株式会社マルコパスタ 代表取締役 マルコ・パオロ・モリナーリ氏 | |
生年月日 | 1966年1月4日 |
プロフィール | イタリア北部ノヴァラで生まれる。7歳の時には早くも料理人を志し、13歳で修業を開始する。名店を渡り歩き、実力を磨いたあと来日。有名シェフの紹介でサントリー系列のダイナックに入社。入社後も料理の世界大会に数多く参戦。金賞をはじめ、様々な賞を受賞。中でも10年に一度開催される世界パスタコンクールでは2度、優勝。20年続けて、タイトル保持者となった。いずれの大会でも、世界最高峰の料理を披露。世界が認めた料理人の一人。 |
主な業態 | 「ラ カーサ ディ マルコ」「ピッツェリア マルゲリータ」「ラ・ボッテ」 |
企業HP | http://www.marcopasta.com/ |
今回、ご登場頂くマルコ・パオロ・モリナーリ氏は、1966年1月4日イタリア北部ノヴァラの伝統的イタリア料理を伝承するモリナーリ家の5代目として生まれる。ノヴァラは、イタリア北部、アルプスの麓にある町だ。
「豊かな自然に囲まれた、ある意味、贅沢な町でした。モリナーリ家は、この町で代々続く料理店で、フランスとイタリアをミックスした料理を出していました」。
マルコ氏は4人兄弟の末っ子。父にも影響されたのだろう。7歳の時に最初の料理を作っている。
「母の誕生日にケーキを作ったんです。初めてフライパンを握ったのもこの時です」。マルコ氏は、父の背中を追いかけていたそうだ。
「父を見て、料理人になりたいと思いました。母の為に初めてケーキを焼いた時から、父の背中を追う旅が始まったのかもしれません」。
「7歳の時にはもう、世界を変えられるのは自分だけだという気がしていました。7歳と言えば向こうでも小学生です。授業が終わってから進んで厨房に入り手伝いをしました。もっとも『危ないから』って包丁だけは触らせてもらえませんでしたが(笑)」。
早くから日本にも興味があったそうだ。「興味を持ったキッカケはマジンガーZやアトムです(笑)」。なんと、「水戸黄門」も見ていたそうだ。長じるとカワサキやホンダ等、日本製のバイクにも興味を持った。
後に料理人となり、改めて日本という国を意識するのだが、その下地は小学生の時に既に存在していたようだ。
早熟ということではないと思う。だが、マルコ氏は13歳の時に早くも修業の道を歩み始める。父が亡くなり、子どもなりに「家計に負担をかけまい」と思ったことが、マルコ氏の背中を押した。
「父が亡くなってから母は、仕事に出かけるのですが、それ以外にも野菜や鳥を育て家計の足しにしていました」。兼業農家というところだろうか。「仕事に行く前に、作業をしていましたので、肉体的にも大変だったはずです。私たちも甘えているわけにはいきませんでした」。
最初の修業先は、ミラノにあるフレンチレストランだったそうである。少年の目に料理の世界はどう映ったのだろうか?
「正直、いじめを受けました。でも、私はめげすに取り組みました。そして、色々なことが分かりました。シェフの世界でも魂を持ってやっている人と、サラリーマンタイプの人の2種類の人がいるんだと知ったのもこの時です」。
「シェフが目をかけてくださって、半年後、フランスの有名なレストランを紹介していただきました」。
紹介されたものの、行けと言われただけで、マルコ氏自身は紹介先の情報をまったく知らなかったそうだ。貰ったチケットを懐にしまい、段ボールのスーツケース一つ持って向かった。行先はパリ。780キロ先にあった。
骨の髄まで、職人魂が入ったとマルコ氏は表現する。パリでも人気のレストランで勤務した3年間の総括そのものだ。
もっとも3年間で修業が終わりではない。注入された職人魂を引っ提げ、マルコ氏は次の修行先である南フランスにある「レストラン ロブション」に向かった。
「嫌だったら、何も言わずエプロンを置いて帰りな」。初めて厨房に入った時にそう言われた。嫌な気がしないでもなかったが、今にして思えば忠告だった。
「とにかく厳しい店でした。同期は25人いたんですが、1週間後には5人になり、1ヵ月後には自分1人になっていました(笑)。私はイタリア人だから、外国人扱いもされました。それでも逃げ出すわけにはいきません」。
生活のこともあった。逃げ出せば、途方に暮れるだけだ。でもそれだけではなかった。「食材が良かったんです。なかなか扱えるような食材ではなかったんですね。そういうこともあって、結局ロブションには6年間在籍しました」。
これで9年と半年。むろん、「ロブション」でもすでに高く評価されていた。
