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第475回 株式会社泰斗 代表取締役 浅井航一氏
update 15/03/17
株式会社泰斗
浅井航一氏
株式会社泰斗 代表取締役 浅井航一氏
生年月日 1956年
プロフィール 中央大学商学部卒業後、メーカー系商社で貿易業務に従事。4年で退職し、佐川急便などいくつかの会社を経て、株式会社大戸屋に転職。社長の三森氏と二人三脚で「大戸屋」を育て、2001年ジャスダック上場を実現。そののち、独立。「手しおごはん玄」「牡蠣と魚 海宝」のほか中国でも得意の定食屋「長浜食堂」を2店舗経営している。
主な業態 「手しおごはん玄」「牡蠣と魚 海宝」「長浜食堂」
企業HP http://www.tait.co.jp/

転校回数、11回。

山口県で生まれ、佐賀県で育った。「転校が日常だった」と今回、ご登場いただく浅井氏は語る。転校回数はなんと11回。「父が航空自衛隊のパイロットだったんです。父の転勤に合わせて、私たち子どもも一緒に転校です。おかげで、物おじせず、誰とでもすぐに打ち解け合えるようになったんだと思います(笑)」。ちなみに、長女は30回という記録を持っているそうだ。
とにかく転勤が多い。そんな父を浅井氏はどういう風に見詰めていたんだろう。「父親のことは尊敬していましたが、私は父親のようになりたくないと思っていました。会社勤めというより、小さな頃から独立して商売をしようと思っていたんです」。

中央大学進学。

浅井氏は、二年浪人して中央大学に進学する。大学時代はアルバイトと麻雀に明け暮れた。それでもなんとか4年で卒業することができた。案外、要領が良かったのだろう。
「学校に行くのは、試験の時だけ。頭のいい奴をみつけて、『わりぃ』って言って答案を見せてもらいました。卒業できたのは彼らのおかげです(笑)。ただ、貿易には関心があって、その勉強だけはしていました」。
「実は、大学進学もいったん断念しようと思っていた時期があったんです。進学はやめてカナダに行こうと。『カナダで農業体験』という国のプログラムに参加して。でも、両親の反対もあって、結局、断念しました。そのことからも分かるように、元々海外志向が強かったんです。就職も、海外を意識し、貿易会社1本に絞りました」。

就職試験、軽々合格のはずが。

「合格間違いなしと人事の担当者から太鼓判を押されていた」という。就職試験の話である。そう言われていたものの、いくら待ってもなしのつぶて。思い切ってこちらから連絡すると、「う〜ん、申し訳ない」との返事が返ってきた。担当の甘い言葉もあったのだろう。元々、これだと思えば、ほかに目を向けないタイプだったのかもしれない。しかし、絞っていた1本の糸が、切れた。
「あわてて、学生時代にアルバイトをしていた時の先輩に紹介してもらって、あるメーカー系商社に就職します。それが、私の社会人、第一歩です。この会社では、いろんなことを勉強させてもらいました。部署も転々とし、最終的には営業もやりました」。その会社で奥さまと知り合い、結婚。通常なら、退職という選択肢はないはずだが、浅井氏は4年で退職してしまう。

佐川急便。荷物を持って、走る、走る。

「退職したのはいいんだけど、子どもも生まれることになって。とにかく職がないし、お金もない。それでなんとか出産の費用くらいはと思って、佐川急便です(笑)」。
「月50万円」。それが当時の佐川急便のキャチフレーズだった。朝から晩まで勤務して、とにかく50万。浅井氏は佐川急便で、「はたらくという意味を知った」と語っている。とにかく、はたらいた。荷物を持てば走り出す。そうしないと、終わらないからだ。走りつづけて1年。なんとか、出産費用も、生活していける資金も貯まった。それで、退職する。多少、金は貯まったが、むろん無職のままではいられない。前職の部長に、ある会社を紹介してもらう。「飲食店だが、それでもいいか?」の一言に浅井氏は、頷いた。それが「大戸屋」との出会いだった。

1日でリタイア。

「佐川急便で、やっていたわけでしょ。何でもできると思っていたんです。でも、立ち仕事でね。1日でリタイアです。社長の三森さんに『すいません、私には合わないようです』って、お断りの連絡をいれました。ところが、どうしてなんでしょうね。私が退職してからも、ひんぱんに三森社長が電話をくださったんです。もどってこないかって」。
誘われて、悪い気はしない。1回会っただけだが、三森社長にも惹かれていた。「それで2ヵ月後くらいですか、『わかりました。もう一度やらせてください』と、私からお願いしたんです」。

1日でリタイアした会社に20年。

結局、浅井氏は、「大戸屋」に20年、勤務することになる。「大戸屋」がまだ2店舗しかなかった頃からの付き合いだ。
「いろんなことをしました。仕入れはもちろんですが、物件探しもやったし、金融機関ともやりとりしました。ある経済新聞に掲載された記事で、大戸屋は飛躍します。とにかくFC展開も含め、私が指揮を執ってきたのは事実です。大戸屋では専務となり、20年間、社長を支えつづけたんですが、株式の上場も果たし、店舗数もすでに130店舗になっていたものですから、一応、私の役目も終わりだろうと退職させてもらいました」。
1日でリタイアした会社に20年。「大戸屋」という店と会社を育てた1人であることは間違いない。しかし、実をいうと、最後は憔悴の思いで会社を去っている。「二人三脚でやってきたつもりだったんですが…」と浅井氏。「上場」という甘い蜜には、いろんな人が引き寄せられた。現場で指揮を執ってきた浅井氏という人間には、理解できないこともあったようだ。
ともあれ、退職。20年いっしょに歩いた「大戸屋」をあとにした。

自分の利益より、他人の利益を第一に考えろ。

こののち、浅井氏は1年のブランクを経て、「ジンギスカン料理」の店を出店する。ブームに乗ってブレイクするが、それが逆に足かせとなり、2号店目が失敗。資金が底をついた。その時、友人がエンジェルとなって資金を投資してくれたおかげで、再度、挑戦。得意の定食屋で巻き返しを図る。
「そして現在に至ります。国内では、<手しおごはん『玄』>、<牡蠣と魚『海宝』>を展開しています。中国にも進出し、<長浜食堂>という店も経営しています」。
飲食とともに半世紀以上、浅井氏にとって「飲食」とはなんなのだろう
。 「飲食の未来を考えれば、『海外』はアリだと思います。でも、文化が違うのでお隣の中国でも成功するのは、難しい。でも、あきらめず進んでいきたいと思って、なんとかつづけています。そうですね。将来は、ヨーロッパにも進出したい。パリの定食屋って面白いでしょ。一方、国内は、とにかくスタッフが食べられるだけあれば、いいかな、と思っているんです。といっても、私は、現場に任せきりだから、彼らが『もっと、もっと』ということになれば、わかりませんが(笑)」。
「上場も考えていない」と言って笑う。仕事は、「単に金儲けの手段ではない」という意思表示なのだろう。「海外」や「貿易」という言葉を思い起こせば、浅井氏の方向はおのずとみえてくる。最後に、浅井氏に、これからの人にメッセージをいただいた。それは、「自分の利益より、他人の利益を第一に考える」ということだった。
自己利益に走ってしまったら、商売は成り立たない。たしかに、浅井氏が行ってきたビジネスは、他者を幸せにする、そこから始まっている。そんな気がする。浅井氏にとって、それが「飲食」という商売の正体なのかもしれない。

思い出のアルバム
 

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