レストランカンテサンス/restaurant Quintessence オーナーシェフ 岸田周三氏 | |
生年月日 | 1974年8月8日 |
プロフィール | 東京都町田市で生まれる。物心ついた頃には愛知県の豊明市に引っ越し、そこがホームになった。母を真似て子どもの頃から料理を楽しみ、中学卒業時には早くもフランス料理人になろうと決めていたそうだ。高校卒業後すぐに、志摩観光ホテル「ラ・メール」に入社。これが1993年のこと。1996年同社を退職し、東京都渋谷区のレストラン「カーエム」転職。30歳での起業を志し、26歳の時に退職のうえ渡仏。様々なレストランを渡り歩き、2003年、パリ16区の「アストランス」にてシェフのパスカル・バルボ氏と出会う。これが生涯の師との出会い。2006年5月、日本で「レストラン カンテサンス」を立ち上げる。2008年、ミシュランガイドにて3ツ星を獲得。以来6年連続、3ツ星を維持し続けている。 |
主な業態 | 「restaurant Quintessence」 |
企業HP | http://www.quintessence.jp/ |
小学生の頃、「じゃがいものグラタン」を作った。一口食べると、料理好きの母親が相好を崩した。
ミシュラン3ツ星のフレンチレストラン「restaurant Quintessence」のオーナーシェフ岸田が料理を始めたのは、母から凄いと言われたいという想いがキッカケだった。
「母は料理学校に通っていたことがあったくらい、料理が好きで上手でした。そして、私たち兄弟にも料理を教えようとしていました。母も仕事を持っていましたから、子どもたちにも家事を手伝ってもらおうと思っていたみたいです。ある日、子どもが参加できる料理教室に私たち3人が揃って連れていかれたこともありました。母は母で子どもと一緒に好きな料理をしたい気持ちがあったんです」。
「でも男3人のうち兄2人は、全く料理に興味を示しませんでした。そのなかで、末っ子の私1人が母の思惑通りに料理好きになって、最終的に我が家のコックになりました(笑)」。
母の横で小さな少年が料理と格闘する。料理好きな母はそれだけで嬉しかったことだろう。
しかも、息子にはセンスがあった。
「料理を手伝うと母が『料理、凄い上手いじゃない。手伝ってくれてありがとね。』って良く言ってくれました。それが嬉しくて。そもそも私が料理に興味を持ったのは、母が褒めてくれたことが理由なんです」。
母から教わった料理。それは母を喜ばす手段でもあった。冒頭の「じゃがいものグラタン」も、当時の岸田が作った会心の一作である。
中学生の頃には、もう料理人になろうと決めていたそうだ。料理科がある高校に進学したのも、料理勉強の為だった。
働きたいレストランがあった。それは、最初の修業先となる志摩観光ホテルのレストラン「ラ・メール」だった。地方で成功している唯一のフランス料理店であった。
母親が「この方は凄い!」と本屋で「ラ・メール」の高橋忠之料理長の記事を探し出したのだった。岸田も直ぐに共感した。
そして、料理人の応募をする前に、味を確かめようと家族全員で押し掛けた。
「文句なしで、大変美味しかったですね。働きたい気持ちが一層強くなりました」。
岸田は、高橋氏が作る料理を食べ、心の底から魅せられた。まだ中学生の出来事である。中学生に過ぎない少年が、料理のクオリティを推し量る。才能なくして出来ないことだろう。
「ただ実際は、コネも何にもないので、夏休みに住み込みのアルバイトをしたりして顔を出していました。それで何とか就職することができたんです」。
卒業を待って、単身で店に乗り込んだ。
ところで、何故フランス料理を選んだのかも伺った。
「子どもの頃は、当然、日本人だから日本料理だと思っていたんです。でも、私の誕生日にフランス料理店に連れて行ってもらったことがありました。そこで料理はもちろんのこと、初めて外国の文化に触れたということもあり相当カルチャーショックを受けたんです。それがフランス料理を志す決め手となりました」。
少しだけ時系列で追うと、1993年に岸田は「ラ・メール」入社。それから4年後の1996年に、東京都渋谷区のレストラン「カーエム」に転職する。
当時の話を伺った。
「そうですね。『ラ・メール』では、4年間勤務しました。今思ってもビックリするくらい働いていましたね。もちろん、厳しい料理の世界です。14人いた同期は、1人抜け、2人抜け…ドンドン逃げ出していきました。私も挫けそうになったこともありましたが、納得できるまで辞めたくない、そんな想いが強かったものですから、何とかしがみついて続けられたんだと思います」。
料理の世界の第一歩。少年は必死だった。合計4年。
