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第476回 株式会社アクティブソース 代表取締役 金子 源(はじめ)氏
update 15/03/24
株式会社アクティブソース
金子 源氏
株式会社アクティブソース 代表取締役 金子 源氏
生年月日 1976年8月5日
プロフィール 群馬県新里村(現、桐生市)生まれ。高校卒業後、自衛隊に入隊。自衛隊を辞め、武蔵小山に4坪のBARをオープン。これが、始まり、のちに、立ち呑みスタイルの「晩杯屋(バンパイヤ)」をオープンし、注目を集める。
主な業態 「晩杯屋」他
企業HP http://active-source.co.jp/
今回ご登場いただいた金子 源(はじめ)が立ち上げた株式会社アクティブソースは、立ち呑み「晩杯屋(バンパイヤ)」などを7店舗展開する今注目の企業。「晩杯屋」は、店名もユニークだが、とにかく安くて、旨い。グルメサイトでも高得点を叩き出している。煮込み(玉子入り)150円、ポテサラ130円、アジフライ110円…。ビール2本、あて2品で、1000円でお釣りがくるのだから、のんべぇにはたまらない。客が群がるという口コミにも、さもあらんと頷いてしまう。
さて、そんな「晩杯屋」をリリースした金子源は、1976年8月5日生まれ。2015年現在、まだ40歳にもなっていない。にもかかわらず、よくぞ「のんべぇの心をわかってくれた」と言いたくなる。では、いつも通り、その「のんべぇ」の救世主、金子源を生い立ちから追いかけてみよう。

お金を払えず、幼稚園、中退。

金子源は、1976年8月5日 群馬県新里村(現、桐生市)に生まれている。兄弟は7人で、金子は下から2番目。子沢山の両親は鉄工所を経営していたが、オイルショックで会社を解散。金子が物心ついた頃には、「赤貧」という言葉がぴったりな生活だったそうだ。
住まいは、プレハブ小屋。風呂はもちろん薪で炊き、便所も、俗にいう「ボットン便所」である。アウトドアで楽しむならいいが、いうまでもなく我が家である。電気やガス、水道は通っていたが、それも数ヵ月に一度、止められた。「水道を止められても、メーター横の蛇口を開けたら水は出るんです。でも、何度も繰り返すと今度はメーターを外される。そうするともう水はでない。で、今度はどうすると思います? 地面を掘ってバイパスでつなぐんです」。まさにサバイバルだ。
「私は、幼稚園を中退しているんです」と金子は勲章であるかのように言って笑う。代わりに小さな頃から畑仕事や、父が解散後も細々と続けていた鉄工所の仕事を手伝った。当時、ファミリーコンピューターが流行っていたが、金子がコントローラーを手にしたのは「2〜3回だけだ」と言う。それでも、すねた様子はない。将来の目標は何でした?と伺うと、「金持ちになること」とためらいのない声が飛んできた。

天才、かもしれない。

中学に上がっても生活はかわらなかった。代わりに、新たな勲章ができた。勉強がやたらできたのである。「勉強はする暇もないし、実際、全然しなかったんですが、テストの結果はつねに学年5位以内。通知簿はオール『5』でした」。周りは、天才かもしれないと思ったはずだ。
それでも父親の手伝いは続いたし、畑仕事も続いた。「しいたけ」のバイトにも精をだした。時給換算すれば200円にもならない時もあったが、それも貴重な収入源だった。たしかに勉強をしている暇はない。
ともかく、金子の話を聞いているとたくましい生活力を持った少年像が浮かび上がる。
生活力があり、成績優秀な金子少年は、県内でも有数の進学校に進み、「いずれ東大へ」というレールに乗ることになる。

めざすは、東京大学。

クラスの半数が東大をめざすような学校だったから、当然、金子もそう思っていた。「でも、高1まで」と笑う。「上には上がいることを初めて知った」のもこの時だそうだ。
「それで、楽しくやろうと思って」。とある本にも影響を受けたそうだ。「遊びまくって、予備校に行くって内容で、純粋にそうかと思って実践しました(笑)。高校卒業後、きっちり新聞配達の奨学生となって予備校に行くんですが、こちらでも遊びまくり。結局、東大はおろか、大学進学もあきらめなければならなくなりました」。
大学進学を断念したのは、「パイロットになろうと思った」ことも関係する。しかし、パイロットになるための倍率は大学進学よりきびしい。4900人が受験して、合格するのは70人。つまり70倍の狭き門。
「これが、なんと合格するんです。でも、入隊の直前、新聞配達の最中に事故に合い足首を粉砕骨折。夜行列車で山口まで行き入隊検査は受けたんですが、最終関門でアウト(笑)」。
次年度も果敢に狙おうとしたが、年齢制限に引っかかってしまったそう。
「それで、もう一度、予備校に行きましたが、7月に一般隊員として海上自衛隊に入隊しました。海上に思いを馳せたんですが、私が配属されたのは市ヶ谷。オペレーターという仕事ですが、まぁ、雑用係のようなもんです。なんだか、ガッカリでしょ」。
一時は、東大に入学し、エリートコースに乗るはずだったが、いつの間にか片隅に追いやられた感じである。市ヶ谷の次には、六本木の防衛庁に異動。24時間勤務し、開け休みもいれて3日間休み。「手取りは12〜13万円。休みが多いから全部、飲み代で消えてしまいます。昇級試験も受けたんですが、勤務態度が悪かったからか、全然通らない。そのうち、鹿児島にある喜界島に異動になるんです」。「なんにもないところで。できることといったら飲むぐらいですね」。その喜界島で、自衛隊を退職を決意することになる。

