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第460回 株式会社オーファス 代表 小川厚志氏
update 14/11/25
株式会社オーファス
小川厚志氏
株式会社オーファス 代表 小川厚志氏
生年月日 1970年1月29日
プロフィール 東京都狛江市に生まれる。幼稚園の頃に、神奈川県の橋本に引っ越し、その後、そちらがホームとなる。高校卒業後、スーパーや百貨店に勤務。20代半ば、父がFCで始めたラーメン店に入店。片腕となり、店を切り盛りする。その一方でFCを脱会する決意を固め、オリジナルの味を追及する。それがいまや行列が絶えないラーメン専門店「小川」の始まりである。
主な業態 「小川」「おがわや」「小川流」
企業HP http://www.ra-menogawa.com/

電車の運転手の父に憧れて。

小川氏は、1970年1月29日、東京都狛江市に生まれる。父親は、京王電鉄に勤めていた。「私が子どもの頃、父は運転手をしていました。その影響でしょう。私も、私の弟も乗り物が大好きでした」。
父が運転する電車に乗ったこともある。運転席の後ろに家族で陣取る。電車を運転する父親の背がなんとも誇らしかった。
「当時は、私鉄4社のフリーパスが貰えたんです。電車も、バスも乗り放題です。私はそのパスを持って1日中、電車やバスに乗っていました」。
どちらかと言えば大人しい少年だった。スポーツは苦手。
「私が幼稚園の頃に神奈川県の橋本に引っ越しました。父が念願の我が家を建てたんです」。当時、小川氏はいずれ父と同じように電車の運転手になると決めていたそうだ。
でっかい電車を動かす。憧れの職業だったし、何より格好いい父の背中を追い掛けたかったからに違いない。
ところが、高校を卒業する段階になって視力が悪く、運転手にはなれないことが判った。断念するしかなかった。それでも鉄道関係に就職する手はあったはずだが、小川氏はまったくの異業種である、大手のスーパーに就職した。
長く続かなかった。

父が、脱サラ。ラーメン店を開業する。

「進学は頭になかったこともあって、高校を卒業して大手のスーパーに就職しました。でも、すぐに『これは違うな』と思って、そのあとは、防水業や、研究員の助手も経験しました」。
結婚したのが早く、とにかくお金が欲しかったから派遣スタッフでもいとわなかった。それでも、いつまでも派遣というわけにはいかない。
「父にも言われ、百貨店の丸井の試験を受け、そちらに転職しました」。
小川氏が丸井に勤めている時、父親が、脱サラでラーメン店を開業する。
「数年前にも一度、やると言いだしたんですが、その時は私がとめました。我が家では絶対君主のような父でしたが、私の言うことなら少しは聞くようになっていたんです。しかし、今度は、もう会社も辞めてしまっていましたから、とめようもなかったんです」。
父親の2度目の挑戦。家族はバックアップするしか方法がない。退職金も相当あったが、大半をつぎ込んだ。あとにはもどれない。
「ある会社のFC店として出発しました。ラーメンなんて全然、食べたことがないのに、『この店のラーメンは旨い』と言って、決めてしまったんです」。むろん、経験も何もない。悪く言えば、会社の言いなりで、たとえば内装も本部が指定する業者のいう通りにしてドンドン資金が目減りしていった。それでも、オープンして儲かれば、計画通りである。
脱サラ組の父親が始めたラーメン店はどうなっていくんだろうか。

