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第473回 株式会社サガミチェーン 代表取締役社長 鎌田敏行氏
update 15/03/03
株式会社サガミチェーン
鎌田敏行氏
株式会社サガミチェーン 代表取締役社長 鎌田敏行氏
生年月日 1949年3月25日
プロフィール 埼玉県浦和市(現さいたま市)生まれ。慶応大学経済学部を卒業し、1974年伊藤忠商事に就職。1994年、イスラエル・テルアビブ事務所長などを経て、2007年、サガミチェーンに出向。翌年、伊藤忠商事を退職、常務取締役などを経て2011年1月、現職の社長に就任。04年英国のブラッドフォード大大学院でMBAを取得している。
主な業態 「サガミ」「味の民芸」「あいそ家」「さがみ庭」「水山」「Jin Jin」「製麺大学」「どんどん庵」他
企業HP http://www.sagami.co.jp/
作家・沢木耕太郎の著書に「深夜特急」というベストセラーがある。沢木氏の旅の記憶をもとに綴られた紀行小説だ。沢木氏の後を追い、多くのバックパッカーが旅に出た。
旅の性格は違うのかもしれないが、鎌田氏も旅の鉄人である。訪れた国の数はすでに3桁に届こうとしている。
ある寄稿文のなかで、鎌田氏は、もっとも印象に残った場所として「カイバル峠」を挙げている。アフガニスタンとパキスタンの間にあり、アレキサンダー大王が、かつて通った道だそうだ。
いまは便利なもので、ネットで検索すると、九十九折りになった道が山肌を通り、通り抜ける「カイバル峠」を観ることができた。しかし、目の前にパノラマのように広がるそれと、ネットで観るだけのそれではずいぶん印象も違うのだろうなと思った。
かつてアレキサンダー大王が通った道、そんな道に何より魅せられた鎌田敏行氏。現、株式会社サガミチェーン代表取締役社長にご登場いただいた。

少年、鎌田氏の話。

「整列するたび、どこかに行ってしまう子だった」と鎌田氏は幼稚園時代を回顧する。理由は単純だが、子どもにとっては切実で、何でも「背が低く、並ぶと後ろにいる体の大きな奴にいじめられるからだ」そうだ。だが、先生にも理由を話していなかった。あるとき先生が、それに気づき声をかけたが「神様が見ているからいいんだよ」と取り合わなかったそうである。鎌田は1949年に埼玉で生まれている。まだまだバンカラな時代で、当時は子どもといえども骨太な少年が多かったのかもしれない。
兄とは違って「親に反抗するタイプでもあった」とも言っている。仕事と家庭を見事に両立させた父親に今は敬意あるのみだが、父への反抗期は長かったそうだ。
ちなみに父の充夫氏は埼玉銀行に勤め、立て直しのために八欧電機株式会社(現富士通ゼネラル)に出向している。「父の転勤で、私も一度、大阪で暮らしました。小学3年生の時に埼玉にUターンし、6年から埼玉大学教育学部付属小学校に編入。中学は、そのまま付属中学に進みます。そのまま県立浦和高校に進むのが埼玉ではエリートコースです(笑)」。
しかし、鎌田氏本人は「高校でコースから離脱した」といって笑う。外れたといっても「慶應義塾志木高等学校」に進んでいるのだから、何の問題もないような気がするのだが。

「皆中」。すべての矢を的に当てる。

「皆中」という言葉があるそうだ。「的に向け射た20本の矢が全部当たるのを『皆中』と言うんですが、これがなかなかできない。うちの学校では、1年先輩の1人と私にしかできなかったんです」と鎌田氏は高校時代を語り始める。高校に進学した鎌田氏は、人がやらないことをしようと弓術部に入部。もともと才能があったのだろうか、主将まで務めている。むろん、大会にも何度も出場した。
「当時のバイブルは『弓と禅』という本でした。これは、弓聖とも称される阿波研造範士という伝説の弓道家の下で修業したドイツ人哲学者、オイゲン・ヘリゲル氏という人が書いた本です」。
鎌田氏は音楽にも造詣が深い。のちドイツに留学した鎌田氏は、ベートーベンの生家を何度も訪れている。そのとき、このオイゲン・ヘリゲル氏の奥様と一緒に氏のお墓参りをしたそうだ。それだけ、この本の印象は強かったということだろう。

