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第461回 株式会社マリオン 代表取締役社長 岸 伊和男氏
update 14/12/02
株式会社マリオン
岸 伊和男氏
株式会社マリオン 代表取締役社長 岸 伊和男氏
生年月日 1944年8月21日
プロフィール 山形県に生まれる。小学6年生の2学期から東京で1人暮らしを開始する。猛勉強の末、麻布中学に入学。当時の趣味は映画と読書。最終学歴は慶応大学経済学部卒。卒業後は渡仏し、7年間フランスで生活する。帰国後、フランスで食べたクレープのショップを渋谷の公園通りの一角に出店。瞬く間にブームとなり、日本にクレープという食文化を植え付けることに成功する。現在は(株)マリオンの社長を務めるほか、国営泉田川土地改良区理事長、山形ボクシング連盟会長を務める。
主な業態 「マリオンクレープ」
企業HP http://www.marion.co.jp/
マリオンのクレープショップが誕生したのは1976年のことである。マクドナルドやケンタッキーが1971年に誕生するなど、日本が欧米の文化やファッションを模倣しつつ、独自にアレンジしていった頃の話である。
むろん、クレープショップは日本初である。では、今回はこの、日本のクレープ生みの親であるマリオンの代表取締役社長、岸 伊和男氏に話を伺った。

東京に出て、役人になれ。

秋田県との県境にあるそうだ。岸氏が生まれた金山町の話である。岸家は代々この土地で暮らしてきた。
「戦後の農地改革で土地を召し上げられる前までの話ですが、小作人もたくさん抱えていたそうです。米作りも盛んですが、林業が最も盛んなところですね。私は3人姉弟の真ん中で長男です」。
長男の岸氏に対する両親、とりわけ父の期待は大きかった。
「父は、地方政治の仕事をしていましたので、私にも『役人になれ』とハッパをかけていました。しかも当時は、県でトップの存在でも国の役人たちからすれば、何のこともないただの地方役人に過ぎなかったんです。だからでしょう。『東京に出て、役人になれ』と」。
小学生の時、岸氏は山形の田舎では成績がいちばんの生徒だった。父が末は大臣かと期待することも理解できる。「ところが6年になって受けたテストが散々な結果だったんです。山形の田舎ではトップでも、東京の子どもたちと比べるとまったく太刀打ちできなかったんです」。
政治・行政と、ある意味、同じ縮図である。すぐさま、息子を東京へ行かすプランが持ち上がった。息子とは言うまでもなく岸氏のことである。
「東京に出て、役人になれ」。岸氏は、小学6年生で山形を出た。

政治家の子息もいた。麻布、時代。

「日比谷がいちばんで、麻布はだいたい4〜5番目くらいでした」。学校のランクの話である。東京で5指に入るような学校はやはり違った。
いまでも付き合いがあるが、政治家の息子もいた。いまではその息子も政治家となっている。
中学1年の頃には、山形弁を笑われたこともあったそうだ。しかし、実力で黙らせたのではないか。
「そうですね。1〜2年の頃は学年でもトップクラスの成績でした。麻布に入るため、猛勉強をしていましたからね」。
住まいは、渋谷。下宿だが、1人暮らしである。当時の趣味は、映画と読書とのこと。趣味にハマったわけではない。しかし、関東の言葉に慣れ、いろいろな仲間との交流が広がることで成績はどんどん下降した。
「高校に進学すると、さらに音楽も加わり、音楽や読書、映画に明け暮れていました。それで、成績も下がってしまうんですが、狙うとすればやっぱり東大だろうってわけで、受験するんですが、失敗。1年目にも慶應は受かっていたんですが、もう1年だと思って、翌年もう1回チャレンジするんですが、2回目も、結局東大を落ちて慶應に進みました(笑)」。 大学の進学を機に東京に出てくる青年は多いだろう。しかし、岸氏は、もう6年、東京でしかも1人で暮らしている。「慶應」に入れたと言っても、それほど心浮かれるわけではなかったそうだ。
一方、役人になるなら、断然「東大」だろう。東大を断念したことで、役人という世界は少し遠い存在になったかもしれない。

