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第457回 TETSUYA’S オーナー・シェフ 和久田哲也氏
update 14/11/04
TETSUYA’S
和久田哲也氏
TETSUYA’S オーナー・シェフ 和久田哲也氏
生年月日 1959年6月18日
プロフィール 出身は静岡県浜松市。早くから海外に憧れ、大学を中退。22歳でオーストラリアへ渡る。現地の不動産会社のオーナーの紹介で、レストランに就職。それが、料理人「TETSUYA」の始まり。レストランで働くうちに料理人になることを決意。27歳の時、共同出資で独立。29歳でビルを購入し1989年、Rozelleに「TETSUYA’S」をオープンする。2000年現在地に移る。「グッド・フード・ガイド」誌の最優秀レストランに何度も輝き、「サンペレグリノ」の世界のベストレストラン50にも世界のトップ・レストランの上位に名を連ねる。2010年、シンガポールのカジノ内に「Waku Ghin」をソフト・オープンする。いまや世界の美食家で、「TETSUYA」の名を知らない人はいない。
主な業態 「TETSUYA’S」
企業HP http://www.tetsuyas.com/

子ども時代から憧れた海外。

独創的だった。それは小さな頃からである。「考えるのが好きな子どもでした」と世界の「TETSUYA」こと和久田哲也が、そういって笑い声をあげる。
「私は、子どもの頃からボーっとするところがあって。いまでも危なくて車を運転できないんですよ」とも。魚の買い付けにも、運転手付きの車で通っているそうだ。「ボーっとする」というのは放心するという意味ではなく、いったん気になれば、そちらに心が奪われるということを意味しているのだろう。
和久田が5歳の時、東京オリンピックが開催され、9歳の時には、万国博覧会が開催されている。子どもたちが、世界に目を向けはじめたのは、この年代からだろう。
もう一つ、世界と和久田を結ぶエピソードがある。
「私が生まれた浜松は田舎町だったんですが、キリスト教の教会があったんですね。だから、ブロンドのキレイな女性がいたんです。とはいえ、私の小さい頃は、まだまだ外国人とは距離があって、道で出会っても目を伏せてしまいがちだったんです。でも、私は全然平気。キレイな女の人をジーッと観ていたんです。そしたら母親に、『失礼なことはしないの』と怒られて…」。
まだ円が360円の時である。世界は、まだ抽象的なものに過ぎず、概念的であった。畏怖する対象とまでは言わないが、確かに外国人と接するだけで気おくれしたものだ。
そんな時代にあって、和久田少年は、海外、また外国人と正面から対峙していた。
「外国が好きでね。だから『兼高かおる』さんの、TV番組『世界の旅』をいつも観ていました。小学校へ入学するときにはもう、交換留学生に興味があったぐらいです」。
小学生の時には、すでに「どういう手段で海を渡るか」ということを考えていたというから、同年代の者からすれば、それだけでも大きな「驚き」である。

100万円を貯めて、オーストラリアへ。

大学には、浪人して入った。 「現役で合格したんですが、浜松を抜け出して自由になりたくて。それで、いろいろ言って東京で1年間浪人します。1年後、晴れて大学生になるんですが、ともかく海外に行きたかったんです。だから、バイトも3つ掛け持ちで…」。
吉野家でバイトしたこともあるそうだ。新聞配達もした。新聞代の回収が巧くて、バイト代は、一時跳ね上がった。
「それが原因というか、前から勤めている人より断然給料が多くなって、居づらくなって辞めてしまいました」と笑う。
ともかく、目的額の100万円が貯まった。
「当時はオーストラリアのビザが取りやすかったんです。それもあって、まずオーストラリアへ、と思っていたんです。ただ、ビザは取りやすかったんですが、往復のチケットと100万円持っていることが条件でした。だから、バイトに精を出して…。代わりに大学には通わなかったな(笑)」。
渡航費も、100万円もなんとかなった。
「往復のチケットがいるというのは、戻ることが前提ですよね。でも、私はもちろん見せかけです。日本に戻るつもりはなかった。かといって、オーストラリアに居続ける気もなかったんですが。ところが、もう30年以上です(笑)」。
無事、海を渡りオーストラリアへ。片言の英語で、不動産屋に行ってアパートを見つけた。
「ギリシャ人がオーナーの不動産屋でした。彼も移民だったんです。だから、異国人の私に優しくしてくれました。ある時、私は親しくなった彼に、こう言いました。英語を安く教えてくれるところはないだろうかって」。
いま思えば、すべてがその一言から始まっている。
「よし、わかった。連れてってやる」。
人のいいオーナーは、自ら車を運転し、和久田を乗せて連れていってくれた。
レストランだった。

