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第456回 株式会社HATARAKU 代表取締役 伊藤清孝氏
update 14/10/28
株式会社HATARAKU
伊藤清孝氏
株式会社HATARAKU 代表取締役 伊藤清孝氏
生年月日 1978年3月19日
プロフィール 愛媛県今治市に生まれる。父、母、姉との4人家族。工業高校卒業後、大手農業機械・器具関連の会社に就職。20歳で退職し、アパレル関連の会社に転職する。自らも起業することを決意し、資金を貯めるため工場勤務を開始するが、会社帰りのバイクで事故を起こし、粉砕骨折。その事故が背中を押すことになる。病院のベッドで、東京へ旅立つことを決意。25歳のことだった。
主な業態 「Desse」「Entraide」「Gallo」
企業HP http://www.desse.info/

少年時代の伊藤清孝。

愛媛県今治市。造船やタオルで知られるこの町に、伊藤が生まれたのは1978年のこと。
父親は、元々サラリーマンだったが、伊藤が生まれて少しして、独立。3〜4人と、けっして大きくはなかったが、会社を興し、事業は順調に推移する。伊藤家も、それなりに裕福な家庭だった。
「私は、小さい頃から母と姉に甘やかされて、ぬくぬくと育ちました。スポーツでは、水泳とかもやっていましたが、基本、遊び呆けていました。勉強も、全然しなかった(笑)」。過保護だった、と言って伊藤は笑う。
もっとも小学生時代から、農業に興味を持つような純朴な少年だった。動物や漁業にも関心があり、水産高校に行くかどうか迷った時もある。「結局、隣町の工業高校に進学しました。機械いじりも好きだったからです」。

社会人スタート。

「高校を出たら就職しよう」と中学生の頃に、そう決めていた。だから、「工業高校」に進んだ。機械を勉強し、予定通り、大手農業機械・器具関連の会社に就職する。
これが伊藤の社会人生活のスタート。といっても、今治。「のんびりしていますよね。危機感もない。ある意味、過保護な環境なわけです。だからじゃないですが、仕事は楽しかったですよ。バイクで農家を回ってね。機械いじりが好きだから、エンジンを直すのも楽しかった。でもね、田舎ということもあって、給料が安かったんです(笑)」。
「私は、給料にそれほど執着する方じゃないんです。でも、当時はまだ何かできる、オレならと思っていたわけです。まだ少年ですから。それで20歳の時に、退職させてもらいました。ただし、何かをやってやろう、と思って退職したんですが、退職したからって、そうそううまく何かがスタートするわけじゃありません」。

「起業」の二文字を追いかけて。

「転職したのは、若者向けのアパレルショップでした。ショップは5〜6店舗ありました。こちらは、こちらで楽しかったですね。社長が、韓国に行って安い服を大量に仕入れてくるんです。それを日本で売る。『商売って、面白いな』と思ったのは、この時ですね。で、3年くらいお世話になって、『よし、オレも』と資金獲得に動き出すわけです」。
資金獲得と書いたが、当時の伊藤にとっては、働いて貯める以外に選択肢はなかったし、それ以外は思いつきもしなかった。「だから、効率がいいと思って、深夜勤務もある交替制の工場で働き始めました」。こちらでも2年間、勤務しているが、お金は貯まらなかったそうだ。それだけではないが、敢えて理由を問えば、バイク好きが高じて、部品にもずいぶんお金を使ったからだろう。もっとも、この2年間のうちに伊藤の心境も変化している。
「最初は、起業への思いはあったものの漠然としたものでした。資金づくりのために転職したのに、全然貯蓄できなかったのも目標が漠然としていたから。まだまだ何かに甘えていたんでしょうね」。「でも、だんだん年は取るわけで、そんな時、バイク仲間がログハウス借りて飲食店を開くんです。それで、こいつでもできるんだったら、と私も『飲食』をやろうと思うんです」。
もっとも経験はない。やろうと思っても、そうそうできるものでもないし、今の生活との決別にも、そう簡単に踏み切れるものでもなかった。