太平洋、インド洋。波に揺られた船内で、夜になると船長の話が始まる。

「ある有名な作家さんの勧めで、フランスに渡ることになりました」。大学を卒業してからの話である。出版社や新聞社を受けたが、採用されなかった。それで友人の父でもある、その人の勧めに素直に従って岸氏は渡仏する。岸氏、23歳の時の話である。
ところで、西暦でいえばイメージしやすいが、まだ1968年のことである。いまのように、「チケットを取って、いざフランスへ」とは気軽にはいかない。
「貨物船です。私が乗り込んだのは。貨物船ですから、乗客はほとんどいません。12名でした。しかも、私以外は全員フランス人。横浜から乗ったんですが、寄港する港も少なくありませんでした。日本だけでも、名古屋、神戸、福岡でしょ。結局、7ヵ月、彼らといっしょに船上で生活することになりました」。
初めての船旅だったが、過酷な旅ではなかった。むしろ快適で、この旅があったからいまがあると言っていい。
「周りはフランス人ばかりでしょ。最初はぜんぜん言葉もわからないんです。でも、みんな可愛がってくれるわけですよ。貨物船といっても、フランスの船です。食事は超豪華だったし、12時になると船長が来て、みんなの前でお話をしてくれるんです。最初はさっぱりだった私も、向こうに着く頃にはもうかなりしゃべれるようになっていました(笑)。このおかげで、共同通信社のアルバイトも決ったようなもんです」。
7ヵ月の船旅が終わり、パリに着いた。
船上で優しく陽気なフランス人たちと暮らすうちに、フォークとナイフを使わせたら日本一と思えるくらいフランスの食文化にも慣れた。なんでも、ゆで卵をフォークとナイフを使ってポンと割ることができるようになったそうだ。

フランス語が出来るだけで、職にも、食にもありつけた。

23歳から29歳まで岸氏はフランスで生活する。共同新聞社のフランス支局や日本料理店で通訳のような仕事をしていた。
「どちらもアルバイトです。でも、日本人でフランス語もできるわけですから、重宝してもらいました。たとえば共同通信社だったら、日本から財界などのお客様がいらっしゃるでしょ。そういう時は、いくつかの組に分け、私もアテンドするんです」。
アテンドの時には、目が飛び出るような高級ワインを頼んだ。日本料理店ではフランス語を教える代わりに「朝・昼・晩」と、高級料理を堪能することができた。世界の最新ニュースにも触れた。要人とも出会った。
悪くない暮らしだったが7年もやれば、ときめきもむろん少なくなる。「支局長が替わったこともあって、私も共同通信社を辞めます。『日本で、就職試験を受けてみろ』って言ってくださったんですが、もう29歳になっていましたから、今更と思っていたんです」。
楽しい7年間だったが、いざ振り返ると、何かを修得したわけでもなかった。結局、「7年間、フランスいただけ」と言われても、返す言葉がなかったはずだ。
それは帰国して、明るみに出る。

フランスで秋の到来を告げる焼き栗とクレープが、創業の始まりを告げた。

「日本に戻って、さぁ、何かをしようということになったんです。それで最初は、フランス映画の字幕のつくる仕事をしました。フランス語を訳すわけです。訳すのはお手のものだったんですが、映画でしょ。上手に訳すことができなかったんです(笑)。それで、今度はバスツアーの通訳をするのですが、こちらは観光地の知識がない。それで、こちらも断念して、以前、フランス行きを勧めてくれた人に、もう一度、相談に行くんです」。
「その時ですね。君はフランスで何を観てきたんだって言われて、どきまぎします。せっかくフランスに行けとアドバイスをもらったのに、行って将来につながる何かをしてきたかというと、それが思いつかないんです。でも、何かを言わないといけないと思って」。
「それで、とっさに思いついたのが焼き栗で、言葉として出たのがクレープだったんです(笑)」。
フランスでは焼き栗とクレープが秋の到来を告げるという。クレープは店で焼かれ、焼き栗は路上で紙に包まれ売られていた。岸氏も、秋になると焼き栗を食べ、クレープを頬張った。その記憶が、吐き出されたわけだ。
しかし、その言葉が日本にクレープがお披露目されるきっかけになるとは岸氏も思っていなかっただろう。しかし、相談を持ちかけた相手は、「それをやりなさい」と明言した。しかも、マキシム出身の料理人まで紹介してくれたのである。

