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第465回 株式会社ゴリップ 代表取締役 勝山 昭氏
update 15/01/06
株式会社ゴリップ
勝山 昭氏
株式会社ゴリップ 代表取締役 勝山 昭氏
生年月日 1976年2月2日
プロフィール 京都伏見に生まれる。子どもの頃から商才を発揮。高校を中退し、設備関連の仕事に従事。そして、23歳で独立。しかし、8ヵ月で撤退。改めて、興味のあった貿易の仕事を始めるべく韓国へ。中古ゴルフクラブの輸入・販売で実績を上げるが、最終的には、こちらも撤退。ほぼ無一文で帰国することになる。それでも商魂は尽きず、新たなビジネスを模索。韓国で日々食べ続けていた「サムギョプサル」で、新たな勝負を開始。それが、今注目の「ベジテジや」の始まりである。
主な業態 「ベジテジや」他
企業HP http://vege-teji.com/
「サムギョプサル」とはスライスした豚のバラ肉を焼いて食べる料理のこと。この「サムギョプサル」料理をベースに、包んで食べる楽しさを提供しているのが株式会社ゴリップの包んで食べる「サムギョプサル」である。HPを見ると「包まぬ豚は、ただの豚」とユニークなキャッチフレーズが目に付く。「世界一のサムギョプサルカンパニーへ」というサブタイトルも刺激的である。では、このゴリップの創業者である社長、勝山 昭氏にご登場いただこう。

学校にいる意味がない?

勝山氏は1976年2月2日、京都府伏見市に生まれている。父は建築関連の職人。兄弟は3人で、勝山氏は3男。皆に可愛がられて育ったそうだ。
小学校の頃の夢は何ですか?と伺うと「社長」という答えが返ってきた。あながち空想ではなく、小学校の頃から、当時流行っていたTVゲームを売買していたそうだ。
「小学校4年の頃です。ファミコンが流行っていたんですね。それで私もファミコン通信の本を良く読んでいたんです。すると『あなたのファミコンのカセット買います』という広告が掲載されていて。それで、兄に内緒でファミコンを送ったんです。すると、当然ですが、ちゃんとお金がもらえました(笑)。それで、今度は、友だちの家に行って。まず私が友人からファミコンを買って、それを業者に売って儲けていました(笑)」。
小学生に似合わないほどの「商魂」である。
ところで、フロンティア精神、ベンチャー精神と簡単に口にしても、人は既定のものにすり寄りたくなるから、実際に発揮するのは大変なことだ。既定路線を歩む人が圧倒的に多いのはそのためだろう。しかし、勝山氏は高校3年目にして、早くもその既定路線と決別する。
「高校3年の春です。担任に進路を聞かれた時の事です。『どうするんだ』と言うので、『商売をしたい』と答えたんです。『だったら、少しでも早い方がいい』と。たしかに、学校にいる意味が無いと思ったんです」。
「それで、退学の道を選びました。そう、学校を辞めてしまいました。家族は何も言わなかったですね。だいたい私が父から言われていたのは、『女の子とご飯食べるときは絶対に男が払うこと』、それだけでした(笑)」。

23歳、独立。しかし…。

高校を卒業して、父と同じ設備関連の仕事を始めた。決して楽しい仕事ではなかった。理不尽な事もあった。頭も下げた。今まで知らなかった父の姿を知ることにもなり、改めて父の偉大さを知ったのもこの頃。それでも、この仕事で独立するために頑張った。23歳になった。経験は5年。その時、念願の独立を果たすことになる。
「設備の仕事って、現場では最も下に見られるんです。大工がいるでしょ。彼らが、事務所でご飯を食べている時に私らは入ることができないんです。『設備屋が、何しに来たんだ』って怒りだすわけです。年齢も関係ない。独立してからも、こちらは社長なのに、現場での立場は私が一番下だから、例えば大工をやっている15や16の金髪の若者からもタメ語で話をされるんです」。
仕事だと割り切っていたからできた。たまたま父と同じ現場にいた時、父が若者にひたすら頭を下げているのを目撃した。カッとなった。一方で父は偉いとも思った。また、2人でタッグを組み、偉そうな相手をぶっ飛ばしたこともあった。
ともかくも、独立をした状況で従業員も1人抱えた。韓国に初めて渡ったのもこの頃の話である。
「以前から興味があった韓国へ行ったのですが、言葉も全然話せませんでした(笑)。でもね。当時は、まだ『日本』っていうのは一種のブランドだったんです。交差点で可愛い子に日本語で声を掛けまくっていると、ちょうど日本語を勉強している子とかに会えたりしたんです。短い期間でしたが、友達が一杯できました」。
もちろん長期滞在というわけにはいかなかった。しかし、その短い期間に心が変化した。「韓国に行ったことで、友達も沢山できて。まぁ、みんな同年代だったのですが、そういう彼らを見ていて、俺の人生これでいいのかな、と疑問を持つようになったんです」。
「いいわけがない」。それが、結論だった。
当時、勝山氏がやりたいと思っていたのは、貿易の仕事だった。その道に進むため、起業した会社をわずか8ヵ月で畳むことにした。「私は20万円だけ取って、残りは1人いた従業員に全部あげました。道具類も全部です。身軽になった状態で私はもう一回、韓国に向かいました」。

