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第469回 株式会社坂東太郎 代表取締役 青谷洋治氏
update 15/02/03
株式会社坂東太郎
青谷洋治氏
株式会社坂東太郎 代表取締役 青谷洋治氏
生年月日 1951年6月4日
プロフィール 茨城県結城郡八千代町(旧八千代村)出身。小学生の卒業文集に、「社長になりたい」と記す。高校進学を前に母が亡くなり、家業である農家を継ぐことを決意する。20歳、町に飲食店ができると聞き、アルバイト募集に自らを売り込み、二足の草鞋を履く。24歳「のれん分け」で独立。創業より15年後、社名を現在の「坂東太郎」に。「売上日本一」ではなく、「幸せ日本一」のファミリーレストランをめざす。
主な業態 「ばんどう太郎」「かつ太郎」「八幡太郎」「さむらい」他
企業HP http://www.bandotaro.co.jp/

「躾」のかたち。

「この漢字を教わったのは、3歳の頃だと思います」と言いながら、青谷は「躾」という文字を書いた。「身」と「美」。美しい身のこなしということなのだろうか。ひらがなでは分かりにくい言葉の意味が、腹に落ちた。
「私ら兄弟は、母から漢字でしか教わったことがないんです(笑)」。人の前を通る時は、「ごめんなさい」というよう躾けられた。
「躾に、とても厳しい人でした」と青谷は母のことをそう言う。
青谷が生まれたのは、1951年。茨城県の結城郡にある八千代という村だった。
「当時はね、日本でいちばん面積が大きな村。っていうことはさ、いちばん田舎だったわけ」。今では、人口の流入もある。しかし、青谷が生まれた頃は戦後10年も経っていない頃である。村は広いぶん、閑散としていたに違いない。
「うちは専業農家です。スイカや白菜、メロンなんかをつくっていました」。 昔は、白菜が八千代村の名産だったそう。「日本でもいちばん有名な産地だったんじゃないかな」と青谷はいう。自らも、畑仕事に従事しただけに誇らしかったに違いない。
「私は、姉が1人いるんですが、四人兄弟の長男です。父は戦争でからだを壊し、重いのが持てない。だから小学校に上がる頃には、もう畑仕事を手伝っていました」。
父の代わりに、重い堆肥をリヤカーに積み、畑まで運んだ。まだ明け切っていない空は、青い。白菜といえば冬が旬である。吐く息は白かった。
「辛いと思うことはなかったですね。そうしないと食べていけないから。中学になると、もう農作業が私の生活の一部になっていました」。
小さな頃から躾けられた少年、青谷。不満もなにもなかった。
「うちの食卓は席が決まっているんです。机には引出がついていて、そのなかに茶碗が入っている。ごはんを食べ終わったら、茶碗を洗って引出に戻すんですね。これも母の躾の一つでした。今日のお手伝いは良くできたね、とか。怒られるだけではなく、ちゃんと誉めてもくれました」。
思い出はいくらもある。そして、青谷はいまも母に感謝する。
「いま私があるのは、お袋の厳しい躾のおかげなんです」。
青谷がしばしば口にする言葉である。

