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第474回 株式会社MGホールディングス 代表取締役社長兼CEO 松野克成氏
update 15/03/10
株式会社MGホールディングス
松野克成氏
株式会社MGホールディングス 代表取締役社長兼CEO 松野克成氏
生年月日 1974年2月28日
プロフィール 神奈川県横浜市磯子区に生まれる。16歳の時に父親を亡くす。大学には進学せず、ラーメン店に押しかけるようにして、バイトで入店。店主の片腕として4年、勤務し、月商700万円を叩き出す人気店を育てる。1998年、藤沢に1号店を出店。5年後に2号店を出店し、その後、加速。現在は直営13店舗。FC70店舗以上の実績を持ち、海外にも進出している。ラーメン業態で、もっとも成功している経営者の一人である。
主な業態 「ラーメン松壱家」「ゴル麺。」「ゴル家」「鶏炎馬車道店」
企業HP http://www.mghd.co.jp/

高校までの松野少年の話。

松野の父は日本を代表する大手家電メーカーで部長職を務められていたそうだ。「海外勤務ばかりで、日本にいるのはそう多くなかった」という。「厳しい人で、私たちは男ばかりの4人兄弟なんですが、兄弟喧嘩をしようものなら、全員、父親にベルトで叩かれました(笑)」。
怖い父だが、もちろん自慢の父でもあった。「親父は中卒なんです。中卒なのに、家電メーカーの部長まで登り詰めた人です。ほんとうは、もっと上までいけるんだけれど『学歴がないから、部長止まり』と言っていました」。自宅から会社に行く時は、決まって自転車。雨の日も、雪の日も、それで通われていたそうだ。
むろん、家計は苦しくない。祖父がアパートを経営していて、そちらに住んでいたから尚更だ。とはいえ「昔のアパートでしょ。すきま風が吹いて、寒かった」と松野は笑う。
何度も日本と海外を行き来し、部長にまで昇格したエネルギッシュな父だったが、ある会議の前に突然、心不全で倒れ、亡くなってしまった。
松野、16歳。父はまだ52歳だった。
「突然、親父を亡くしたわけです。母親も心の整理がつかなかったのでしょう。何年も泣きつづけていました。私たち兄弟はそれぞれ『なんとかしなけりゃ』と思って、私もすぐに『退学を』と考えました。でも、親父が学歴で苦労していたでしょ。だから母親が、『せめて高校は卒業して』と。それで、奨学金を受けてなんとか卒業することができたんです」。
学業にもちゃんと向き合ったし、クラブ活動にも手を抜かなかった。「中学では野球をやっていたんです。でも、高校ではサッカー。最初はリフティング一つできなかったんですけどね」と笑う。
ただ、負けずキライでもある。すぐにどこかに飛んでいってしまうボールを何度でも拾いつづけた。ジブンだけではなく、同じ未経験たちを募り、一緒になってトライした。「そしてみんなで、県大会に出場するまでになったんです」と松野は誇らしげに言う。
これは、高校時代の一つの勲章。
「努力は、報われる」。松野は、そう心に焼き付けたに違いない。

独立したばかりのラーメン店で、修業開始。

「もともと独立しようと思っていたんです。それに、父を亡くしてからは貧乏だったわけで、母への仕送りと、兄弟の生活費を考えたら『月に100万円はいるな』と計算したんです。『月100万円』、独立するしかないでしょ」。
しかし、急ぎはしなかった。「住まいの近くのラーメン店に転がり込みます。『修業をさせてくれ』と。最初は、断られました。オープンしたばかりだったし、正直、お客様も入っていなかったから(笑)。でも、『無給でもいいから。ラーメンだけ食べさせてくれたら、それでいいから』と言って雇っていただいたんです」。
「全然、ダメでした。私じゃなく、店のことです。スタッフは、店主と店主の奥さん、そして私の3人です。それで、日商4〜5万円。いくら全員無給で、人件費はかからないと言っても、さすがに4〜5万だときつかったと思いますよ」。ただ、店主も若く、松野はそれ以上に若かった。2人して熱心に味を改善した。
数年経った時には、店の前には列ができていた。「味が、良くなったんです。それだけで、最初の頃の数倍の月商を達成したんです。当時の月商は700万円です。毎日、列ができていた証拠です。お客様が来ない時に、店主も、私も相当、研究しました。この体験が、私の強みともなっていくんです」。ラーメン店、1店舗で月商700万円。相当な売上である。
もっとも松野の給料は、月商700万円の時でも20万円弱。そのなかから母に12万円くらいを渡していた。給料は少なかったが、今も店主には感謝している。勤務したのは計4年。店主とともに、最高の一杯を追いかけた日々だった。