レストランで習ったものは、英語か、料理か、生き様か。

「私は、料理をつくるのが好きだったわけでもないし、方法も知らなかった。ほんとにたまたま、『英語の学校だ』と、その不動産屋のオーナーに連れて来られたのが、レストランだっただけなんです。あとで話を聞くと、彼もそうやって言葉を覚えたからということでした。確かにサラリーも貰えるわけですから、言うことがない(笑)。ともかく、その時、対応してくれたシェフが『じゃぁ、明日9時に来い』と。それが私の飲食人生のスタートでした」。
「確かに、いい『学校』でもありました(笑)。店にはアイルランド人がいて、彼から英語の勉強方法も教わりました。『とにかく、片言でもいいから、会話しろ』『わからなくても聞け』と。そう言われたもんだから、ラジオは始終、そうですね、寝ている時もつけっぱなしでした」。
和久田には、こういうところがある。一度、これがいいと思えばそのスタイルを貫く。修業時代の話もそうだ。有名な料理店を食べ歩いた結果、クレジットの額は当時の和久田からすれば、天文学的な数字になっていたという。
ともかく、いいと思ったら、やる。それも徹底して。だから、ひょんなことで連れて行かれたレストランも、市井の英語学校だと思い込み、レストランの仕事にも精を出した。
「1ヵ月は皿洗いと海老の皮剥きが仕事だった」と和久田。ところがある日、2人のシェフが軽い事故にあってしまい、数日間休んだ。途端に人手が不足し、和久田にも皿洗いと海老の皮剥き以外の仕事が回ってきた。
「あれもやれ、これもってことで、魚の捌き方も初めて教わりました。日本人というのは器用なんでしょうね。私も、すぐに出来るようになって、だんだん雑用の割合が減って、シェフを手伝う割合が多くなりました」。
「1日ずつ雑用の仕事が減って、シェフの手伝いが多くなっていくんですから、そりゃ、楽しい。英語も少しずつ上達する。あっという間に、1年が過ぎました。しばらくして、今度は皿洗いをしていた頃のマネージャーと偶然会って、うちに来ないかと誘われたんです。シェフに相談すると、『あの店はいいから、行け』と。それで、そちらで5年間、勤務します」。
修業のため、高級店に足繁く通っていたのもこの時だろう。5年後、27歳の時に前職で同僚だったアイルランド人から声をかけられた。「いい店が空いた。一緒にやらないか」。2人して、5000ドルを出し合った。共同出資。
オーストラリアに日本人が、店を構えた。最初の一例となるのだろう。

「TETSUYA’S」をオープン。世界から著名人がやってくる。

しかし、「カンコドリが鳴いた」と言って、和久田は笑う。「全然入らないというわけじゃないんですが、波が合って。もちろん、1日中誰もいない日もあった。それでも、そんなに大変だとは思わなかった」。
「それ以上に、ある時、結婚式のカクテルフーズだといって、鮨を注文されたことがあって、あの時は散々悩みました。どうしようかって。それで、そうだ、『鮨』もどきをつくってやろうと思ったわけです。それなら、カクテルフーズにもいいだろうと。刺身も少しだけ炙って。お米が、乾かないように軽く油も塗って。ローストビーフなんかも巻き寿司にしました。これで、いっきに人気が出たんです」。
新聞に取り上げられたことも大きかった。2年目からは、予約が取れない店になっていった。結局、この店は2年間で閉めた。一つは、共同オーナーのアイルランド人が祖国に帰ることになったこと。もう一つは家主が、こちらの要望をまるで聞いてくれなかったからだった。
「パートナーがアイルランドに戻るって言うんで、私一人になった。29歳の時でした。小さなビルが売りに出されていたんで、2人でやっていた店を閉め、そのビルにあったカフェを改装し、『TETSUYA’S』をオープンしたんです」。
すでに、TETSUYAの名は独り歩きしていた。
TETSUYAの料理を食べるために、世界中から超がつく著名人、有名人、資産家がやってきた。「絶好調」と思えるが、和久田は案外、冷静だったようだ。
「だって、銀行にも借り入れをしていましたからね。それも、当時、オーストラリアの銀行金利が世界の歴史上でも最高の20%でしから、返済が大変でした。でも、若かったんでしょうね。家族もいなかったし。不安より、希望が大きかったのも確かです」。
サントリーが運営していた「RESTAURANT SUNTORY」に出向いたのも、この頃。
「ジャケットは着ていたんですが、ノーネクタイだった。それで入店を拒否されたんです。『なんなんだ、こいつは』と思いましてね。いつか、この店を買ってやろうと」。
2000年、和久田は、40歳の時に、ほんとにこのレストランを買い取っている。
「冷静さ」と、「情熱」。2つが巧く噛み合っていると思う。
もっとも「情熱」が、すべての壁を打ち破ってきたということもできる。
ただ、一方で、ゴールまでの道筋を正確に見抜き、突破する方法をクリエイトする、クレバーな頭脳と「冷静さ」、これを抜きに和久田の成功は語れないのではないか、という気がするのである。
子どもの頃、すでに海外を目指した。しかし、実現するのは難しい。では、どうすれば「海外に行く」ことができるのか。ゴールを見定め、想像力を働かせ、構想を練る。そういう思考訓練が和久田という人を研ぎ澄ました。そういう気がするからである。
ともかく、和久田は世界でも、もっとも有名なシェフの一人として、料理界の頂点に、君臨することになるのである。