ドイツ、そしてイスラエル。

高校を卒業した鎌田氏は、多くの生徒がそうするように自動的に「慶應大学」に進学する。しかし、こちらは稀といっていいだろう、7年間も在籍した。うち3年は休学。インターン生として海外に渡っている。そのときのお話も伺った。
「初めてドイツに渡ったのは、1970年のことです。アイセック(AIESEC)という世界組織の海外研修制度を利用しました。ドイツではインターン生としてドイツ銀行と、小さな日本の商社で合計18ヵ月くらい勤務しました」。
当時の心境を鎌田氏は、寄稿文のなかで次のように、語っている<「今ならできる。今しかできない。行くか?行く!」と運命の女神の前髪を掴んで大学4年の時に渡独した>。揺れる学生の気持ちが、良く表れている。
ドイツで2年、それからイスラエルで1年。合わせて3年。大学を休学した年数だ。
ところで、ドイツは分からなくもないが、どうしてイスラエルだったのだろう?
「イスラエルに行ったのは、ユダヤ人の研修生と出会ったからです。彼から中東戦争の話を聞いて、その事実を確かめたくなったんです」。学生とはいえど、なんとも旺盛な冒険心だ。
「といっても、ですね。みなさんが想像されるように爆弾が飛んでくるような状況ではなく、農業共同体の『キブツ』というところで、衣食住すべてタダという快適な生活を送っていました。この『キブツ』には世界中からいろんな学生がやってきました。言葉は、ヘブライ語です。『キブツ』では、ヘブライ語を学ぶコースをとり、試験ではつねにトップの成績をおさめていました。『日本人は、なかなかやるもんだ』と世界の学生に発信できた気がしています(笑)」。
ドイツとイスラエル。なかでもイスラエルは、やがて鎌田氏のもう一つのふるさとのような存在になる。

イスラエルに伊藤忠の旗を立てる。

さて、3年遅れて、大学を卒業した鎌田氏は、伊藤忠商事に就職する。「ドイツに行った時に勤務した商社の仕事が気に入った」からだそうだ。
入社して20年が経った。鎌田氏はもう45歳になっていた。
そして鎌田氏は、イスラエルのテルアビブに向かった。
「私は入社以来、イスラエルに拠点を構えて欲しい、私が最初に行きたいと言ってきたんです。それが実現するのが、1994年。私が45歳の時です。オスロ合意は前年の9月ですが、その1カ月前に社長に直接提案する機会があったんです」。
45歳。鎌田氏は1人、イスラエルに向かい「駐在員事務所」を開設した。
「最初は、ですね、伊藤忠という名前も出せなかったんです。『イスラエルと商売をする』というだけでアラブ諸国から問題視されるからです。だから、嘗ては、日本車といえばスバルしかなかった。スバルは、もうほかの国はあきらめてイスラエル1本にかけたと言われていたんです(笑)」。
「しかし、伊藤忠はそういうわけにはいかないから、パレスチナでは伊藤忠名、イスラエルでは名前を伏せての活動となりました。イスラエルには計7年半いました。最後の3年だけで合計1500億円の取扱高を計上し、60億円の本社貢献利益を積み上げて終わりました。1人、総合商社。まぁ、何でもござれ、です(笑)。達成感がありました」。
1人総合商社の鎌田氏は、200平米もある海沿いの大きな屋敷に1人で住んでいた。海岸でバーベキューをふるまうと大好評だったそうだ。なんともうらやましい暮らしぶりである。
とはいえ、イスラエルに着任した当初は、そんな余裕はどこにもなかった。
「掛け値なしで1日18時間のハードワークです。もっとも休みとなっていた土曜日は、お休みだから6時間だけ削って12時間労働ということにしていました」。
異国の地での奮闘。それがいまの鎌田氏の源流となっているのは間違いないことだろう。

