株式会社若竹 代表取締役 田口優英氏 | |
生年月日 | 1972年10月18日 |
プロフィール | 川崎市に生まれる。高校を1年の時に中退。アルバイトで勤務していた「お好み焼き」や「ステーキ」などのチェーン店に就職。17歳で店長に昇格し、最年少記録を塗り替える。19歳で統括マネージャーとなるなど順調にキャリアアップしていくが、1997年に会社が倒産。3年間、恩返しのために社長の息子をサポートし、新会社を育て、退職。2000年4月、若竹「鶴見つくの店」創業。以来、年間1店舗ペースで出店を続け、現在15店舗。(3月に関内店オープン)神奈川県を中心に今後も店舗を拡大していく予定である。 |
主な業態 | 「若竹」「てんやもんや」「炙り家」「魚鶏屋」 |
企業HP | http://wakatake-group.co.jp/ |
田口は1972年10月18日、川崎市で木材商を営む田口家の次男として誕生する。小さな頃からスポーツが得意で、小学高学年から中学まで陸上部に所属。何でも100メートルを11秒台で走ったそうだ。好きだったのは、魚釣り。友人と自転車を漕いで、海釣りに出かけた。「釣りはいまもやっています。うちには釣り部もあるんですよ」と田口は笑う。
仕事観はどうだったのだろう。直裁に尋ねてみた。「父が木材屋だったでしょ。だから将来は建築関係の仕事に進むんだろうな、と漠然と思っていました」と田口。実際、建築関係の仕事に就くため、建築科がある工業高校に進んでいる。
「もし、あの時、バイトをしていなかったら、私の人生は全然、違っていたかも知れません」と言って田口は、高校時代の話を始める。
高校に進学した田口は、1年時から川崎の駅ビルにある「お好み焼き店」でアルバイトを開始した。「店長がとてもいい人だったこともあるんですが、楽しくてしかたなかった。学校より楽しくなって、1年で中退。17歳の時には、最年少で店長に抜擢していただきました」。17歳で、店長。さすがに、この「飲食の戦士たち」のなかでも最年少記録かもしれない。この時、田口が店長となったのは、「お好み焼き」「ステーキ」等の飲食店を全国に展開する大手飲食チェーン店だった。このチェーン店で、田口は飲食の戦士として、また経営者としての才能を開花させていく。
「私が最初に店長になったのは川崎の駅ビル店。12〜13人のスタッフがいました。私が17歳だから、全員、年上です。だからって、店長にもなって何もしないわけにはいきません。私は、品質はもちろん接客の向上に取り組みました。最初は、背中でみせて。そして1人1人、引き込んでいったんです」。
驚くべきことに、店長になった田口は33ヵ月連続で前年同月比を超える売上を達成した。「最初の12ヵ月は、先輩が残した数字です。13ヵ月目からは私が去年残した数字ですから、越えるのが至難の業だった。それでも、なんとか33ヵ月というレコードをだして19歳の時に、統括マネージャーに昇進しました」。17歳で、店長。19歳で、統括マネージャー。まだ、二十歳にもならない青年である。陰口を叩かれないほうが不思議だ。だが、田口青年は、実績を通して、すべての声を押し込めたのではないだろうか。会社の業績は悪くはなかった。その業績を二十歳にもならない青年が、ひっぱっていることもまた事実だったからである。
順風満帆だった。田口は、会社からも評価され、スタッフからも慕われる存在になっていたはずである。しかし、平成9年、突如、会社が倒産する。1997年のことだから、田口25歳の年だ。「最後は22店舗をみていました。社長から可愛がっていただいていたこともあって、その後は、新会社を作る社長の息子さんのお手伝いをすることになります。ただし、3年という期限は設けさせてもらいました」。最後のご奉公という意味もあったのだろう。「6店舗くらいですか、出店もサポートし、期限の3年が過ぎたもんですから退職させていただくことにします」。
若竹のホームページを観ると、創業は2000年4月となっている。ちょうど3年、育ててくれた会社、社長への恩返しを果たし、田口は新たなステージへと踊り出す。
しばらく、年表で追いかけてみよう。
<2000年4月若竹「鶴見つくの店」創業><2001年4月若竹「ダイエー鴨居店」開店><2002年5月若竹「鶴見東口店」開店><2003年6月若竹「日吉駅前店」開店><2004年6月月の彩「横浜鶴見店」新業態開店><2004年11月若竹「新横浜駅前店」開店><2006年7月若竹「鶴見西口店」開店><2007年5月てんやもんや「川崎店」新業態開店><2007年12月若竹「川崎モアーズ店」開店>……。
ほぼ、1年ペースで出店を重ねていることが伺える。1年間で3店舗出店したこともあるが、2007年以降も、基本は年間1店舗ペース。出店した店の基盤を整えて、次に進む。慎重な姿勢が読み取れる。
「あの時までは、増収増益だった」と田口が口にするあの時とは、震災の時のことだった。大きな力に成す術もなかったそうだ。「あの時は、倒産ということも頭に浮かびました。震災後の計画停電もあって、営業もできない状態でしたから」。
たとえ営業ができても、客が来なかった。「3月でしょ。宴会の予約もたくさん入っていたんです。その予約がすべてなくなるまで、キャンセルの電話が鳴りつづけました」。焼酎が倒れ、サーバーが破損した店もあった。物理的に営業ができなくなってしまった店だ。
「もうだめだ、と思ったときに、そう、当時の日吉の店長から『がんばって、これを乗り越えましょう』ってメールが入ったんです。その言葉に突き動かされました。そうだ、オレだけじゃない。みんながいる。みんなでこれを乗り越えようって」。
1ヵ月たった4月から、客足が戻り始め、4月には前年比170%をクリアする。倒産の危機をスタッフ全員で乗り越えた結果が、その数字に表れていた。
最後に社名についても伺ってみた。「若い時から竹のようにスクスク育って行こうって思っていたんです。その思いを表現したかったことと、私が通っていた『幼稚園』にも『竹』の文字が使われていたんですね。それで(笑)」。「若竹」。たしかになんだか、清々しくもある。
社名に込めた想い通り、スタッフたちもスクスクと育っている。100%に近い定着率も、異例のことだろう。いまは若干アルバイト採用に困ってはいるが、正社員の採用にはいまだ困ったことがないという。仕掛けがある。
「単純なことですが、昔の私と同じように、アルバイトで来た子がそのまま正社員になってくれるんです」と田口は相好を崩す。
アルバイトで勤務すれば、内情もだいたいは理解できる。だから、「アルバイトから、正社員に」という図式は単純なようで、実は、なかなか成立しにくいものである。その点、アルバイト経験者が、次々正社員に立候補する、その事実だけ捉えても「若竹」という会社の魅力が観えてくるようだ。このサイクルがある意味、「若竹」という会社の強さの根源かもしれない。「竹のように、まっすぐスクスクと」。震災を乗り越え、一つとなったチーム「若竹」。スタッフ全員の成長をいまからも、田口は誰よりも熱い思いで見守っていくことになるだろう。
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