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第472回 有限会社アペタイト 代表 飯野雅司氏
update 15/02/24
有限会社アペタイト
飯野雅司氏
有限会社アペタイト 代表 飯野雅司氏
生年月日 1961年2月5日
プロフィール 東京都足立区生まれ。高校を中退したのち、職を転々とする。いったん家業を継ぐが、弟に譲り、1人独立開業の道に進む。大分で3年間の修業を経て、27歳で独立。<両面焼きそば専門「あぺたいと」>を出店。苦戦を続けながらも営業を続け、十数年経って初めてブレイク。TVや雑誌などでも取り上げられる人気店となる。現在、日清食品より有名店シリーズの商品として、同社が監修した商品が販売されている。
主な業態 「あぺたいと」
企業HP http://www.apetaito.com/

八百屋の長男。

「八百屋」の主人と言えば、愛想も、元気もいいのだが、大抵体格がいいからか、怖そうなイメージもしなくはない。今回、ご登場頂いた有限会社アペタイト代表、飯野雅司氏の父もそうした八百屋の主人だった。
「私が生まれたのは1961年、昭和36年です。兄弟は3人で私は長男。親父は、長男の私を跡取りに考えていたんだと思います」。
小学校の時も、学校から帰ると兄弟みんなで店を手伝わされた。怖かったから、親父には刃向えない。「内心、嫌だった」と飯野氏。「特に、夏は暑いし、冬は寒い。たまに飲食店に野菜を届けに行く時があるんですよ。すると店内は、夏は涼しいし、冬は温かい。あの頃から漠然と飲食店はいいな、と思っていた気がしますね(笑)」。
勉強も出来たし、スポーツも出来た。「まぁ、いい子だったよね、店の手伝いは良くするしね。でも、反動が来ちゃったのよ」。

父親という存在からの脱出。

「高校進学の時の事です。親父も『いい』って言うもんだから、千葉にある全寮制の高校に進学しました。本心は言わなかったけど、『これで店の手伝いから解放される』って思っていました。それなりの進学校だったしね」。
高校では空手部に入る。子供の頃から剣道、卓球、バレーと、スポーツはだいたい何でも出来た。だから、空手もすぐに巧くなった。心も解放された。何しろ、親父の目が届かない自由な生活である。
「それまでの反動だろうね。でも、好きにし過ぎて停学3回くらいました(笑)。4回目は無かったな。退学しちゃったから」。
退学したのは、高校2年の夏の事。
「高校を辞めてすぐに中学時代のツレに紹介して貰った中華料理店で住み込みで働き始めました。給料は確か月7万円位だった」。
手取りも少なかったが、貰った回数も又少なかった。
「親父が店に来てさ。店主と話をつけて、退職する事になったんです。親父は、八百屋を継がせたかったんだろうね。でも、私は嫌だった。八百屋と言うのも嫌だったし、何より親父に支配されたくなかった。だから、家には帰らなかったんです」。

新宿の街を闊歩する。

「どこでもいい」と思って、歌舞伎町にあった蕎麦の店に飛び込んで運よく雇ってもらった。「でも、タイミングが悪くてさ。熱を出して3日で辞める事になっちゃった」。
その頃にはもう新宿のアンダーグランドに足を踏み入れていたのかもしれない。職は無いが、食べるには困らなかった。風を切って、新宿の街を闊歩した。
「そんなある日、たまたま、職務質問で引っかかってさ。それで、親からも『校正させてくれ』って事になって…」。
半年間くらい、今までの人生を振り返る機会(チャンス)を与えられた。
「その頃になってようやく、親父の言う事は聞かないといけない、と思うようになったんです。申し訳ないな、とも初めて思うようになって」。
「父親の知っている社会教育のとあるセンターに出向きました。すると『東京はまずい!九州に行け』と指導されて、大分にある、親父も知っている教育機関に行き3年間過ごしました。こちらで高校の単位を通信教育で取得しました」。
あらぬ方向に向かっていた時計の針が、元に戻される。「向こうでは、色んな会社の社長が来られてね。直接、話をして貰ったりしていたんです。それが、独立のきっかけになったかも知れませんね」。
ともかく3年間、全うして卒業した。紆余曲折もあったが、ある意味、高校を合計6年かけて卒業したと思えばいい。