飲み歩きの、報酬。

「当時、飲み歩いていたこともあって、『BARでもやろうか』と漠然と考えていました。自衛隊っていうところは、次の就職先が決まっていないと辞めさせてももらえない。それで、レインズに就職しました。自衛隊を辞めると決めて、次の道が開けたという感じです。ともかく私の飲食人生が幕を開けます」。
しかし、その道はけっして平たんではなかった。
「3ヵ月は本社研修と聞いていたんですが、3日目に店長の辞令が下りました。中野新橋の店で、何の経験もない私がいきなり店長です。周りはアルバイトばかり。アルバイトといっても、私より経験があるわけですから、彼・彼女らに頼るしかない。毎日、なにがなんだかわからず、右往左往するばかりです(笑)」。
「結局、半年で退職しました。たいへんだったこともあったんですが、私が学びたかったのは、仕入れや流通。レインズでは、ホスピタリティやマネジメントは学べましたが、それ以外は無理だなと判断して、退職するんです。『仕入れや流通』が経営のポイントだと思っていたからです」。
さすがかつての秀才である。本質をズバリ見抜いている。この時にはすでに飲食店で独立しようと思っていたそうだ。独立に向け、金子は動き出した。
「まず青果市場です。1年半いて、裏事情もたくさん知ることができたし、流通のルートをつくるノウハウも盗めました」。「勉強になることばかりだった」と金子は言う。「次は水産関係の会社でアルバイトを1年〜1年半しました。勉強のかたわら独立資金を貯め始めたのもこの時です」。
貯めると決意してからは、昼も、夜もなくなった。とにかく、アルバイトに明け暮れた。
夜中は運送会社で仕分けのアルバイトに精を出す。
「休みは全然ありません。月収70万円くらい。500万円くらい貯蓄することができました」。

4坪の小さなBARと立ち呑み店。

貧乏だった。だからと言ってだれも手を差し向けてくれない。天才と言われたこともあったが、レールを外れれば、意味がない言葉でもある。それでも金子は、振り返らない。「まっすぐ」。この言葉が似合う人なのだ。
「家賃は、4坪で14万円。保証金100万円、内装には50万円かけました」というのは、独立1号店の話である。たまたま武蔵小山を歩いていた時に、みつけたそうだ。「1号店は、自衛隊の時の先輩といっしょに始めました。念願のBARです。その店の10メートル先に、これもたまたまですが、引っ越ししようとしているお店をみつけて」。
そこで、今の黄金スタイルの立ち呑みがスタートする。4坪の小さな間取りである。家賃は9万円。そこにのんべぇたちが群がった。
立ち呑みが好きだったんですか?と聞いてみた。金子の年代で立ち呑みというのは、ピンとこなかったからだ。
「全然、だめなほうでした。お酒は好きだったんですが、一人じゃ立ち呑み店に足を踏み入れることすらできなかったんです。だから、立ち呑み店をやろうと思った時に、まっさきに思いついたのが、一人でも入りやすい店づくりです。料理は昔から好きで、料理本も実は数千冊持っているんです。メニューは仕入れありきで、毎日数種類ずつチェンジしています」。
これが、「晩杯屋」の始まりなのだが、どうすれば、あの価格帯を実現することができるのだろう。「『売るチカラ』より『買うチカラ』がうちのパワーです。私が、青果市場などで手に入れたノウハウを活かしています」。
といっても、たいへんだ。毎朝、市場から仕入れたものでメニューをかえる。口でいうほど、たやすいことでもないだろう。しかし、金子はそれを楽しんでいる。
「多いときは、1日10回転します」と金子。追随できるライバルはいない。「晩杯屋」を包む熱気が、ライバルなしの言葉を裏付ける。
「値段を下げると、客の質も低下します。むろん、その対策も、すでに出来上がっています」とのこと。
最近、家呑みなんて言葉も流行っているが、その時の気分で、好きな料理をチョイスし、しかも、1000円でお釣りがくる。となれば、家でやるより旨かろう、安かろう、という気がする。のんべぇがつい足を向けてしまう理由は、そこである。

喧騒とやすらぎに包まれている。

最後に今後の展開についても伺った。 「基本は『晩杯屋』ですね。FCとかそういうんじゃなく、社内の独立組で広げていくというイメージです。モチベーションアップのためにも、頑張っている社員に城を持たせてやりたいんです。海外志向はもちろんあります。東南アジアに狙いをつけていますが、こちらは、『晩杯屋』ではなく、和食のブランドで勝負するかもしれません」。
まだ7店舗である。しかし、その可能性は、「大」とみた。正直な話、「晩杯屋」なら何十店舗あっても歓迎、というのがのんべぇたちの総意だろう。東南アジアの人たちも、待っているかもしれない。
「生活力」がいつの間にか、「経営力」に置き換わった。金子の話を聞いて、そういう置き換えもあるんだな、と思った。
奇をてらわず、できることをまっすぐやる。子どもの頃、暮らしていたプレハブ小屋ではないが、奇をてらわない小さな立ち呑みは今日も喧騒に包まれている。案外、兄妹7人が寝起きした小さな部屋の喧騒にも、似ているのではないかという気がしてきた。
そういう意味で言っても、たしかにだれにも真似できない、真似したくても真似できない「喧騒」と「やすらぎ」が、この店にはあるからだ。
 ちなみに、グルメの口コミサイトに何度も登場した言葉は「異常な価格」。
「経営努力」と評した人もいたが、大半の人は、「これで大丈夫なのか」と心配している。そう思っていただける、ありがたい店ができた。

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