日本と、和久田と、新たな食の1ページと。

2014年、「TETSUYA’S」はオープンして、もう26年目になる。和久田もまた日本より、むろんオーストラリアでの生活のほうが長い。とはいえ、日本も大事な祖国であることに違いはない。
そういう和久田が日本人に知られるようになったのは、いつ頃からだろう。それに関する、おもしろい話を伺った。
「うちの家庭は、結構サバサバしているところがあって。母親などは、私がオーストラリアに行ったときには、『もう日本に帰ってこなくていい』と言っていたくらいです。私も、オーストラリアに行ってから、電話も一つしていませんでした。だから、私が何をやっているか全然知りません。そんな両親が久々に私の顔を観たんです。ただし、私はブラウン管の中にいました(笑)」
1989年の大晦日にNHKが「究極のおせち料理」という番組を放映した。和久田は、雁屋哲氏とこのTV番組で共演する。
お茶の間に登場したのも、この時が初めて。だから、それから少しずつ日本でも和久田の名が知られていったのだろう。ただし、息子が料理人になっていると思いもされていなかったご両親にすれば、どんな思いだったのだろうか。
「哲也が、料理人に?」。息子に料理ができるのか。TVを観ながら、お母様は何度も首を傾げ、心配されたのではないだろうか。
いま、月に1回は「日本に行く」という。
2013年には農林水産省が5年前から始めた「料理マスターズ」という賞をいただいた。海外で活動している人間では、初めてということだ。
生まれ故郷である静岡にも思い入れがある。
「静岡は日本一の鮪の漁獲高なんです。マスクメロン、わさびも日本一。駿河湾で取れる魚の種類は日本一。シンガポール店では日本の食材を使い始めているので、そういった静岡の食材を送っていこうと考えています」とのこと。
「食」を通じて、日本とオーストラリアが更に結ばれる。これは、草の根的な文化の交流となるだろう。
そのほかにも様々な話を伺った。関西にある、和久田が世界最高と位置付け、リスペクトしてやまない料理人のお話。オーストラリアの仕事、習慣のお話。「スタンダード」を保つことの大事さについて。自分がワンマンだというお話。いまの若者について。一歩、踏み込んでサラリーの話も聞いた。「トップ3ぐらいになれば、27、28歳でマイホームを手に入れられるだけのサラリーは渡している」そうだ。日本のカクテルが世界一というお話も興味深かった。むろん、今後の話も伺った。そんななかで印象深い話があったので、最後に追記する。
「昔、あるお客様に、金や地位や名誉といったものを追いかけてはいけないと、教わりました。私は、その通りに実践してきたんです」。
名を成す人は、追いかけているものが、確かに違う。そして、戒めの言葉も知っている、と思った。
いずれにせよ、これから日本の食や文化といったものと、和久田という料理人が出会うことで、今までとは違った化学反応が生まれるような気がしている。
それは世界の「食」に、もう一度、新たなページを増やすことになるのではないだろうか。
独創的。それは、今も変わらないから。

思い出のアルバム
 

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