ところで、マルコ氏はどういう経緯で日本に来たのだろうか。その話も伺った。「直接のキッカケは、シェフに薦められたからなんです」。シェフと言ってもロブションでのことではない。「ある時、休みをもらったので、イタリア時代に修業したお店にご挨拶を言いに行ったんです。その時、世話になったシェフから、『これからは日本だ』と言われたんです。もともと日本という国は知っていたし、興味があったから、これもチャンスかなと思って、日本人の知り合いの方を紹介してもらったんです」。
「紹介いただいたのは当時、日本で有名なシェフでした。その方からサントリー系列のレストラン『ダイナック』を紹介してもらいました」。それが1990年のこと。バブルの真っ只中だ。
日本が、世界中を席巻していたと言ってもいい。たぶん、マルコ氏も日本のバブルに仰天したはずだ。
それからのマルコ氏の足跡は以下の経歴を読んでいただいたほうが分かりやすい。
マルコ氏は、来日した1990年、イタリアのストレーザで開催された「金のフライパン」コンクールで優勝。1995年にはナポリで開かれた世界パスタコンクールで優勝。なんと450万人中第1位という成績である。この後、2005年までの10年間、マルコ氏はタイトルを保持する。
マルコ氏は、コンクルールでの成績を重視する。料理人の力量を示す明確な秤だからだ。むろん、受賞したとしても、一つだけでは、偶然の要素も排除できない。しかし、マルコ氏は、多数の賞を受賞することで、そうした外野の声もねじ伏せている。穿ったものの見方をする人でも、力量を認めないわけにはいかないだろう。
マルコ氏の受賞歴を続ける。
1990年10月、イタリアミラノで開催されたオリンピック・スーパーカップ第3位。2000年10月、ドイツ・エルフルトで開催されたイタリア人シェフ鉄人協会の料理大会にて、ケーキ団体部門で金賞。2001年1月、フランスで開催された世界ケ−キ大会で第3位。2002年11月、国際シェフ協会主催「料理ワールドカップ2002ルクセンブルク大会」にてデザート部門で金メダル、料理部門で銀メダル受賞。2005年3月、イタリア・エモンテ州で開催されたお米の料理世界大会優勝。同年11月、世界パスタコンクールで優勝(2回連続受賞)※1995年に優勝し、これが2回目となる。世界パスタコンクールは10年に1度開催されるからだ。同じ11月に6年に1度の世界お菓子大会(スイスで開催)でも優勝している。ちなみにこの時、マルコ氏はまだ39歳である。
むろんこの先も、マルコ氏の受賞歴は続く。ただし、ここまででも世界が認めた料理人であることに疑いの余地がないことを理解いただけるだろう。
話を元に戻そう。
来日して、5年。マルコ氏は、フジテレビの人気番組「料理の鉄人」に出演している。相手は、三代目の和の鉄人「森本 正治」氏である。テーマは、ポルチーニ。マルコ氏はポルチーニパスタやポルチーニモンブランなど審査員の目と舌をアッと言わせるような驚きの5品を作り上げた。結果、マルコ氏に軍配が上がった。
これを機に、マルコ氏の知名度が一気に増していくことになる。また同年、「イル・シェフ」誌の「20世紀ベストシェフ5」に選ばれるなど、瞬く間にマルコ氏の名前は広まっていった。
折角のチャンスなので、世界的な料理人であるマルコ氏に「三ッ星レストランとは?」という質問もしてみた。
「三ッ星レストランとは、実力はもちろんですが、努力、スピード、情報、そしてチャレンジ精神を持っているレストランのことです。郷土料理の名店とは『スピード、情報、チャレンジ精神』が違います」とのことだった。
実力、努力、スピード、情報、そしてチャレンジ。これは、まさにマルコ氏の生き様を構成する5つの要素でもあった。ここに、負けず嫌いというエッセンスをミックスすれば、そのままマルコ氏の人生を形成することができるのではないだろうか。
初めて、厨房に入った13歳の少年は、その年、店のコンクールに一つの料理を出品した。結果は最下位だった。格好つけただけの料理は、批判の対象ともなった。それが、マルコ氏のスタートライン。モリナーリ家の名誉も、己の魂も全てかけ、翌年、再戦した。
TVクルーが初めて覗いた、その店のコンテストは異様な熱気に包まれていたに違いない。14歳、まだ少年にしか見えない料理人が、見事な手順で料理を作っていく。そして、その少年が、優勝を果たした。その少年とは言うまでもなく、マルコ氏のことである。マルコ氏は見事、リベンジを果たしたのだった。
ちなみに、マルコ氏が日本で独立したのは、2000年である。株式会社マルコパスタを設立し、店舗及び生パスタとソース製造専門工場も開設している。
世界最高峰のパスタ職人。
その始まりは、14歳の時のリベンジ。歳月をかけた今、マルコ氏は、代々続くモリナーリ家の魂、そして自分自身の持つ本物の実力を世界に知らしめたのだった。
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