韓国での挑戦。

20万円。小さな額ではないが、何をするかによって大小は決まる。異国で生活するには心もとない。
「お金がないでしょ。だから、公園で寝泊まりもしました。当時、私が考えていたのは、日本と韓国の文化の差を利用したビジネスです。既に次のビジネスは日本ではなく韓国でやろうと決めていました」。
以前、韓国で知り合った友人に「日本のもので、何か欲しいものはある?」と声を掛けた。
日本で製品を買い付け、韓国で売る。小学生の時とある意味、同じビジネスモデルである。貿易と言うには、規模が小さいのかもしれないが、勝山氏の中では、それもまた立派な貿易の一つだった。
もちろん、ビジネスは発展する。
「藤田 田さんの本を読んで、富裕層に目を付けました。彼らはお金を持っている。日本車、電化製品、ゴルフクラブ…。彼らが欲しがるものは日本に沢山あったんです。私は、そのなかでも中古のゴルフクラブに注目したんです」。
一旦帰国し、中古のゴルフクラブ探しに奔走した。すると、某有名ゴルフショップに勤めていた人と知り合うことが出来た。そして、様々な事を教えて貰った。大量にレンタルクラブを仕入れる事が出来たのも、この人のお蔭である。もっとも、そのための資金300万円を工面するために、初めて消費者金融にも手を出したそうだ。
韓国に再々度渡り、手広くビジネスを行ったのは、この後になる。最初はクラブ1本持ち出すにも苦労したそうだ。しかし、順風満帆にビジネスは進んでいった。
ショップを作り、FCも含めると6店舗まで広がった。日本の高級なゴルフクラブは韓国の富裕層にとって、欲しくてしかたなかったものだった。ところが、いつまでもいい時は続かなかった。
「ある韓国のゴルファーがアメリカの大会で優勝した事がきっかけになり、ゴルフブームになりました。富裕層だけではなく、一般の人もゴルフを楽しむようになって、安価なゴルフクラブが大量に流れ込んできたんです。高級なゴルフクラブを扱っていたうちのショップは、苦戦を強いられるようになりました」。
波に乗れなかった。ただ、それだけでもなかったようだ。
「一番の問題は、自分が韓国人を信じることができなかったからだと思うんです。心のどこかで、日本人と韓国人を分け隔てていたのかもしれません。色んな問題も噴出して、仕事にも身が入らなくなりました。自分のやるビジネスに全然ワクワク感を感じなくなってしまったんです」。
結局7年間、韓国にいた。商圏も、ビジネスの権利も、全てパートナーだった人間に渡した。7年前、無一文で渡った勝山氏だったが、戻る時もまた無一文に近い状況になってしまった。