日本初の、クレープショップ、渋谷に誕生する。

29歳。紹介された料理人といっしょに2週間、渡仏した。クレープを本格的に学ぶためである。向かったのはクレープの発祥地であるパリ北部の街ブルターニュ。さすが「マキシム」出身の料理人である。すぐに、すべてを飲みこんだ。
「1号店は、渋谷の公園通りの一角にあった駐車場です。2台分のスペースを借りスタートします。だいたい資金が300万円くらいしかなかったもんですから、資金的にもこれが精一杯だったんです。紙に包んで食べる。あのスタイルも、当時私が考えたものです」。
駐車場2台分のスペースだったが、300万円の投資が1ヵ月で回収できるほど、儲かった。「共同通信社の時の知り合いがいたこともあったんでしょう。マスコミが取り上げてくれたんです」。有名なメディアが「パリの雰囲気が来た」と絶賛してくれた。次々に新聞、雑誌などの記者が訪れる。とある週刊誌では、雑誌の表紙を飾った。
それほど、当時の日本は、パリというものに憧れを抱いていたのだろう。お堅いフランス料理ではない。ハンバーガーと同じように気軽に食べられることも幸いしたはずだ。要請があって軽井沢にも出店することになった。初年度は3店だったが、翌年には、それほど広くない軽井沢に、いきなり13店のクレープショップが出来ていた。「都内でもいっしょですよ。真似をする店が、次々に生まれました。もちろん、私も、ほかの店のいいところは採り入れました。あるアイスクリームのショップを参考に、クレープにアイスを巻いたりしました。そう、あれも私の発案です」。
儲かりそうだと、そこに人が群がった。しかし、便乗しただけの店は、すぐに撤退することになる。
たぶん、クレープショップとして、残った店はさほど多くはないのではないか。むろん、岸氏のクレープ店は、いまでも人気を博している。FC合わせ100店舗を展開している。1号店、出店からはや40年が経過している。

少年の心を持った岸氏のいまからの挑戦。

クレープであてた岸氏は、南米で塗料などに使用する特殊な油のビジネスも行った。当時の大統領から大歓迎されたそうだ。インドネシアなど東南アジアの人を派遣する人材派遣ビジネスもやったが、どれも、うまく当たらなかったと笑う。
だが、その一つひとつが財産になっていることは間違いないだろう。少なくとも岸という人間は、そういう失敗も含めできあがっている。
「いま関心のあるのは、生まれ故郷の農業ですね。私は父から引き継いで、国営泉田川土地改良区理事長、山形ボクシング連盟会長を務めているんです。その関係もあって、山形の特産品とかね、そういう地元の特産物をもっとアピールして、山形を農業立県にしようと思っているんです」。
「農業立県と、そういう時、岸氏は目をかがやかせ、声を弾ませた。「生まれ故郷に恩返し」というが、それだけだろうか。岸氏の純粋でまっすぐな思いが、「農業立県」という目標に向かって突き進みつつあることを表しているような気がする。
インタビューさせていただいた2014年。岸氏は70歳になられている。しかし、まだまだお元気である。
「役人になれ」と送りだした父の思い通りにはならなかった岸氏だが、いま、役人にも成しえない「改革」と「立県」を行おうとされている。それは、間違いのない事実。その意味では、自分を強く育て、東京へと送り出してくれた父への恩返しでもあるかもしれない。

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