遂に八百屋になる決心を固めたが…。新たな旅が始まり。

「どうしても無理だった」と飯野氏は、溜め息交じりに語る。家業の八百屋での話である。今は次男が継ぎ、8億円の年商を上げる迄になっているが、当時から人も使っていたと言うから、それなりの規模の八百屋だったに違いないのだが、性に合わなかったようだ。
「大分から戻って、ようやく親父の下で働こうと思ったんです。最初は、私もやる気を出してさ。わざわざ弟も呼び戻して、『よし、頑張ろう』と思っていたんですが、どうしても、無理だった」。
仕事が厳しくて逃げ出したわけではない。ビジネスよりも、純粋な思いの方が勝ってしまった。
父との意見の相違もあった。「衝突した訳じゃないんです。父親の言う事も分かるんですが、納得が出来なかったんです。だから、弟に『おまえがやれ』って言って、私は飛び出すんです」。
大分にいた頃、自然とも触れ合いトマトやキュウリ等の野菜も作った。野菜は新鮮なうちが一番である。しかし、ビジネスで考えれば、全てそうはいかない。「古くなった野菜の扱いで、親父とは良く揉めた気がします。親父の言う事ややり方は正しいんです。でも、正しくても、好きにはなれなかった。そんな時に、ふと大分で暮らしていた時に食べたラーメンが頭に浮かんだんです」。
九州ラーメン。飯野の知る限り「九州ラーメン」は都内にはなかった。だから「流行る」と思った。「いける」と確信した。早速、大分県に舞い戻った。前回とは違い、今度は明確な目標がある。流されるように辿り着いた前回とは明らかに気持ちも違った。あるラーメン店に飛び込んだところ、「小遣い程度で良ければ」という条件で働かせて貰える事になった。
「この時、大分には計3年いるんですが、最初はこの店で1年半、そして残りの1年半、いまのメイン商品である焼きそばを、ある店でじっくり修業させて貰うんです」。
店名は「想夫恋」。大型のチェーン店だった。人気もあった。大分の焼きそばは「両面焼き」が主流だそうだ。こちらで「両面焼き」を修得する。そして、いよいよ27歳。東京に戻り、店を探し、父親に資金を出して貰って<両面焼きそば専門 「あぺたいと」>をオープンする。長い旅だったが、それが実ったと言えなくもない。

出店するも、売上は低空飛行。12年の時をかけて、ブレイクする。

今の価格は、「焼きそば」小が 650円、中が850円、大が1050円である。当時は、もっと安かったに違いないが、それでも日商10万円を叩き出した。
「初日は、10万円だったんです。でも、それから低空飛行が続くんです」。大きな店ではない。店主1人だから、何とかなった。それでも日商2〜3万円の時もあった。支払もできない月もあった。だから、店を閉めてから、異なる仕事に出ていた時期もある。
どうして逃げ出さなかったんだろう。まだ若い。閉店してやり直しも利くはずである。
「どうしてだろうね。全然流行らなかったけど、不思議な事に自信はあったんです。九州であれほど人気なんだから。同じ、日本人でしょ。流行らない訳はないと」。
「いつか流行る」と何度も己に言い聞かせていたに違いない。ソースを自作し、製麺機を入れ自家製の麺も作った。
朝10時から夜10時迄。休む事なく働いた。月の収入は20万円そこそこ。試行錯誤の日々は続く。
12年の歳月が流れた。
「日清食品の社員が選ぶ店で、1位に選ばれたんですね」。有名なアナウンサーがメインキャスターを務めるニュースに取り上げられた事も大きなきっかけとなった。
「食品メーカーの人達に変わった店があると知って貰っていたんだと思います。それからですね。急に忙しくなっちゃった」。
それからも、何度もTVに取り上げられた。

ブレイクの先にあるもの。

現在、「あぺたいと」は、都内に5店舗ある。いずれも繁盛店だ。グルメサイトでも高得点を叩き出している。同じ材料、調味料を使っても、「焼き」によって味がバラつくそうだ。
しかも、作り置きができない難点もある。ランチタイムに提供できる数も限られているからだ。
それでも、十数年かけた店主の味は微動だにしない人気を博している。「今度ね、日清食品さんからリリースされるんです」と飯野氏。インタビューしてから少し時間が経っていたので調べてみると、確かに発売されていた。
<両面焼きそば専門店 あぺたいと監修 こんがり焼きそば>。
1袋に2人前が入っている。
 発売地域は関東エリアに限定されているので、それ以外では中々購入する事が難しいが、ぜひ、1度食してみたいと思った。
 ブレイクの先にあるもの。これは、人気飲食店が抱える共通の問題と言う事も出来るだろう。守りに入るも、攻めに入るも店主次第である。
 飯野氏はこれからどこに向かうのだろうか。「うどん」「ラーメン」「スパゲッティ」、そして「焼きそば」。麺類が好きな日本人である。
 両面を焼く事でパリッとした食感を楽しめる、「両面焼きそば」。
「じゅうじゅう〜」という鉄板の音もいい。通の間では、もはや日本一の焼きそばとして通っているのではないだろうか。
ならば、その期待に応え、飯野氏にはぜひ次の展開を行って貰いたいものである。「やきそば」。その文化の奥深さ、また飯野氏を通して、その文化を守ろうとする人の貴い姿を見た気がした。

思い出のアルバム
 
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