http://mikizo.com/

少年橋本が、スポーツカーを乗り回すようになるまで。

建築家だった父が他界したのは、橋本が9つの時。
「うちの父は、駅や老人ホームなど公共性の高い、人の役に立つ建物を好んで建てていたようです。まだ幼いこともあって鮮明な記憶はないのですが、とにかく『良く働く父』というイメージです。仕事ばかりで、ほとんど家にもいませんでした」。
2人兄弟。兄は、スポーツが好きな少年だったそう。
父親が亡くなってからも、経済的には不自由しなかった。
「母子家庭に負い目を感じたことはない」と橋本。
とはいえ、父がいる時は年4回外食に行き、旅行も年に1回は行っていたが、そういうわけにはいかなった。
「母が仕事に出ているときは、私がお米を研いだりしていました。全然、苦にはなりません。そういえば、小さな頃から手先は器用なほうで、絵を描いて賞を貰ったりもしていました」。
京都から神戸に移ったのは、小学4年生の時。母の実家が神戸のほうだったから。そのまま神戸の中学に進んだ。成績は、学年でも上位だったが、中学2年になって嫌気が差した。代わりに、車やバイクに俄然、興味を持つようになる。
当時のことを橋本は次のように語っている。
「中学2年の頃ですね。その頃はまだ成績も学年で3位くらいだったんですが、兄貴の影響もあってか、車にハマリだします。タミヤのプラモデルも相当作ったし、ラジコンも購入しました。そっちばかりに関心が向き、もう勉強するのもイヤだったし、最初は高校にも進学しないつもりだったんです」。
「ところが、兄に説得され、かろうじて高校には進学しました。進学はしたものの、学校よりアルバイトに精を出しました。とにかく、早く高校を卒業してクルマを買いたい一心だったんです。この時のアルバイトが、私と飲食との初めての出会いでした」。
アルバイト先は、中華料理店。
厨房で洗い物を担当。調理もかじった。いま思えば、調理の基礎を学んだのはこれが最初。
高校を卒業後、念願のスポーツカーを購入。「寝る間を惜しんで乗り回した」。
車に乗る。それ以外に目標はなかった。やりたいことも、特段、思い浮かばない。
ただし、車が好きだったのは事実だが、スポーツカーを乗り回したのは、目立ちたい一心だったそうだ。

給料、ガソリン代に消える。

「高校の冬休み、就職先を探しました。忙しそうな店なら働かせてくれるだろうと、ある日本料理店を覗きました。実際忙しそうだったので、事情を説明したら、そのままアルバイトをすることになりました。その流れでそちらに就職させてもらいました」。
「『師弟』という言葉と、その言葉の意味を知ったのはこの時です。店主が出勤する、それだけで店の雰囲気が一変しました。『全員が、ピシッ』となるイメージです」。
休みは月に3回。しかも、不定期。次の休みがいつかも決まっていない。それで給与は参萬円弱。
「最初に給料をもらったときに、なにか間違いではないかと恐る恐る尋ねたんですが、間違いでもなんでもなかったです。逆に、説教されました(笑)」。
  たしかに住み込みで部屋もあったし、賄もあったから、修業の身で贅沢は言えない。ただし、少なかった。愛車のガソリン代に、すべて吐き出した。
金欠になると、休みの日でも店に行って、賄を食べていたという。
なんとも健気な青年像が思い浮かんだが、橋本本人は、苦労とは思っていなかったようだ。
むしろ、周りの先輩たちに可愛がってもらえて、たいへんだと思ったことは一度もなかった、というくらいである。
しかし…、と話は続いた。
「しかし、勤めるようになって3年経った頃。高校の同窓会があったんです。そのとき、同い年の連中がどれだけ儲けているのかを知ることとなりました」。
あまりの差に唖然とした。というか、社会というものが、初めて垣間見えた。ハングリー精神が突然目覚め、咆哮をあげる。仕事に対する思いも一変した。
眼の色も変わったことだろう。
とにかく忙しい。次々に仕事をしていった。ただ、今までのように目標もなく、淡々とこなしていたのではない。
吸収できるものはすべて、吸収するつもりで仕事に臨んだ。
「当時は、観て盗めでしょ。観て、盗んで、自分で練習するしかない時代です。すぐに、難しい料理を担当できるわけでもなかったんです」。
結局、5年間働いた。偶然選んだ店だが、人生を左右する、日本料理の基礎を得る事のできた店。相当な実力が付いていた。23歳。橋本は可愛がってくれた、師匠から卒業した。
その頃には、給料も少しだけアップしていたそうである。

橋本、食材を知る。

普通、卒業といえば独立と考えたくなるが、橋本の場合は少し違った。料理店を卒業した橋本は、日本中を駆け巡る。料理人としてではない。一風、変わった経験だ。
「当時、友人の父が青果市場の社長さんで、心の悩みを相談したところ、市場で働きながら食材をみたらどうだ?と機会を与えてくださいました」。
日本中である。北海道の工場で観た大根の生産方法は、馬鹿でかいマシンを使ったダイナミックなものだった。鹿児島では、同じ大根でもおばあちゃんが一つひとつ手作業で行っていた。「いちばん衝撃を受けたのは、それ」と橋本。
友人の父の仕事を手伝ううちに、土の大切さ、野菜の種類や値段の付けられ方なども学び、食材に対する関心が強まった。知識も増した。
「食物が、美味しくなる理由がわかった」と橋本。
ちなみに、青果市場の仕事は真夜中から始まる。午前2時、3時には起床し、夕方6時に就寝するという生活を送っていたそうだ。
もっともこの時期、橋本はもう一つ仕事を抱えていた。「社長には内緒で、あるお店の手伝いをさせてもらっていました。対面の仕事の楽しさを知ったのはこの時です」。5年間の修業に加え、修業時代には経験できなかった食材との触れ合い、また接客の仕事の楽しさが橋本を魅了した。食材の流通の仕組みもインプットできた。
それ以外にも、この時期、接待で数万円もする店に出掛けたりもしている。二十代前半、こちらもなかなかできる経験ではない。