「辞めないつもりでいましたが、一方で、いつまでもいる気もなかったんです。というのも『ラ・メール』は地元の食材だけを扱うレストランです。松坂牛に伊勢海老や鮑などですね。でも、私は三重県で勝負するつもりはなかったものですから、違った食材にも挑戦したかったんです。だから、いつまでもいようとは思わなかったわけです」。
「いずれ東京で」とも考えていたそうだ。
「そして入社して4年、一通りのセクションを回り、納得いくところまで出来ました。また、東京に行くチャンスにも巡り合ったものですから、いいタイミングだと思い退職させていただいたんです」。
「ラ・メール」では、料理のイロハもそうだが、社会人としてどう生きるかを学んだ4年間だった。
希望の灯がともった。
「料理長の高橋さんから、30歳まで店を持てと言われて」。
これが、希望になり目標になった。
東京に旅立ったのも、その目標を志して。
「東京でお世話になったのは、『カーエム』というお店です。『ラ・メール』時代に、次は東京だと決めていたものですから、東京に出てきては色々な店を食べ歩いたんです。素晴らしいお店が沢山ありましたが、なかでも『カーエム』がトップでした。シェフの宮代さんが作る料理の虜になったんです」。
実は、何度か断られたそうだ。ところが、たまたま空きが出たと連絡が入り、採用が決まった。
「『カーエム』でも4年間勤務しました。料理の基本を教わる一方で、『カーエム』で続けば、どこにいっても通用する、と言われていた通り、どこでもやっていける自信もつけました」。
相当厳しかったとのこと。
「毎週、人が入れ替わっていたくらいです」と本気とも冗談ともつかないトーンで岸田は語った。
もちろん、厳しさの向こうには、クオリティに対する宮代氏の想いがあったのだろう。そして、岸田は逃げ出すことなく、宮代氏が求める高いクオリティを追い続けた。ただし、30歳までに店を持つという志があった。いつまでも宮代氏の下にいるわけにもいかなかった。
「30歳から逆算すれば、26歳でフランスに渡る必要がある。それで、退職希望を出すのですが…」。
なかなか辞めさせてくれなかったそうだ。
宮代氏からそれだけ認められていた証でもあるし、チャンスを待て、という親心だったのかも知れない。
結局、辞めるまで7ヵ月もかかったそうだが、岸田の想いは決して揺れなかった。
「ラ・メール」時代とは異なる意味で、濃厚な修業が出来たからだ。いよいよフランスへ。岸田青年の新たな旅が始まる。
宿泊するホテルも決めずに渡仏した。岸田は、今こそ行動に移さなければダメだと強く感じていた。そして、自分に何が足りないのかを本場で知る必要があると思っていた。
フランスに渡った多くのシェフは、「フランスは自由な風土」だと語っている。岸田の目に映ったのも日本の縦社会とはまるで異なった世界だったそうだ。
「コネもない。知り合いもゼロです。もちろん、コネもないのに最初から3ツ星で働くのは厳しいです。フランスで食べ歩いて、それでここだと思ったブラッスリーに就職させてもらったんです」。
ブラッスリーとは、レストランやビストロと比較すれば格下になる。ただし、なかには一流レストランに劣らない食事を提供する店もあるとされている。
「語学については、日本でもある程度は勉強していたのですが、フランス人が普段の生活で使う言葉は全くわかりませんでした。たとえば、日本語で『マジ旨めぇ』なんて言っても外国人に通用しない。それと同じで、最初は全然彼らが喋っていることが分かりませんでした。でも、そのうち不思議なもので段々理解できるようになってくるんです」。
言葉の違いには戸惑ったが、仕事は最初から任された。
「フランスでは『できるなら、ドンドンやってくれ』が基本です。だから、すぐに市場にも連れて行ってくれました」。
「そういう意味ではとても勉強になりました。今でも、オーナーには感謝しています」。
この店を皮切りにフランスでの修業がスタートする。店が替わる度にグレードもアップした。
「紹介を重ねて、少しずつレベルの高いレストランへと移っていった」と岸田は語っている。何人ものシェフに試され、いずれの店でも評価されたことは、岸田の実力と努力の証明に他ならない。
再度、時系列を追うと、2000年に渡仏。ブラッスリーから始まり、ミシュラン1ツ星から3ツ星まで数軒のレストランで修業を重ねる。2003年、パリ16区の「アストランス」(現在、3ツ星)で、シェフのパスカル・バルボ氏に師事。翌年には、「アストランス」にてシェフに次ぐポジションのスーシェフに就任する。
この「アストランス」で学んだことが、今の岸田のベースとなっているそうだ。ホームページでは、<「アストランス」で身につけた独特のキュイソン (火の入れ方)。たとえば肉類の火入れの一例として、オリジナルの火入れで低温長時間ローストし…>とある。