卒業文集に書き留めた、未来の話。

小学生の頃の思い出はと伺うと、「そうだね、卒業文集をみんなに見られたことかな」と言って笑う。青谷が原稿用紙に「社長になりたい」と書くと、いたずらっ子がその紙を奪って、みんなに見せて歩いたそうだ。
田舎の話である。青谷家だけが貧しかったわけではないだろう。しかし、父が重い作業をできない分だけ、実入りも少なかったことだろう。微かな希望は「未来」という言葉のなかにしかなかったかもしれない。
だから、「社長」と書いた。書いたことも、みんなに見せて歩かれたことも鮮明に記憶している。
「とにかく私は、家族を幸せにしたかったんです。父も母も兄弟たちもみんな…」。小学校を卒業し、中学も卒業とういう時に、大恩のある母が亡くなった。
「もう、高校進学どころじゃなくなってしまいました」。
中学卒業だから、15歳である。
「長男だったしね。もう、跡取りみたいなもんですよ。メロンに、スイカに、白菜。毎年、豊作を祈り、畑仕事に精を出しました。ただ、年々、行き詰まりを感じるようになっていたのも事実です。妹を高校に進学させることもできましたし、弟も働きに行かせました。ただ、そうなると働き手がいないんですよね。『これは、この先、農家を続けるのは難しいな』と思うようになるんです。ちょうど私が20歳の時の話です」。
その時偶然にも、隣町に蕎麦屋がオープンする噂を耳にした。
「最初は、『誰か、アルバイトしてくれる人を知らないか』という話だったんです。それで、私が手を挙げたんです。『畑仕事が終わってから、お願いします』って言って」。
オープンの話を聞いて、昔、文集に記した「社長になりたい」という言葉が雷鳴のように轟いたそうだ。よし、「社長」になろう。
小学6年生の時「未来」のジブンに託した二文字が、タイムカプセルから、突然、飛び出してきた格好である。

妹の決断が、兄を泣かす。

「私は無事に一番弟子となり、勤務を開始しました。隣町だったから、畑仕事が終わってから、車で30分かけて通いました。」。
青谷は、「とにかく、私は負けず嫌い」だと言う。
「朝暗いうちから畑仕事を始めて、蕎麦屋が終わって家に帰って寝るのはたいてい12時を回っていました。睡眠時間は3〜4時間。こんな生活をしていると、たいてい、からだが壊れます(笑)」。
青谷も倒れたある日、目を開けた時、2年前に送り出したはずの妹が荷物をまとめて立っていた。
「あれは妹が高校2年の秋でしたね。昔から優秀な子で、当時の先生たちも協力してくださって高校に進学させることができたんです」。
「『先生になりなさい』って私は送り出しました。離れた町に住んでいましたが、弟か姉かに私のことを聞いたんでしょうね。突然、戻ってきて『私が、農家をやる。私が農家をやるから、兄ちゃんは今のお蕎麦屋さんの仕事をちゃんとして』って言うんです。そうして『1日も早く独立して。そうしないと、家庭が壊れちゃうよ』って」。
号泣した。辛くて、悔しかった。妹の夢を奪ってしまった、と知ったから。「男、泣きに、泣いた」と青谷はこの時のことを語っている。

スタッフは、家族。

24歳で青谷は独立する。蕎麦屋からの「のれん分け」である。この時、青谷は「本気」という言葉を使っている。「本気の人には、味方が現れるんです」という。
「のれん分け」が許されても、資金が足りなかった。残りの資金を融資してもらうために、銀行に通い詰めた。
「断られ続けました。でも、めげずに通います。5回目に初めて『事業計画書』の存在を教えてもらって、11回目にしてようやく融資が下りるんです」。
「本気の思いが相手を動かした」と言っていい。しかも、青谷1人分ではない。教師という目標を捨て、農家になると宣言した妹の「本気」も加わっている。その妹の「本気」にどれだけ背中を押されたことだろう。
ともあれ、24歳、青谷は独立を果たした。「20坪くらいかな」。<広いですね>というと、「田舎の20坪だから、都会だったら10坪もない感覚じゃないの?」と笑う。それでも席数は40席くらいあったそうだ。
店は繁盛した。ほかの蕎麦屋で修業を積ませていた弟も呼び寄せた。家族が長男の青谷を軸に一つにつながっていった。兄弟だけではない。
青谷に言わせれば、「スタッフ、全員、家族」である。「だからね、時には本気で怒っちゃったりしてね。でも、家族として受け入れているわけだから責任を持たないといけないでしょ」と言う。
家族だから、事業計画の発表会もみんなを前に行う。「1店舗、スタッフ3〜4人の時から行っている」そうだ。
今もバスを連ねて、社員旅行ならぬ「家族旅行」に出かけている。店舗数がかわっても、従業員数が増えても、青谷の姿勢はかわらない。
ところで、今の「坂東太郎」という名を付けたのは、創業から15年経ってからだそうだ。それまでは、のれん分けしてもらった「すぎのや」の看板で通してきた。
もっとも2号店出店までは9年かかっている。15年目での社名変更は、いい意味で新たなスタートを告げるための「号砲」と言い換えてもいいだろう。