上京。橋本、目をまるくする。

橋本が上京するきっかけになったことの一つに阪神大震災がある。もともと関西で育った橋本。「若い頃に遊んでいた町が、火の海になっているのを観て『人の無力さ』を知った」という。
「そののち、関西の景気が落ち込んだんですね。そういうこともあって、私は上京しました。東京に来てビックリしたのは、店の前で人が列をつくっていることでした。なんで、どうして? って思いました」。
むろん、食べる為だけに列をつくっていたわけではない。「人気店で食べる」ことが、列をつくる人の目的だった。長年、料理人をやっている橋本にも考えられない風景だった。関西の文化とはまるで違った。
「ある店では、厨房にも入れていただきました。今まで見てきたものとは全然違いました。広さも凄かったのですが、見たこともないような最新の機材が導入されていたんです。お誘いも受けましたが、見たこともない機材を使いこなす自信もなかったので、お断りしました」。
ほかにも誘いがなくはなかったが、いい出会いが無かったようである。
それでも「東京という街」には魅了された。
「東京は世界の縮図のようなもので、世界中の料理があるわけでしょ。そして、なかには日商1000万円の店もある。そういう深さというか、広さに、魅了されたんです」。
とある知人に声を掛けられ、一緒に店を始める予定もあった。準備期間1年半。最後の最後になって、連絡が取れなくなった。
「京都に帰ろう」とも思ったが、もう少し、と足を留めさせたのも東京という街に対する思い入れだった。
京都の知り合いに相談し、ある社長を紹介してもらったのは、この時。「もう少し東京にいたくて、少しの間アルバイトをさせてもらいたかったんです」と橋本。紹介されたのは、飲食店を300店舗も展開している大社長。当時、業界を代表する巨匠の一人である。
社長の心の広さにも、エネルギッシュなところにも橋本は、目を丸くしたのではないだろうか。東京という街をギュと凝縮させたような人物と映ったに違いない。

独立。それは料理の原点を追及するため。

「私が今あるのは料理の基礎をいただいた師匠と東京の大社長の御蔭です」と橋本は言う。
アルバイトのつもりが、車に乗せられ、店に連れて行かれ、「その店をやってみろ」と言われて任された。独立するのではなく、社長の下で「色々なことに挑戦すればいい」という話もいただいた。
とはいえ、橋本にとって独立とは、ただ店を立ち上げればいいというものではなかった。
「正直言って、私は、お金にはそれほど執着していないんです。『ただし』、もしくは、『だから』なのでしょうか、自らの給料を減らしてでも、いい食材を使いたいという思いが強い。利益よりも、食材の質を優先する。つまり、利益を削っても、食材にお金をかける。お客様から代金を頂戴する前に、料理人としての信用を頂戴しないといけない。高くて旨いは当たり前、同じ食事をするなら、努力が伝わる料理でないといけない。いろんな経費が重なる会社事業ではなく、お前に金と時間を使ってやろうと思っていただく為には個人店でないと、具現化できない発想です。だから、私は独立という道を選んだのです」。
食材を探し歩いた経験があるからだろう。食材に対する思いは、半端でない。生産者の経験値までインプットされている。いい食材をどう活かすか、そこに料理人の技量がある、という日本料理の原点に橋本は立っていた。
だからこその独立である。その原点を見失っては、独立しても意味がない。
2007年、橋本は1軒の店を開いた。神宮前。正確なマップがないと見過ごしてしまうような立地である。
ところが、どこでどう調べたのか。しばらくして、この店にTV番組のプロデューサーがやってくる。ミシュランのスタッフもやってきたのである。

ミシュラン2つ星。

橋本の店、「一凛」は、2009年にミシュラン1つ星に選ばれ、2012年に2つ星に昇格している。昼と夜、10名ずつくらいが、ちょうどいい、と橋本。いずれも完全予約制で、単価は、「昼は5500円から、夜は食べて飲んで2万円くらい」という。
決して安くはないが、それでも予約は満杯である。TVの御蔭で、有名人も度々やってくる。TVというのは、NHKの番組「あさイチ」のこと。若きシェフの一人として出演している。
「偉そうに聞こえるかもしれませんが、有名になりたいからTVに出ているわけじゃないんです。少しでも、和食というもの。例えばそれは、粉末出汁に頼らないことなども含めて、そういう和の技術を一般の人にも知ってもらいたくて…」。
目標をお伺いすると、「店を10年持たせること」と控え目。この目標は、もう数年で達成する。新規出店の予定もない。「手広く店を展開する性格でもないし、そういう経営者でもない」とのこと。こちらも随分控え目だが、実はそれ以上に大それた野望を持っている。
それが、和食の未来をつくりあげていくことだ。
「東北の震災の時、炊き出しに行かせていただきました。そのとき、大変喜んでいただけて。改めて、料理人という仕事の大切さ、手に職を持つことの意味を知りました。そういうことも含めて、私の知っていることを全部、今からの人達に伝え、残していきたいと思っているんです」。
橋本の名前は幹造という。幹を造る、建築家の父が託した2つの言葉の意味を今、橋本は実感しているかもしれない。
父とは違う道だが、和食を未来へいざなうための、その「幹」を造る。
かくも尊い仕事である。

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