世界一

失敗と言われれば、そうなのかもしれない。しかし、単身しかも無一文で韓国に渡り7年間生きてきたということも事実だった。「周りがやっていないことをやった。それが7年も向こうで生きる事ができた理由でした。私のビジネスの秘訣でもあった訳です」。
頭の中で韓国での記憶が動き出す。新たなビジネスの芽が、その中にあった。しかも、とても身近なところに。
「自分に世界一って言えるものがあったら凄いなと思っていました。そりゃ凄いですよね。世界一なんですから。でもね、良く考えてみたら私にもあったんです。世界一が…」。
「韓国の7年間、私は毎日サムギョプサルを食べていたんです。こんなに食べていた人間は私以外にはいません」と。もっとも好きだったからではないそうだ。「住まいの下にあった食堂のメイン料理がサムギョプサルだったんです」。毎日食べていたが、正直美味しいと思わなかった。
「サムギョプサルっていうのは、豚バラをゴマ油で食べる、日本でいう焼肉なんです。でもね。日本人が焼肉といえば、豚も食べるけれど、メインは牛肉でしょ。向こうは豚バラだけだし、調味料もゴマ油だから単調です」。それで、色んな工夫をして食べたという。
これが、勝山氏流のアレンジであり、勝山氏が、韓国で見つけた世界一だった。
「私は、豚バラを野菜で包むだけではなく、アボガドやチーズ、クレープなどを使って食べていたんです。まさに、今の原点です。色々な味が楽しめるばかりか、これが凄く美味しいんです」。
改めてこれだと思った。世界一。商売人の魂に火が付いた。
帰国し、勝山氏流のサムギョプサルで勝負することにした。

包み専門店「ベジテジや」

「包み専門店」と言うそうだ。「包む」ことで、楽しさも、美味しさも広がる。しかし、当時は全く「サムギョプサル」は認知されていなかった。しかも、料理形態から言えば焼肉ともろにバッティングしてしまう。
「でも、全然、問題は無いと思っていました。私の中では、別ものだったからです。普通に豚バラを焼いて、ゴマ油で食べるだけなら焼肉に勝てっこありません。焼肉には豚だけじゃなく、牛肉もある。調味料も豊富だし、伝統もある。でも、こちらには、包む楽しさがあった。私が日本に伝えたかったのも、まさにその包む楽しさなんです」。
韓国の食文化をアレンジして日本で広める。というより、勝山氏流の新たな食のカテゴリー、それを引っ提げての勝負だった。
「包む」のではないが、日本には手巻き寿司という文化がある。何を巻くか、チョイスする楽しみも、確かに楽しい。テーブルに並べられた豚バラと様々な野菜。それにトッピングを加え、包んで食べる。確かに、そのシチュエーションを想像しただけでワクワクする。しかも、今や包み方のバリエーションは、10,000以上あるというから驚きだ。
「最初から成功すると思っていましたか?」
「そうですね。自信はありました。もっとも出店したのは伏見です。ロケーション的には、それほどいいわけじゃないんです。でも、ラッキーなことに大学が近くにありました。だからアルバイト採用に困らなかったし、彼らがお客様にもなってくれたんです」。
とはいえ、最初の数ヵ月は予想と自信に反して、全くダメだったそうである。
多店舗化した今の姿からは想像しにくい。
「今考えれば当然です。知られていなかったんですから(笑)」。パイオニアの生みの苦しみだった。
だから、どうアピールすればいいか、ということから悩んだそうだ。それが今の20種に及ぶ豚肉の種類、30種に広がるトッピングに繋がっている。
「私達は、包んで最高に美味しい豚肉を吟味するところから初めています。サンチュも芯が柔らかく、女性の掌サイズの品種を契約農家の方と一緒に開発しました。トッピングも韓国流にこだわらず多彩に採り入れました」。
その結果、組み合わせのバリエーションは10,000通り以上もあるということだ。
「ヒットしたのは祇園に出店してから」と勝山氏。様々な仕掛けが功を奏し、確実に包む楽しさが広がっていったことになる。スタッフの育成からも勝山氏流の斬新な発想や心意気が伺える。「うちのスタッフは、全員サムギョプサルの伝道師」と勝山氏。ユニークなネイミングである。しかし、ユニークなだけではない。真剣さの表れでもある。
「未体験のお客様も多いでしょ。というか、大半のお客様が知らないんです。だから、逆に発見もあるようです。うちのサムギョプサルを食べながらウキウキされているお客様の表情を見ているとこちらまで嬉しくなります。スタッフは、その笑顔を引き出すための伝道師でもあるんです」。
初代伝道師はむろん勝山氏だろう。
「世界一のサムギョプサルカンパニーへ」。
改めて、HPのサブタイトルを思い出した。
ファミコンの売買からスタートした勝山氏の商売人人生。まだまだ最終頁ではないようだ。
今回、終始明るい笑顔で取材に応えて頂いた。「私はいつもポジティブ思考なんです」と勝山氏。
その言葉からも分かるように、溢れるエネルギーが伝わってくる。
より一層今後の勝山氏の動向から目が離せない。

思い出のアルバム
 
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