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第458回 ITALYO JAPAN株式会社 代表取締役 田邉圭介氏
update 14/11/11
ITALYO JAPAN株式会社
田邉圭介氏
ITALYO JAPAN株式会社 代表取締役 田邉圭介氏
生年月日 1972年4月4日
プロフィール 千葉県流山市に生まれる。大学卒業後、印刷会社に就職し、日本を代表する化粧品会社をクライアントに活躍。華々しい実績を残したが、29歳で、退職し、イタリアに渡る。イタリアで出会った「ヨゴリーノ」を日本でポピュラーな商品とすべく、ある企業と組み銀座に1号店をオープン。店長として奮闘するも、なかなか業績が上がらない。ライセンス契約が打ち切られる寸前、自らスポンサーを獲得し、新たに契約を獲得。ITALYO JAPAN株式会社を立ち上げ、再度、マーケットに打って出た。
主な業態 「yogorino caffe」
企業HP http://www.yogorino.co.jp/
「ヨゴリーノ」は、イタリア生まれの、低脂肪・低カロリーのヘルシーなヨーグルトジェラートである。イタリアでは、ヘルシージェラートの代名詞と言われている。
このイタリア生まれのヘルシー・デザートを日本に紹介したのが、今回、ご登場いただく、「ITALYO JAPAN」の社長である田邉圭介氏である。ではいつも通り、田邉氏の足跡を追いかけてみよう。

快速ランナーが駆けた少年時代の話。

1972年4月4日、田邉氏は、千葉県の流山市に誕生する。流山市は千葉県の北西部にあり、東京都と隣接している。人口も少なくはない。小学校の生徒数も少なくはなかったはずだが、田邉氏は生徒たちのなかでも最も目立った存在だった。
足が速かったから、田邉氏は笑う。
小学3年生くらいになると、全学年でトップに立ったそうだ。「県の大会にも参加しました。でも、さすがにその大会では上がいました」。
上には、上がいる。実は田邉氏はもう一度、その言葉を噛みしめることになるのだが、それはもう少し先の話である。
とりあえず快足ランナーだった田邉氏は、圧倒的なスピードで注目され、中学ではサッカー部に入ったが1年からレギュラーに抜擢された。部の誰よりも足が速かったからである。中学時代はスポーツだけではなく、勉強でも評価された。成績が常にトップクラスに位置していたからである。「あの頃は、親も期待していたと思いますね。東大にも入れるかも知れない、みたいな(笑)」。
むろん、そううまくはいかない。高校受験に失敗。滑り止めに受けた高校に進学した。「そちらでも、サッカーをしました。1年からレギュラーです。私もプロを意識していました」。
千葉県もけっしてサッカーが弱い県ではない。進学した学校も、弱小ではなかった。そのなかで、田邉氏は1年時から評価されていた。プロを意識しても、当然だった。しかし、現実はそう甘くなかった。上には、上がいたのである。
「静岡に遠征に行った時です。上には上がいることをリアルに体験しました」。
その時、田邉氏が戦ったのは、のちにJリーガー、しかも日本代表ともなる選手たちである。田邉氏は、怪物と評したが頷けなくはない。

社会に出て、ビジネスマンとして頭角を現す。しかし…。

勉強は二の次になっていた。高校卒業。付属高校だったから、ストレートに上に行くこともできたが、田邉氏は異なる道を選択した。1浪の末、とある大学に進学。
大学を卒業した田邉氏は、名古屋に本社を構える印刷会社に就職。東京支社に配属された。この時代に、田邉氏はビジネスマンとして頭角を現すことになる。
就職した田邉氏は、メキメキと頭角を現し、周りの信頼を獲得し、当時、最大手のクライアントを担当することになった。日本を代表する化粧品メーカーである。1人で年間5億円の売上を叩きだしたのもこの時。むろん、社内では断トツ1位の成績だ。
「29歳になるまでお世話になるんですが、このクライアントを担当した3年間は凄まじいほど仕事をしましたし、そのぶん、会社でも一目置かれた存在になっていました。しかし、これほどの大手を3年間担当するというのは、非常に体力も知力もいることなんです」。
もう、これ以上の相手はない。3年経ったある日、田邉氏はジブンが燃え尽きたことを知る。
30歳を前に、燃え尽きたジブンを見詰め直した。「何がしたいんだというより、何が好きかということをシンプルに考えたんです。そうしたら、『イタリア』という国が頭のなかに浮かんできたんです」。
サッカーもそう。映画ももっぱら、イタリア映画。ファッションも、イタリアのブランドが好きだった。パスタもピザも大好物。知らないうちにイタリアという国の文化に惹かれていた。それに気づいた。さっそく、イタリアに渡った。

