Restaurant ALADDIN オーナーシェフ 川ア誠也氏 | |
生年月日 | 1955年1月11日 |
プロフィール | 宮崎県日之影町生まれ。高校卒業後、大阪の化学メーカーに就職。1年で退職し、調理師学校に進む。神戸などのレストランを経験後、渡仏のチャンスを掴み24歳で憧れのフランスの土を踏む。フランスでの修業は9年に及び、一流のフレンチシェフとして帰国。「オー・シザーブル」の料理長を5年勤めたのち、38歳で独立。「アラジン」を開業する。1994年、当時の人気番組「料理の鉄人」に登場し、ムッシュ坂井から勝利を収めている。 |
主な業態 | 「ALADDIN」 |
企業HP | http://restaurant-aladdin.com/ |
宮崎県日之影町、川アの父が椎茸の仲買人をしていた事からも想像できる通り、地図で観ても九州のかなり山奥にあった。この地に川アが生まれたのは1955年の1月11日のことである。3人兄弟の真ん中で、兄とは3歳、弟とは10歳離れているそうだ。
とにかく手に職をつけたいと思っていたと川アは言う。だから、中学を卒業し進んだのは工業高校。化学工学を専攻しプラスチックやゴム、灰皿などの製品等を作っていた。
その関係で、大阪にある工業ゴム会社に就職。技術部の見習いとして川アの社会人生活がスタートする。
故郷の日之影町から離れて、数百キロ。まだあどけなさも残る青年は、見習いとして周りから評価されるほど真面目に勤務した。
しかし、葛藤もなくはなかったそうだ。
「この先、40年もこの会社に勤められるだろうかと自問自答を繰り返していた」と川アは言う。
「迷っていたその時。鍋一つで色んな料理を作る中華料理店の店主を見て『これはいい!』と思ったんです(笑)。良い料理人になって世界中どこでも仕事が出来る。それで、中華の料理人になろうと決め、夏に帰省した時に父に相談しました。勿論、父は反対しました。それでも考えは変らず調理師専門学校に進んだんです。最初は中華料理を専攻し中国語も勉強していたんですが、学校でフランス料理と出会い、俄然、そちらに興味が湧いたんです(笑)」。
アルバイト先も洋食屋さんだった。中国語を勉強していたが、フランス料理に出会って、行くなら中国よりフランスだと思うようになっていた。
当時、フランスはどのような存在だったのだろう。いまよりも遠く、しかし、今よりも多くの人が憧れる国だったのかもしれない。
「フランスという響きも格好いいでしょ。パリ、リヨン、コートダジュール それで、ついに中華料理からフランス料理に転向しました。いつかはフランスへ。そういう夢も抱くようになっていました」。
と言っても、当時のフランスは、そう簡単に行ける国でもなかった。
調理師学校を卒業した川アは、大阪のとある洋食屋に就職するが半年で辞めてしまった。
「それから色んな料理店でアルバイトをしました。それでいいと思っていたわけじゃないんです」。
そんな川アにチャンスが巡ってくる。
「アルバイト先の料理長から銀座レカンの料理長を紹介して頂いたんです」と川ア。
そして早速、東京へ料理長に会いに行き、「フランスに仕事をしに行くにはどうしたらいいのか?」と質問をぶつけたそうだ。
そして数日後、銀座レカンの料理長から電話を頂き、神戸にオープンするフランス料理店で働く事になったのである。
「でもね。この店も一年間だけ。私の意志とは関係なくお店がクローズしてしまったんです。でも、この店で勤務したのは、正解でした。フランス帰りのシェフと出会えたからです。店を閉めたこともあって、彼は『フランスに帰る』というんですね。僕はまだまだ渡仏の準備が出来ていないので、紹介して頂いたフランス料理店で働きながら、貯金とフランス語の勉強を始めました。準備を始めて1年後、彼を頼ってフランスに向かいました。24歳の時です」。
調理師学校でフランス料理を初めて知ってから5年が経っていた。川アの腕も相当上がっていたことだろう。実際、渡仏して4日目から仕事を開始している。腕があった証だ。
「結局、フランスには9年間いました。想像通り綺麗な国でした。30歳を過ぎた頃から「フランスにいて、このまま50歳すぎ迄フランス料理店でシェフをやっているのかなと思ったんです。なかなかそういう自分がイメージできなかったんですね。ではどうするかと迷っている時に、オーナーのフランス人から『川アはフランスにいるよりアメリカに行ったほうがいいんじゃないか?』と提案されたんです。彼とはずっと一緒に働いていた仲でした。その時、彼はニューヨークのホテルプラザアテネの料理顧問をすることになっていたんです。それで私も彼と一緒にニューヨークに行き、そのホテルで勤務することを決意しました」。
日本からフランスへ、更にニューヨークへ。そのまま進めば、日本。世界一周である。スケールの大きな話だ。ともかく、川アの旅は、まだ終わらない。
「ニューヨークでは、日本人というだけで可愛がってもらえたんです。待遇も悪くなかった。ただ、何のために『ここにいるのか』。それがわからなくなってしまったんです。それで渡米した翌年の7月に退職し、もう一度フランスへ渡りました。そして、いったんリセットするつもりで日本に帰国したんです。フランスのアパートはまだありましたし、半年、1年でフランスに戻る気ではいたんですが…」。
いつのまにか、フランスは「行く国」ではなく、「帰る国」になっていた。
それほど、かの国で暮らしてきた川アである。料理の腕はいうまでもない。すぐに彼を頼って人が来た。