父の店を守り育てるための選択。

「商才というんでしょうか。そういうのは、全然ない人なんです。案の定、うまくいきません。一方、私もその頃、行き詰まりを感じていたんです。私は高卒だから、大手の百貨店と言っても将来が不安になるんです。このまま続けても、そう上には行けないとわかっていましたから。それで、私から『店を手伝おう』と持ち掛けたんです」。
父親がラーメン店を始めて、半年くらい経った頃だそうだ。
「私もラーメンが好きな方じゃなかった。もちろん、飲食の経験もありません。ただ、百貨店で学んだことを実践すれば『なんとかなる』という自信があったんです」。
接客とクリンネス。店に入るなり、実践した。
「幸い、お客さんが少ないんです。だから、一組一組のお客さんと膝を交えて話をすることができました。百貨店の接客です(笑)」。
いまではできないことだが、と断って、当時は「お客様といっしょにキャンプに行ったり、野球観戦に行ったりもした」という。小川氏流の接客が功を奏して、少しずつ客が増えていった。しかし、一方で、たいへんな思いもした。
親子二人。意見が分かれることもしばしばあった。
「そりゃもう、親子喧嘩みたいなもんです。親父は意地になるし、私も、店のためだと思えば引き下がることはできません」。
葛藤である。小川氏はできれば父親の好きなようにさせてあげたかったのではないか。でも、それでは店が立ちいかなくなる。だから、葛藤した。小川氏が店に入って4年。FCを脱会した。それもまた葛藤の末、たどりついた小川氏の答えの一つだった。

FC、脱会。

2014年現在、小川氏は3ブランドを展開している。店舗数は9店舗である。グルメサイトをご覧いただければ判るが、いずれも高評価であり、いずれの店でも連日、列ができている。
「FCを脱会した最初の頃は、ラーメンづくりのイロハも知らなかったんです。何しろ、FCの時は、スープも送られてくるものを希釈して使っているだけでしたから。私なりに勉強して、なんとかなるとは思っていたものの、にぎわったのは、オープン当初だけでした。段々、客が減っていくんです」。
FC、脱会。意を決して臨んだオリジナル店のオープンだったが、スープ一つとっても希釈したスープより、まずかった。
「試食ではうまくできたんです。しかし、12時間も営業すると、ダメなんです。スープの味が一定しない。とたんに素人だと気づかされました」。
「これは!」というラーメン店に行っては、教えを乞うた。恥ずかしさも、遠慮もしていられなかった。スープをこっそり水筒に入れ、持ち帰ったこともある。その努力が、やがて実る。
「おいしくなりました。もう一度試してみてください」。こちらも恥も外聞もない。素直な心を言葉にして、表現した。そんなチラシをみて、半信半疑で来た客が目をまるくする。「旨くなったじゃないか」。この一言が、小川氏の快進撃の始まりを告げた。

ラーメン店、店主として。

「FCに加盟してから独自に1号店を出店するまでには4年かかったわけですが、2号店目は、半年のち、翌年にも3号店目を出店しました。しかし、近くに出店したもんですから、味がかぶって、客が分散。それで、味を軸にブランドをつくっていくことにしたんです」。
らーめん専門店の「小川」は創業の味、豚骨である。次に「しょうゆのおがわや」は家系の豚骨醤油、「小川流」は煮干し醤油の店。この3ブランドを展開することになったのはケガの功名ともいえるだろう。
今後の展開も伺った。それによるとFC展開も、海外出店も考えてはいないそうだ。国内の出店も、「15店舗まで」という。
欲がないわけではない。ただ、自ら店を回り、現場で指揮をするとすれば、それが限界だということだ。経営者というのなら、違った構想があってもいいだろう。しかし、小川氏の考えでは、店主が自ら店に立つことが従業員を育て、満足いただく味を提供するための、鉄則だ。純粋な発想でもある。いうならばこの発想こそが、チェーン店とそうでない店の違いかもしれない。
その昔、電車の運転手である父とその職業に憧れた。だが、結局、「運転手」にはなれなかった。しかし、結果として、これまた父のあとを追いかけて「ラーメン店の店主」となった。
亡くなった父とは喧嘩もしたが、意志は立派に継いだことになる。この意志を、現場に立ち、守り抜く覚悟なのだろう。
爽快な話である。

思い出のアルバム
思い出のアルバム1 思い出のアルバム2 思い出のアルバム3
4歳の時(幼稚園入園式) 丸井時代 20年前の創業時(当時加入していたFC)
 
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