独立。しかし、波高し。

「藤沢で13坪。居抜きで330万円。内装工事を含めると1600万円くらいかかりました。家賃は15万円です」。母の了解を得て、父が残してくれた土地を担保に、銀行から資金を借りオープンした。1998年、松野24歳の時である。
オープンすれば、やっていける自信はあった。「やっていけるかどうかではなく」ではなく、「どれだけ行列ができるか」くらいの気持ちだったかもしれない。
しかし、まったく繁盛しない。オープンして3ヵ月くらいは、1日に30人程度しかお客様がこなかったようだ。
「問題は、やっぱり、味です。初めての独立ということもあったんでしょう。安定した味がだせなかったんです」。どうすればいいのか。松野は1人、研究に明け暮れた。人気店に頼み込み、教えを乞うたことも少なからずあった。「とにかく、私は味なんです」と松野はいう。「味にこだわること」、それ以外思いつきもしなかった。
当時を振り返って松野はこうも言っている。「お金じゃないんです。お金は、あとからついてくるもんでしょ。まず、旨いラーメンをつくること。これが、私たちラーメン店のすべてなんだと思います」。
 スープの出来が悪いと、お客様に頭を下げ、帰ってもらったこともあった。「そういうのが、続いた時があったんです。そんな時、たまたまお客様に雑誌の編集者がいて、興味を持ってくださったんでしょうね。若くて、おもしろい店主がいると、横浜ウォーカーの編集長を紹介してくださったんです。それで『横浜ウォーカー』見開きでドンと掲載され、店にお客様がドンと来たんです」。

失敗は成功の始まり。

「なんだ?どうした?って感じですよ」と松野は笑う。雑誌が発売された日から、爆発した。店の外に、人が長い、長い列をつくる。一度、食せば、松野のつくるラーメンは人を虜にするだけのパワーがあった。だから一度の掲載で十分だった。列は、長い間、毎日つづいた。
しかし、一時、人気を落としたことがある。オペレーションの失敗。松野の責任でもある。「2号店を出店したんです。従業員も増えてきたし、彼らのためにとも思って…。1号店をオープンしてから5年後のことです」。「失敗だったのは、看板を変えたことですね。あの店の『パクリだろ』って(笑)。とにかく、なかなかうまく行きません。でも、それは1号店で経験済です。困り果てたのは、私が2号店で仕事をしていたこともあって、1号店の味が落ちてしまったことなんです」。
1号店、長くつづいた列が、途絶えはじめた。緊張感が、走る。すべてを失くしてしまうのではないか。思考の悪循環。しかし、松野はその罠に、陥らなかった。むしろ、ポジティブに発想を転換する。そこが、凄い。
「2号店でこれでしょ。3号店、4号店と、今後も出店する度に同様のことが起こると考えたんです。これは、私たちラーメン店にとって勝負どころ。だから、あの時は、いままで以上に覚悟を決め、閉店後も店に泊まり込んで、毎日、試行錯誤を繰り返しました」。
そして、セントラルキッチンの考えを採り入れた。2号店目の失敗が、次の飛躍につながった。2014年12月現在、松野は、13店舗の直営店を経営し、70店舗以上のFC店とともに明日づくりに取り組んでいる。そのすべての始まりも、この2号店の失敗からだったといえるだろう。まさに、「失敗は成功の始まり」である。

一杯のラーメンが描き出す、未来。

最後に今後の目標も伺ってみた。淀みない声で「5年以内に300店舗」との回答。うち直営は30店舗ほどで、FCが中心になるという。むろん、「のれん分け」も積極的に行っていく方針である。
更にリスクヘッジもかね、FC1店舗に付き、異なったブランド2店舗を展開。それで、ざっと1000店舗という構想となる。
国内だけではない。海外展開も構想の一つである。「日本で生産しているものを海外に」という思いがあるそうだ。その延長線上にあるのが、「農業にも着手したい」という発想。
自らの成功だけに終始しない。スタッフはもちろん、FC各店とも「Win・Win」の関係である。「私の一つの大きな目標として、日本をけん引していくような経営者の育成があるんです」と松野。この発想の広がりが、いい。
ラーメンという一杯に込められた、いくつもの過去と未来。
「こってり系だけじゃなくって、女性を意識して野菜たっぷりであっさりした味のラーメンも考えている」と松野。研究熱心で、負けずキライ。彼が描いていく、未来は、柔軟性と力強さに溢れていることだろう。その未来では、松野とともに多くの仲間たちが、笑っているはずだ。それが、松野がつくった一杯のラーメンが描き出す未来だ。

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