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第459回 株式会社OICY 代表取締役 兼子栄治氏
update 14/11/18
株式会社OICY
兼子栄治氏
株式会社OICY 代表取締役 兼子栄治氏
生年月日 1974年8月6日
プロフィール 大阪市池田市生まれ。中学からバスケットボールをはじめ、優秀な成績を収める。ただし、大学2年時にクラブを辞め、同時に中退。アルバイトで経験した飲食の楽しさに魅せられ起業を決意。3年計画を立て、計画通り23歳に起業。1998年6月22日、1号店となるカフェをオープンする。
主な業態 「東京馬焼肉 三馬力」「8Gshinsaibashi」など
企業HP http://oicy-inc.com/

4畳半、2間。

池田市は、大阪府の北部にあり、西は兵庫県と接している。自然も豊かな住宅地でもある。今回登場いただく、株式会社OICYの代表取締役、兼子栄治氏がこの市に生まれたのは、1974年のことである。
1974年といえば、隣の市、吹田市で万国博覧会が開催されてから4年後。ニュータウンが開発され、郊外に人口分布が広がっていった時代でもある。
兼子宅はどうだったんだろうか。
「うちは、狭かったですよ。家賃1万2000円。風呂なしです。4畳半が2間。そこに家族4人で暮らしていました。風呂がないから毎日、銭湯に行かなきゃいけない。あれが、めんどうで。特に水曜日は近くの銭湯がお休みだから、遠くまで行かなきゃならなかったんです」。
「姉を含め家族4人暮らしていた」と兼子氏はいうが、製薬会社に勤務していた父は、出張が多く、月に1日くらいしか帰宅しなかったそうだ。だから、もっぱら3人。「母子家庭みたいだった」と兼子氏も笑って、そう語っている。
「家は狭かったですが、特別、貧しいとは思ってなかったですね。外遊びばっかりで、友だちの家に遊びに行くという機会もなかったから比較できなかっただけかもしれません(笑)」。
「忙しくしていたのは父だけではなく、母親もパートにでていました。だから、私たち姉弟は野放しだったんです」。自由奔放に、少年、兼子氏は育っていった。

バスケットボールとの出会い。

小学生の時から、かけっこが得意だった。だから、中学では陸上部に入るつもりだった。しかし、中学1年時、担任に勧誘され、バスケットボール部に入部することになった。
担任の先生の思惑はどうだったかわからないが、これがきっかけで、兼子氏はバスケットボールにのめり込んでいった。
中学でも活躍し、高校でも注目される選手だった。
全国大会でもベスト16に進んでいる。
むろん大学でも、バスケットボールを続けた。しかし、トップクラスの学校ではなかったそうで、急速に熱が冷めていった。 「偉そうな言い方になりますが、私から言わせれば、部活じゃなくサークルと同じ。ぜんぜん、ピリッとしないんです。それが嫌で、徐々にクラブから足が遠のいていったんです」。
「その頃から、飲食店のアルバイトを本格的に初めました。大阪ミナミの鰻谷にあるレストランバーでした。店長からもいろいろ教わり、お客様もなにかと可愛がってくださいました。こういう言い方したらいけないんですが、あの時は、正直、オレにもできるなと思っていたんです」。
「オレにもできる」。そう思って、大学2年で中退する。部を辞めたことも、関係している。推薦で入学した兼子氏が、部を辞めて大学に残る道はほぼない。
だから、好きだったバスケットボールを辞め、飲食の世界へ進むことを決意した。もっとも、「バスケはいまも続けている」と兼子氏は言う。
それはともかく、いったんは「さらば、バスケットボール」である。これが、兼子氏、20歳の決断。