「最初は、岐阜で店をオープンするという先輩の手伝いをしました。ところが、その店に東京の『オー・シザーブル』という店のオーナーがわざわざ会いに来てくださって、『東京で仕事をしないか』と誘ってくれたのです。 迷いもありましたが日本に戻ってきたのは、日本で働くためではなく、考えを整理したかったからなんです。向こうのアパートを借りたままにしておいたのも、いずれ戻るつもりだったから。でも、考えを変えました。東京で一度働いてみよう。何年か働いて将来の事を決めようと。
そしてフランスに帰り引越しをして東京で生活をする様になりました」。
一方でいつかはフランスへという想いは一度胸に閉まっていたかもしれない。
川アは、1993年に独立している。38歳のことである。
「オー・シザーブルでは5年勤務しました。すごく人気のあるレストランで、昼も夜も大繁盛です。正直、休む暇もなかったですね。1日、1週間、1ヵ月、そして1年と、時間があっと言う間に過ぎていきました。そして5年経った時に、独立という道を本格的に進み始めることを決意しました」。
「そう、当時からここです」と言って、川アは店のなかを見渡す。「元々割烹料亭だったと聞いています。明るくて風通しも良くって『ここだ!』と思って契約したんです」。
長年、人気のフレンチレストランで料理長を務めていた川アがオープンした店である。今ならすぐにネットにも流れ、客が付いたはずだが、当時はそうもいかなかった。
「初月は150万円位しか売上が立たなかった。従業員は4名と僕。客が来ないから用意していた食材が無駄になる。それが何よりも腹立たしかったんです。従業員ももちろん食べさせないといけないでしょ。だから、行動に出ました。いろんな雑誌に店を紹介してくれるように頼んで回ったんです。それがキッカケとなりました」。
今は「隠れ家のような店がいい」と言う。実際、「隠れ家的」というキャッチフレーズを良く目にする。情報が氾濫しているから、逆に意味ある言葉となるのだろう。
しかし、当時は今と違う。どうすれば軌道に乗るか、川アは自ら方法を模索し、打つべき手を決めた。
そこが凄い。
川アは今、<どんな状況であろうと自分の力でやっていける道を持つこと。それが大切だ>と後輩や部下に語っているそうだ。悩みながら、自分の未来を模索し、自らの力で切り開いてきた川アならではの言葉である。意味することも深い。
川アはこうも言っている。「神様は自分を楽にさせてくれなかった。逆にそれがありがたいと思っています」。
誰にでも試練はある。その試練を乗り越えて、人は逞しくなる。料理人であっても、オーナーシェフであってもそれは同じ。
ともかく店は軌道に乗り、走り出した。
シェフ川アの名は、どのように広がっていったのだろうか。私たちが、その名を記憶するのは、やはり人気TV番組「料理の鉄人」で、ムッシュ坂井と戦い勝利したからではないだろうか。
「私が出場したのは、1994年のことなんです。実は、以前からオファーを頂いてはいたのですが、ずっとお断りしてきたんです。ただ、ある時、陳さんの対戦相手が急遽出場できないことになって私に代役の依頼が来たんです。で、ずっと断っていたこともあって、仕方ないかなと思ってOKしたら、今度は元々決まっていた人がまた急に出場できるようになって肩透かしをくらっちゃったわけです。その時、番組の人から『申し訳ないんで、好きな対戦相手を選んで頂いて結構です』と言われて。もうやる気にもなっていたもんですから、『じゃ、ムッシュを』ということで、坂井さんと勝負することになったんです」。
接戦の末、ムッシュを破った。審査員は食のプロではありませんから、きっとテレビ的な面白さで僕を勝たせたのでしょう。でも「いい宣伝にもなりましたよ。連日、お客様がいらしてくださいました。予約のキャンセルが出ても、5分後には空きがなくなるという状態でしたから」。
オープンして1年後のことである。シェフ川アの名はもちろん、店名「アラジン」も、広く知れ渡ることになる。もちろん、シェフ川アが作る料理の味も含めて。
最後にシェフ川アの言葉を幾つか並べてみる。
「不幸の始まりは人と比べることから始まる」
「幸せになりたければ、自分で努力しろ」
「できるだけいいものを選択するようにしよう」
「自分に必要なものを選択する自由がある」
「人が言っていることを鵜呑みにするな」
深く、思考してみれば川アが言っている意味まで分かってくる。神様が楽をさせてくれなかったというように、川アの人生は決して真っ直ぐではなかった。若くても料理の達人と持てはやされる今と比較すれば、遅咲きともいえるかもしれない。しかし、その歩みが緩やかなほど、人は強くなるものだ。
ホームページに書かれた一文を引用する。
<「私の憧れたフランス料理は、作る者の技術や感性を前面に表現するよりは、まず食べる人の気持ちを和ませるものではなかったか」。新しい調理技術や一皿の完成度、目新しさを追求した若かりし頃の反省の思いを胸に、1993年、「アラジン」はオープンしました。季節の食材に寄り添い、「あの時食べた料理をまた食べたい」といつまでもお客様の心に残るお料理をご提供して参ります。>
気取らない、飾らない。本質で勝負する姿がそこにある。
「いつまでもお客様の記憶に残るお料理を」。
料理人を志し、フランスという国と料理に憧れ、そして長い旅のなかで川アが追いかけてきたものは、この一言に尽きるのかもしれない。
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