外食産業と鎌田氏。2007年、サガミチェーンに入社。

イスラエルでの武勇伝の一方で、鎌田氏は実は、もう一つの武勇伝を残している。「イスラエルに行くのが1994年。それ以前に、私は伊藤忠商事の本社外食産業チームに所属し、チーム長を務めていました。1990年の夏、外食分野で世界最高峰と言われている米コーネル大学で学んだあと、帰国し、チーム長として国内外の大手企業と合弁企業を4社立ち上げました。つまり、外食とはもともと縁があったんです(笑)」。
合弁といっても、主導したのは殆ど伊藤忠商事、そしてそれを纏めたのが鎌田氏だった。相手も錚々たる企業。それを4社も立ち上げたのだから、「剛腕」というイメージが浮かび上がってきた。
さて、鎌田氏が「縁がある」といった外食産業界に単身乗り込むのは2007年のことである。ミッションは、業績不振にあえぐサガミチェーンの立て直し。業界は違うが、奇しくも父と同じ道を辿ったことになる。
「サガミチェーンに入社した翌年、伊藤忠商事を退職し、こちらの取締役に就任しました。常務取締役事業開発本部長などを務め、社長に就任したのは2011年1月のことです」。
 当初は、発言権もなく、鎌田氏の意見に耳を傾けるスタッフも少なかったそうだ。しかし、時が経つごとに鎌田氏を信望するスタッフが多数を占めるようになる。社長になった2011年には、大改革を断行した。

大改革で、V字回復を実現する。

「当時、サガミチェーンは常態的に赤字だったんです。生ぬるい方法では、挽回する糸口もつかめない。だから、私は社長になった初年度から20項目に亘る大改革を実施したんです。私についてくるか、どうかは経営陣の判断です皆が、やろう、と。もう、それしかなかったのでしょうね」。
鎌田氏が断行した改革は、社内に大きな波紋を起こしたに違いない。20項目のうち一つを取り上げても、その凄まじさが理解できる。制度改革、組織改革、そして意識改革を大胆に進めたのだが、まずは最初に鎌田氏は、管理部門と営業部門のトップであるそれぞれの役員を入れ替えたのである。これが意識改革に大きく寄与したという。「活性化というのは、簡単なことじゃないんです。組織を多少いじくっても根本的な解決にはならない。やるなら、大胆に。これは伊藤忠商事で学んだことの一つです」。
しかし、大胆なことをすればするほど、不平不満も出やすい。しかも、言えば外様だ。
「不満とかがあっても、そりゃしかたがない。役員を含めスタッフたちすべてが私を選んだんですから」。鎌田氏流の経営は、極めてオープンである。いまでも毎年、アンケートを取っているそうだ。
「〇、×、△です。そうやって匿名で、私を社長として認めるかどうかのアンケートを取っているんです」。いまのところ「〇」以外の評価はない。自信がないわけじゃない。ただし、「×」が過半になれば辞めればいい、と思っている。ただ、それだけのことだ。
「味の民芸」を買収した時も、すべての役員にオープンにした。「極秘裏」という言葉は好きではない。「代わりに、もし情報が洩れたら、オレはオニになるぞって言っています。世界のどこに逃げたって、無駄だ。絶対、みつけ出すって。その時には、5億、6億程度の財産なんて吹っ飛ぶぞって。私にはそんな財産ありませんが(笑)」。
ふだん柔和な鎌田氏だが、そう言った時の言葉には迫力があった。
ともかく、鎌田氏が社長に就任してからサガミチェーンはV字回復を果たした。それだけではない。新たな飛躍を開始しようとしている。その鍵となるのが、海外だ。
日本から世界へ。むろん、鎌田氏流の海外戦略がそこに描かれている。
「名古屋には、世界的な企業があるでしょ。彼らは、名古屋から世界に飛び立ったわけで、名古屋のことがやっぱり好きな人が多いんです。食に関してもね。だから、『名古屋めし』で、彼らのニーズに応えるのもありだな、と」。
名古屋めし? たしかに名古屋の料理は、一風かわっている。独自性が強い。それが売りになる、と言われればそういう気がしなくもない。そして、サガミチェーンは昨年6月のサッカー・ワールドカップの際にリオ・デ・ジャネイロに設置された日本政府館に唯一の日本の外食企業として出店、世界のVIP2,700人に蕎麦をふるまっているが、今年5月1日から10月31日までイタリアで開催されるミラノ万博の日本政府館の中にも出店する。万博史上初めてとなる、「食」がテーマの万博で、得意とする蕎麦を世界に発信する計画だ。
名古屋から世界へ。
サガミチェーンという企業を背負いながら、いま旅の鉄人のもう一つの旅が始まろうとしている。

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