ベッドの上で、決意する。

ある意味、転機のきっかけとなったのが、バイクの事故だった。
「工場で働いていた時に、事故を起こして、足の甲を粉砕骨折。全治3ヵ月。病院のベッドに寝転びながら人生を考えているうちに、決意が固まるんです。『よし、東京へ行こう』って」。高校を卒業し、7年、25歳になっていた。「東京へ、と言っても、飲食の業界に知り合いもコネもありません。まず、田舎の友人のところに転がり込んで、職探しからスタートです。幸い、銀座の『日比谷Bar』で勤務させてもらえることになりました」。
銀座の日比谷Bar は大箱で、100席はあったそうだ。仕事はほどなく慣れた。とはいえ、東京に来て驚いたこともある。「何より凄いなと思ったのは、東京の人の働き方です。ある意味、カルチャーショックでした。仕事の合間、外にでるでしょ。夜中の12時でも、見上げるとビルの灯りが煌煌と灯っているんです。田舎の人間にすれば、そんな時間に働いている人がいること自体、驚きでした」。
愛媛で25年育った青年が、東京という都会で生活を開始する。甘いわけはない。1か、0か。ひたすら仕事に打ち込んだ。

独立への道。

それから5年。伊藤は「日比谷Bar」を退職する。「日比谷Barに就職して最初に配属された店で店長だった人が、私の店にやって来て、『イタリアンの店をだすから店長をしろ』って誘うんです。その人は、もうとっくの昔に退職していて、このイタリアンの店は、彼の2号店だったんです。その時、私は『イヤです』ってはっきり断ったんですが(笑)」。
2回、3回と誘われるうちに、それなら話だけでも聞いてみようという心境になった。心が傾いている証拠である。「三顧の礼というんですか。3回も来てくれて、熱心に誘ってもらって。しかも、相手は、私が新人の頃にお世話になった人でしょ。毎日、ボッコボコにされていた相手です(笑)。それでも、育ててくれた恩人だとも思っていましたから、結局、『やります』となるんです」。
この店が、3年後、伊藤の店になる。伊藤の1号店でもある「Desse(デッセ)」のことだ。「東京に行くと、家族に言ったら『頭がおかしくなったんじゃないか』って言われたのを覚えています。田舎の人間にとっては、それだけ大きな冒険なんです。私自身も不安がなかったわけではありません。たしかに子どもの頃は何でもできると思いあがっていましたが、25歳になっていましたから多少、現実も知っています。でも、ここで、あきらめたらだめだって。成功するかしないかじゃなく、まず動きださないと始まらないわけですから。
その時、1つのことを誓いました。<何でも言うことをきこう。素直になろう>です。日比谷Barに就職して1年後、『店長をしろ』って言われたんですが、全然、自信もなかった。でも、何でも言うことをきこうと思っていたことを思い出して、素直に『やります』と答えたんです」。
その一言がすべて始まりだったかもしれない。ともかく、縁もあり、伊藤は、晴れて独立起業家となる。

飲み、食い、語る。

伊藤を誘った元店長の下にも3年いた。3年後に、店を買い取った。「ま、ゆるやかなグループみたいな感じですが、基本、独立独歩ですね。
2号店目、3号店目は、すべて独自にお金を借りて出店しました。いま、合計で3店舗です」。銀座のオーガニックイタリアン「Desse」、神楽坂のビストロ「Entraide」、炭火焼き鳥とワインのマリアージュが堪能できる「Gallo(ガッロ)」の3店だ。すべての店で、元気なスタッフが勤務している。
最後に人材についても伺った。「うちはアルバイトがゼロなんです。全員、正社員です。去年、3〜4人アルバイトがいたんですが、3店舗目の『Gallo(ガッロ)』がオープンする時に、全員で、『正社員にしてくれ』って言ってきてくれたんです」。これは、今どき珍しい。
定着率も抜群だ。その秘密はどこにあるんだろう。「特別、何かをしているわけではありません。強いて言えば、私がしたいことをしているだけです」と伊藤。「したいことって?」と質問すると、「スタッフと飲み歩くこと」なんだという。
年もそう離れていない。スタッフと同じ目線で、飲み、食い、語る、そんな社長を好きにならないわけがない。それが、高い定着率の理由だろう。少なくとも、伊藤は社員を下にはみていない。「いまのスタッフを観ていたら恥ずかしくなることもあるんです。自分の25歳の時と比べて、しっかりしているな、凄いなって思って」。
店のなかでもスタッフとの垣根はない。彼らと一緒にはたらき、汗を流す。目標は毎年1店舗の出店。海外にも興味があるそうだ。そんななかで、「いつかスタッフが何かのかたちで社長になってくれたら嬉しいですね。自分もそうでしたが、やればできる、努力は報われるんだってことをいまのスタッフには伝えていきたい」という。
「はたらく」ことはすべての始まり。「東京に来てから仕事だけしかしていません」と伊藤はいう。とても純朴で、素直な生き方だと思う。ネオンに光る東京の空の下、愛媛出身の社長が戦っている。スタッフを何より大事にするという、とても、まっすぐな戦法だが。そこがいい。

思い出のアルバム
 
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