賛否両論 店主 笠原将弘氏 | |
生年月日 | 1972年9月3日 |
プロフィール | 東京都出身。高校卒業後「正月屋吉兆」で修行を開始。9年後、父が亡くなり実家の焼き鳥店『とり将』を継ぐ。当初こそ、客が入ったが、次第に閑古鳥が鳴いた。それでも「父の店をもう一度、繁盛店に」との思いで走り続け、苦境になってから半年後には、見事再生し、連日満員となる。その後、飲食激戦区で勝負したいと、東京・恵比寿に『賛否両論』をオープン。こちらはオープン初日から、現在に至るまで連日満席。この記録は今なお、途切れずに続いている。ちなみに、「賛否両論」では、飲んで食べても1万円でお釣りがくる。それでいて、提供しているのは本物の日本料理。20代や30代の方でも気軽に入ることのできる雰囲気づくりも、人気の秘密になっている。 |
主な業態 | 「賛否両論」 |
企業HP | http://www.sanpi-ryoron.com/ |
おばあちゃん子だった。今回、ご登場いただく笠原の子ども時代の話である。「両親が焼鳥屋を経営していたものですから、父も母も忙しくって。それで、私は祖父母の家に預けられて育ちました」。
「子どもの頃から大人びていた」というのが笠原の少年時代の自己評価だが、それも、おばあちゃん子の証かもしれない。時代劇や落語を楽しんだ。これはまさに祖父母の下で育った影響である。
授業では、国語と日本史が好きだった。一方、理数系の科目には関心が無かった。好きではないものには、関心が向かないタイプだった。
とはいえ、中学では学級委員長も生徒会長もやった。好きだからなったわけではなく、なり手がいなかったから。このあたりも大人びていた証である。
小学6年生からバレーボール部に入部。小さい頃から高かったという身長を活かして、中学でもバレーボール部員として活躍。ムードメーカーも買って出た。そういう性格だった。
このバレーボールは高校まで打ち込んでいる。
「お店が忙しい時には手伝いました」と笠原。ただ、店を継ぐという意識はそれほど無かった。とは言え、大学に行ってサラリーマンになるというイメージも全く持てない。進路について、料理人である父に相談したことがある。
「パティシエのワールドカップがテレビで放映されていまして。それが『格好いいと思った』と父に話たんです。そしたら、『それもいいが』、ということになって」。
父にすれば、同じ料理人でもフィールドが異なった。だから、「パティシエも格好良くていいが、日本料理はどうだ」という話になった。
小さな頃から父の仕事を観てきた笠原である。仕事をしている父の姿に何度も目を奪われたことがある。
「日本料理はどうだと言われて、改めてそうだ日本料理も格好良いなと思い直しました。そして、素直に『そちらの道に進みます』と」。
その言葉を聞いて父は、内心微笑んだのだろう。
「日本料理だったら一流の店を紹介する。そして就業をするのなら厳しい店のほうがいい」と息子の決意に、早速応えた。
一流且つ厳しい。どちらにも符合する名店をすぐに探し出した。その店が、「東京吉兆」である。
かくして笠原の「吉兆」時代がスタートする。
「東京吉兆に入社し、配属されたのは、新宿の『正月屋吉兆』でした。こちらのお店で約9年間、勤務することになります」。
「厳しい世界でした。ただ、父から厳しいと聞かされていましたし、高校時代には散々遊んでいましたので、未練もなく素直に受け入れることが出来たんだと思います。最初は、ドラマの世界のようだと思っていましたが、段々それにも慣れてきて(笑)」。
異常も続くと日常になる、と言った人がいたが、まさにドラマの中の異常な世界が、日々、当然のように繰り広げられた。
ともかく、当時、笠原と同じように、東京吉兆の門を潜ったのは、5人。なかでも、笠原は全く素人だった。だから、声だけは負けまいと思ったそうだ。
笠原の元気な返事が店に響く。「掃除も、言われなくても進んでやりました。それぐらいしかできないから(笑)」。
もっとも知識も、キャリアも無かった笠原が、頭角を現して残っていった。結局9年間、日本でも最もハイレベルな店に籍を置いたことになる。
この間、ゼロからスタートした笠原は、「料理だけではなく、社会人、人間としての有り様まで、全てを東京吉兆で学んだ」と言う。
笠原流を貫く、コンセプトでもある美学も、そうであるに違いない。
9年間を振り返って料理人の成長についても語ってもらった。
「料理人として、腕が良いことは第一に大切なことです。ただし、ある程度年数が経てば、だいたいレベルは横一線になる」。
「その中で頭角を現せる人っていうのは、人が喜ぶことを先回りしてできるかどうかです。先を読む目を持った人は、ちゃんと頭角を現します」。
料理をする。そのことに「特別なセンスが必要なわけじゃない」と笠原は言う。「毎日、同じことをするのだから、上手くなっていかなきゃおかしい。ただし、日々料理にどう向き合うか、それを意識することは大事なこと」と付け加える。先を読む目も、そうして養われていくのだろう。
ついでに心掛けていたことも伺った。
「そうですね。当時、料理長から、『やることがないのなら仕事しとけよ』って言葉をいただいたんです。これは今も私のモットーになっています。当時は、休みになれば、銀座の店に手伝いに行ったり、紀伊国屋にある料理本を片っ端から読み漁ったりしていました」。