多くのグルメの人たちから神の領域と称えられる岸田のキュイソンは、アストランス時代あってのことである。2005年11月、岸田は、スペインのサン・セバスチャンで開かれた<LoMejor de la Gastronomia>(料理界で最も権威のあるガルシア・サントス主催の学会)に招かれ、パスカル・バルボシェフと共にデモンストレーションを披露している。いつの間にか、フランスを代表するシェフともなっていたのである。
「その頃には、出店する店のイメージも沸いていました。ただ、資金がない。そんな時、株式会社グラナダの下山社長にお会いし、支援して下さることになったんです」。
すぐに帰国し、店づくりがスタートした。これが2005年のことである。
構想は決まっていた。「目を瞑っても、店中の隅々までイメージ出来るほどでした」。コンセプトも決まっていた。「私は、フランスからではなく、むしろ日本から世界に発信できる店をやらなければいけないと思い、それを店づくりのビジョンにしました」。「そして、最初からミシュランの3ツ星を獲れるレストランにしようと思っていました。もっともオープンした2006年にはまだミシュランは来ていませんから、あくまで私のなかでの話ですが(笑)」。
それは、フランスや日本という国のボーダーを無くすような高いクオリティを意味していた。ただし、志は高いが、まだ青年である。料理の良し悪しをシェフの年齢で推し量る人も少なくない。
出店時の話を伺った。
「出店したのは、白金台です。駅から徒歩10分。当時は、白金台に飲食店は少なくて、白金台で食事をするという発想も少なかった時です」。
「潰れるぞ、辞めておけ」という声も聞こえてきた。だが、岸田の決意は決して変わらなかった。
「価格も1万5,000円。コースも一本。当時は、1万円を超えると高級店と言われていました。うちより高いお店はありましたが、ハイエンドの部類に入っていたのは事実です」。
フレンチで「おまかせコース」一つしかないのも珍しいことだ。しかし、高いクオリティを追及する方法はそれしかない、と岸田は言う。
とはいえ、若手オーナーシェフということもあり名前がまだ売れているわけではなかった。案の定、最初の1〜2ヵ月は、さっぱりだったそうである。
「多くの雑誌にも取り上げてもらいました。ある時には、平積みされている雑誌全てに自分の店が載っていることもありました。それでも、電話は殆ど鳴りませんでした」。
ただ、3ヵ月目くらいから口コミもあり、客が入り出した。
いったんブレイクすると、すぐに予約も取れない名店となった。
「もっとも、私の修業先だった『アストランス』が、3ツ星を獲ってパスカル・バルボ氏の名前も知られるようになりました。それで、私はその店の2番手だったということで、業界の中でも更に注目されていきました」。
それから1年弱してからのことである。ある日、1人のフランス人が、ふらりと店にやってきた。
「来ていただいたフランス人の方は、帰り際に料理のことや自分の師匠のことについて色々とお話しされていました。こんなに色々と知っている方は珍しいので、一体、どんな人なのかなと思っていたんです」。
そして岸田は、2008年の若干33歳で、ミシュランの3ツ星を獲得することになる。
そのミシュラン発表会の責任者が、例のフランス人であったのだ。
実は、師と仰ぐ パスカル・バルボ氏とは2歳しか年が離れていないそうだ。茶目っ気もある。「2008年、ミシュラン3ツ星を頂いた時、彼はわざわざサプライズでフランスから駆けつけてくれたんです。本人と分からないように、わざわざ日本の友人の方にお願いして、日本人の名前で予約を入れてね」。
今まで最も影響を受けたシェフを挙げるなら、岸田は躊躇いも無く、パスカル・バルボ氏の名を挙げる。「彼の料理は、革新的で今までに無いことをやってきています。今の自分の料理のスタイルは、彼から来ています」。
パスカル氏抜きには、今の岸田、そして「restaurant Quintessence」は語れない。
最後に、時系列に戻れば、2011年4月、運営会社の株式会社グラナダから独立し、オーナーシェフとなる。2013年8月、現在の品川区北品川へ移転した。
ホームページを覗くと、おまかせコース1本の理由も書かれていた。
<たとえば肉類の火入れの一例として、オリジナルの火入れで低温長時間ローストし、最上質の肉に備わった繊細な風味を味わって頂きます。この調理方法では火入れに非常に時間がかかるため、ご来店前からお召し上がりになるその時にむかって火入れを開始することが必要になります。これも当店が「おまかせの1コース」のみをご用意している大きな理由です>。
見事なまでに、そこに妥協は一切無い。
「じゃがいものグラタン」から始まった小さなシェフの旅は、今、世界を股に掛ける大冒険の旅へと化した。誰にも負けない固い信念が、これからも世界を魅了していく。
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