イタリアで出会ったイタリアンジェラート。その名は、ヨゴリーノ。

「最初に考えていたのは、イタリア映画を日本に持ってくるような仕事でした。そういう事業をするために、映画監督にも会いに行きました。ただ、日本でヒットするような作品とはなかなか出会えなかった。そうこうしているうちに、ある日本人の友人の誘いで、イタリアジェラートチェーンの『ヨゴリーノ』を日本で展開する仕事を手伝うことになったんです」。
交渉は、田邉氏が行った。最初は会ってももらえない。それでも、足繁く通った。日本の大手企業が接触していることも知った。「結局、1店舗だけやってみろ、ということになったんです。それで、帰国し、銀座に1号店をオープンしました」。
今だから言えることだが、立地が良くなかった。一部の人には熱烈に受け入れられたが、予想通りの売り上げがたたない。オーナー会社は頑張ってくれたが、赤字を垂れ流す日々が続いた。
「もし、この時、私が店頭に立っていなかったら、私が、事業を引き継ぐこともなかったと思います。私自身、飲食をしているつもりは今もないんですが、店頭で美味しそうに召し上がってくださっている人たちの笑顔をみて、商品には絶対的な自信があったんです。だから、会社が店を手放すことを聞いた時に、私自身がスポンサーを見つけ、ヨゴリーノの社長ともう一度、掛け合い事業の継続を申し出たんです」。
1号店は失敗だった。当初の契約からすれば、それでライセンスははく奪されても、当然だった。言い方を替えれば、田邉氏は、今度は自らリスクを取ってヨゴリーノと再契約を交わしたことになる。
スポンサーは、「ぼてぢゅう」の栗田社長。何人かの経営者にプレゼンし、栗田氏が田邉氏の思いに応えてくれたことになる。
改めて出店したのは、北千住にある丸井のフードコート。この店が、予想通りの人気店となった。しかし、2号店、3号店、4号店と成功と失敗を繰り広げる。
「トライアンドエラーですね。北千住の店は、3坪でしたが、2号店は11坪。広さも、スタイルも変えながら試行錯誤を繰り返していきました。失敗しても、私のなかには、お客様の笑顔があった。だから、間違いはないと思っていたんです」。
粘り強く、あきらめずに進むことができたのも、このお客様の笑顔があったからだろう。飲食ではない。イタリアの食文化のサプライヤー的な立ち位置だと田邉氏はいうが、「お客様」と結ばれている点では間違いなく彼も飲食の戦士である。

ヨゴリーノの、新たな育ての親に。

2010年頃から、ビジネスは本格的に軌道に乗り出した。ライセンス契約を結んだオーナーが日本の各地で出店を始めたからだ。直営はわずかしかないが、店舗はすでに40店舗を超える。
日本は、もう少し展開していきますが、私が狙っているのはアジアです。特に東南アジアを狙っています。韓国の1号店は来年3月予定です」。
実はいま、田邉氏は、イタリア本社の役員にも名を連ねている。アジアの展開は田邉氏に委ねられているそうだ。だから自由度も高い。想像に羽を持たせれば、アジア全体にヨゴリーノを展開する、その事業の先頭に立っている田邉氏の姿まで見えてくる。
ヨゴリーノは、イタリアで生まれたヘルシージェラートである。しかし、育ての親は、田邉氏と言われる日が来るかも知れない。

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