3年間、貯めた資金は3000万円。

オレにもできる、と思っても、資金もないから、すぐにできるわけもない。だから計画を立てた。
「店を出すにはだいたいいくらくらいかかるのか。バイト先の店長にもいろいろ教えてもらっていましたので、3ヵ年計画を立てたんです。毎月30万円ずつ貯蓄するでしょ。すると3年間で1080万円です」。
「よし、これだ」とせっせと仕事に取り組んだ。お金は倹約家の母に渡した。
「30万円っていったら、20歳の人間にはたいへんな額です。バイトを掛け持ちしました。昼間はとび職で、夜は高級クラブ。正直、寝る間もなかった。でも、スポーツをやっていたし、若かったからなんとか続けられたんだと思います」。
ところで3年後、貯まったお金は3000万円。30万円はたしかに高い壁だったが、とび職は月に45万円となり、クラブの給料は多い時で150万円にもなった。「そのまま、そっくり母に渡すもんですから、あんた何をやっているんだと(笑)」。怪しまれる気持ちも、判らなくもない。
20歳の青年が100万円ちかいお金を毎月、送ってくる。怪しいと思わないほうが不思議だ。ともあれ3年が経過。3000万円という資金も貯まった。
計画通り打ってでるしかない。
「OICYの設立は、2011年3月ですが、私が、最初に起業したのは1998年のこと。6月22日に、1号店となるカフェをオープンさせたんです」。
満を持してのスタートだった。資金も、潤沢にある。といっても、初挑戦。うまくいくとは限らない。

ヒット→大ヒット→につづくのは。3店舗目の落とし穴。

「平日はカフェで、週末はクラブ。そういうお店でした。6月にオープンして、しばらくしてブレイクします。それで、アジアンダイニングをオープン。こちらも、大ヒットというか、バカ当たりしました」。東京からわざわざ取材陣がたずねてきたり、TVCMの舞台にも使われたりした。
「24歳。正直、天狗になっていました。それで教科書通り、失敗」と兼子氏は笑う。兼子氏がいう教科書通りというのは、あながち間違った表現ではない。この「飲食の戦士たち」でも多くの経営者が、おなじ過ちを繰り返している。ただ、彼らに共有しているのは、失敗しても必ず這い上がってくることだ。
兼子氏の状況をもう少し詳しく伺ってみた。
「1店舗目も、2店舗目も大盛況です。特に2店舗目は凄かった。それで、有頂天になってしまったんですね。ちょうど経済が底を打って、ITバブルに向かう上昇気流の頃でもあったんです。そういう要因を分析することもなく、ただただオレはできるんだと。それで、3店舗目ですね。5000万円ぶち込むんです」。
たしかに教科書通りである。過去最大級の投資が、見事にこけた。
「ITバブルの崩壊の影響をもろに受けてしまいました。その後、なんとかてこいれをして収支がトントンまでいったので、売却したんです。決断が早かったことで、キズも少なかったと思います」。しかし、これで終わる兼子氏ではない。再度、5000万円をきっちり用意して、再戦している。今度は、大成功を収めた。
写真をご覧になればスマートなイメージだが、胸には「強烈な闘志が眠っている」ことが、この話からも伺える。3店舗目も成功に導いた兼子氏だが、それでも満足しない。
2006年には、飲食店の企画・プロデュース、人材派遣業を行う株式会社エイトジーコーポレーションを設立。この会社が、株式会社OICYの前身となる。さらに、スイーツがバカ当たりした。一時は、月に15万食をオーダーされていたそうだ。「兼子」という名が轟き始めたのは、この頃かもしれない。

山川氏との出会いと株式会社OICYの設立。

さて、兼子氏が現、取締役副社長の山川博史氏と出会ったのは、2011年10月のこと。当時、山川氏は、株式会社ワイズクルーコーポレーションの代表取締役だった。2人は意気投合し、2012年3月23日、株式会社エイトジーコーポレーションの社名を変更し、株式会社OICYを設立している。2つのタレントが出会ったことで、OICYのビジネスは加速度的に広がっている。
このあたりの経緯はホームページをご覧いただこう。
ここでは、4畳半2間の小さなアパートから始まった兼子氏の人生が、「飲食」という事業に出会い、ビッグなビジネスを行うまでになった、そのことに触れておくにとどめる。
飲食、それは人の可能性をいかようにも拡大する。兼子氏の人生を追いかけ、改めて飲食というビジネスの広がりを実感した。

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