それらが血肉になった。
休日も仕事。やはり料理人の修行は甘くない。料理の世界に飛び込んだ瞬間から、生き残りをかけた競争が、始まっていたのかもしれない。
ともかく、笠原は戦った。
吉兆に勤務して9年後、父が病気になった。継ぐつもりはなかったが、ともかく実家に戻らなければならない。「かなりショックでした。父のことが気掛かりでしたから。そして、『東京吉兆』を辞め、実家の焼鳥屋に戻ってきました」。
「でも、凹んでいても仕方がないでしょ。だから、発想を逆転させて、チャンスだと思うようにしようと。考えてみれば、まだ20代。それで店が持てるわけでしょ。そんな人はそうそういないわけです」。
焼き鳥のことは分からなかったから、1人いた板前さんに一から教わった。「一から全部教えてくださって、しかも、私がある程度できるようになったら、自分がいてはやりづらかろうと、自分から店を辞めていかれたんです」。
いい人との出会いだった。
商売はどうだったのだろうか。
「吉兆時代、料理長に『料理人にとって、自分で献立をつくり、それを好きな器に盛り付けることが出来るということは一番幸せなこと』と教わっていました。それが出来るわけですから、仕事はとても楽しかった。しかし、業績の方はパッとしませんでした。最初の頃は、息子が継いだということで、常連さんも来てくださっていましたし、地元の同級生らも足を運んでくれていました。でも、そう毎回というわけにはいきません。常連のお客様も、やっぱり父がいてこそですから。そして、段々数が少なくなって…」。
半年から1年の間。
これがもっとも辛い時期だったそうだ。
「仕込んで待っているのにお客様が来ないという屈辱的な経験もした」という。ただし、そういう時期でも、笠原は前を向いた。
「お客様が来ない日は、料理の足りない部分を補おうと本を読んだり、試作したりして。ジャンルが異なる料理にも挑戦し、視野を広げていきました」。工夫もした。外に置いてある黒板に、興味を抱きそうな言葉を散りばめたりもした。
料理には絶対の自信があった。出来ることも増えていった。
金髪にヒゲにピアス。当時の笠原のルックスだ。趣味で、飾ったわけではなかった。「若い店主の店だということを分かってもらいたかったんです。見かけと、料理のギャップも凄いでしょ」。
口コミで広がっていった。金髪のヤンキーみたいな凄い料理人がいる、と。いったんブレイクすると、止まらなかった。「こっちも強気になり、どんどんいい魚を仕入れていきました」。これも口コミで広がった。とにかく旨い店がある。しかも安い。
一度満席になってからは、4年半、毎日満席の日が続いた。父の残した店を、もう一度、繁盛店に。親孝行のつもりだった。それが一層できたと思ったのが、次への挑戦だった。
30歳になったことも大きかった。周りの同期の人間たちも、転職話などを始める頃。無性に勝負がしたくなった。激戦区へ行こう。そう思ったが、父の店を畳むわけにはいかない。
「でも、そんな時に、父が昔、『息子には将来、青山などの一等地で店を構えさせてあげたい』と語っていたと、知り合いの方から聞きました」。この言葉を聞いて、覚悟ができた。
「今の店はその時、物件探しで歩き回っている時に、ビビッときた店なんです」。
父親から引き継いだ店では無かったが、間違いなく父親の想いを引き継いだ店になった。
ここまでが、賛否両論が誕生するまでの経緯である。オープンした初日から10年間、毎日満席。1年を365日だとすると、何と3650日にもなる。
飲食業界を悩ます出来事もあった。それでも席は空かなかった。「これだけは自慢したいですね」と笠原も言う。
店名についても伺った。
「インパクトがあって目立つものが良いと思っていたんです。ある日、友人と飲んでいた時に、ふざけ半分で嫌だと思う店名を言い合いっこしていたんです。そのなかで絶対嫌だと思ったのが、『賛否両論』。でも待てよ、インパクトがあってユニークだよなと思って。それで、店名にしました」。
確かに強烈なインパクトである。店名も功を奏したのか、メディアにも取り上げられた。「いろいろ言う人もいますが、私は目立つことは悪いことではないと思っています。要は、良い循環を生めばいいんです」。
もちろん、店を繁盛させるためにメディアに出るわけではない。ただし、名が売れることで出来ることも広がるはず。それもまた笠原の言う好循環の一つだろう。
最後に今後についても伺った。
「去年、名古屋店がオープンして、お店を作ることは楽しいと再認識しました。とにかく下の子を育てて、強い組織にしていこうというのが、現在の目標です。一方、韓国で日本料理の店を依頼され、プロデュースしています。今や飲食も海外進出という話題が多いですが、私自身は海外に興味がありません。だって、そう思いませんか。何も我々が出ていかなくていい。海外の方を日本に招いて、それで日本料理を食べてもらえばいい。そうすることで、初めて日本料理とは何かということまで確実に伝わると思うからです」。
シンプルな解答である。そのうえ、真実をズバリついた解答だと思った。
自らを信じ、真っ直ぐに生きてきた笠原だからこそ、言える言葉なのかもしれない。
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