届いた、母の声。

ところで「坂東太郎」というのは、利根川の別名だそうだ。坂東は「東国」のことでもあるから、国を代表した川という意味でつけられたのだろうか。ともかく人名のようでもありユニークだ。
「15年目に、社名も変えようと思って付けたんですね。まだ商標登録されていないと知って、『よし、これだ』と。ただ、少し長いんですよね、飲食店としては。だから、いろんな人から反対されました(笑)」。
 それでも今や「坂東太郎」の漢字4文字は、日本全国に知れ渡っている。「坂東太郎といえばおもてなし」と言われるまでになっている。高い評価を生み出す原動力は、「女将さん」「花子さん」たちである。「各自が誇りを持って取り組んでくれている」と青谷も目を細める。
企業理念は「親孝行・人間大好き」である。
ある時を境に、店のサイズでも会社の規模でもなく、それ以外の要素で勝ち負けを語るようになっていた。最後にその時のことを語ってもらおう。
「5店舗目を出店したの頃ですね。時代は、バブルです。お客様はたくさんいらしてくださいました。でも、スタッフがいない。募集広告をだしても、誰も来てくれない。そのうえ、従業員が次々に辞めていくんです。このままだと労務倒産になっちゃうと思って。スタッフたちがイヤがる作業はぜんぶ引き受けたんです。嫁さんと2人で。掃除もやったし。2人で全店回って仕込みもしました」。
「5店舗だからね、できたんだけども。それでも終わるのは朝の4時、5時です。それからね、母の下に行くんです。『助けてくれ』って、毎日、墓の前で祈りました。そのうちね。墓にお化けが出るって噂になって、それ、私らのことだったんです(笑)」。
「どれぐらいかな。たしか数ヵ月経ったある日のことです。いつもとおなじように朝、まだ暗いうちにお墓に参っていたら、母が出たんです。そしてね、私にこう言ってくれました。『はたらく人が幸せじゃないんだよ』って…。はい、私にははっきりと聞こえたんです。その声が、ね」。
「はたらく人を幸せにしてあげなさい」。母が、経営者となった息子に送った「躾」の言葉かもしれない。青谷は「いまの会社の原点」とも言っている。
「ハッとした私は、みんなに謝り、社長塾を開くんです。私が講師を務めるわけではないですよ。この塾は、みんなの話を聞く塾なんですから」。
当初は、辛辣な言葉のオンパレードだった。「絞った雑巾から出た水を飲ましてやりたかった」「後ろから靴で殴ってやろうとも思っていた」。スタッフが絞り出した声は、青谷の胸をこれでもかというくらい叩いた。
母の言う通り、だれも幸せじゃなかった。
どうしてだろう。青谷は、スタッフを家族と思い、熱い気持ちで接してきたのではないか。どうして、それほどまでに心が離れてしまったのだろう。

母の里山。

それからの青谷人生は、「はたらく人にとっての幸せ」をみつける旅だったかもしれない。「今度ね。筑波山の裾野がぜんぶ観えるところに、里山をつくるんです」と青谷は声を弾ませる。目的は、人を幸せにする「根っ子」づくりなのだという。
青谷が、悩んできた末の答えの一つでもある。
「バブルが崩壊した時も、日本中を回って100年も、200年も続いている店を見て回りました。そういう店には根っ子があるんです。人間も同じで、人を幸せにするには金銭とかではなく根っ子を育ててあげることだと思ったんです」。
すでに「里山」の計画は、立案から10年近く立っているそうだ。「母の里山です。日本のおかあさんの目線で、子ども達にいろんな体験をさせてあげることができる里山なんですね」。
この里山が子どもたちの物語りの始まりになればいい、と思っている。幸せの根っ子になればいい、と願っている。この物語りづくりに、いろんな意味で「坂東太郎」のスタッフたち全員が関わっている。そこもまたいい。幸せ日本一。「坂東太郎」の目標は、そこ。

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