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第480回 光フードサービス株式会社 代表取締役 大谷光徳氏
update 15/04/21
光フードサービス株式会社
大谷光徳氏
光フードサービス株式会社 代表取締役 大谷光徳氏
生年月日 1980年7月26日
プロフィール 19歳で、独立を志し、飲食業界に入る。インド料理店に勤務していた頃、京都の有名な焼肉店の社長からオファーを受け転職。24歳で役員に昇格。27歳で独立し、栄に<立呑み「大黒」>を開業。以来、「立呑みブランド」ナンバー1をめざし、陣頭指揮を執りつづけている。
主な業態 「立呑み焼きとん大黒」「立呑み魚椿」「立喰い椎名牧場」
企業HP http://www.hikari-food-service.jp/

サッカー少年、現実を知る。

「兄弟が4人。私は長男です。父も母も仕事をしていましたので、私が兄弟たちの面倒をみていました」と少年の頃を大谷氏は振り返る。
子どもの頃から成績が良く、生徒会では副会長。スポーツも出来、サッカー部ではキャプテンを務めていた。家庭では良き兄であり、学校では成績も優秀で、運動神経も抜群だった。
「高校は公立ですが、サッカーの名門校『愛知県立熱田高校』に進学します」。偏差値も高い。サッカーも名門だけあって、「名古屋グランパス」のユースからも数名入学してきた。とはいえ、大谷氏もサッカー推薦で進学した口である。
そう簡単に、負けるわけはないだろうと思っていたはずだ。
「ある意味、中学までが黄金期だった」と大谷氏は笑う。高校に進学すると勉強に全然、ついていけなかったからだ。「まじめに勉強しても、クラスで断トツの最下位」だったそうである。それだけではなかった。サッカーでも全くレギュラーにはなれなかった。部員数80名。ただでも、レギュラーになるのは難しい。
しかし、前述通り、推薦で入学しているし、中学時代には知事からも表彰された経験を持つ大谷氏である。「自信がないわけじゃなかった。でも…、例えばユース出身の奴らとは、雲泥の差。サッカーそのものが違っていた。それが、現実だったんです」。
自信があっただけに、挫折の色も濃くなる。サッカーは最後まで続けた大谷氏だが、高校時代を一口で言えば「ピザ屋のアルバイターとなる」そうだ。当時の大谷氏の思いが透けてみえる。
無論、ピザ屋のアルバイターにも進学の時期は来る。「当時は『教員』を目指していました。それで進学するなら都内の私立だと思っていたんです」。

もう、一つの現実。

現役の時は、上手くいかなかった。予備校に入学する。話は飛躍するが、予備校に入学して暫くした頃、大谷氏は、次のように思っていたそうだ。
「私は19歳の頃から独立を考えていました。言い方を替えれば『独立しかない』と思っていたんです」。
理由がある。「予備校時代。バイト先の女性と知り合って、進学を諦め結婚することにしたんです」。
相手は14年上の女性だった。小学2年生の子どももいた。彼女にとっては再婚だった。
「両親からは、大反対されました。しかし、私も逃げるわけにはいかなかった。2人、正確には義理の娘と、新たに生まれてくる赤ん坊を含め、4人の生活がスタートします。養っていくためには、独立するしかないと思っていたんです」。
生活は貧窮を極めた。「港区の家賃が一番安いエリアで暮らしました。生活はきつかったですね。私は、3つのバイトを掛け持ちして、月30万円くらいの収入はあったんですが、嫁さんが借金を抱えていたもんですから、それを返すと何も残らなかった。マイナスの月も少なくありませんでした」。
19歳の父は、もう一つの現実をみたに違いない。

23歳の、役員。これも、また現実である。

朝はガソリンスタンド、夜はスポーツジムのインストラクター。そして、メインが昼の「インド料理専門店」の仕事だった。とにかく、働いた。
2年経った頃、ある紳士から声を掛けられた。
「京都にある『南山』という焼肉店です。名古屋の展開がうまく行っていなくて、『南山』の社長が、私に声を掛けて下さったったんです」。
何が、評価されたのだろうか?
「インド料理店で、ナンの食べ放題やランチバイキングを仕掛けて、話題になっていたんです。それで私のことが耳に入ったんでしょう」。
オファーを快諾し、21歳で名駅の「南山」の店長となった。「店長」になっただけではない。大谷氏が店長となってから「南山」の業績は、急角度で上昇した。23歳の時には、すでに役員に抜擢されている。年収は1000万円を超えていたそうだ。
子どもも大きくなる。お金はいくらあっても、いい。大谷氏は、19歳で妻を養い、子どもを育てると決意した時、「野球選手になるか、医者になるか、社長になるか、それくらいしか思い浮かばなかった」という。
そして、「野球選手にも、医者にもなれるわけはないから、社長になろうと思った」と独立を志した背景を語っている。しかし、年収1000万円もあれば、独立というリスクを取らなくてもいいはずだ。
「まだ私も若かったんでしょうね。挑戦してみたかった」と大谷氏。「南山」では色々な経験もさせていただいたと大谷氏は今も感謝している。「肉についてはもちろんですが、店舗運営やマネジメント、求人、人材育成等、南山で学んだことが、今も私の原点となっています」と大谷氏。生産者とも、親しくなった。
「私は無類の肉好きなんです。だから、この仕事は天職だったんですね。美味しい肉を求めて生産者の下に足繁く通いました。それで親しくなっていくんですね」。
この時のネットワークが今の財産ともなっている。ともあれ、「南山」に入社して6年。大谷氏は「南山」を離れ、独立を果たす。まだわずか27歳のことである。

「立呑みブランド」ナンバー1をめざして。

「1号店は栄に出した」と大谷氏。「大黒」住吉店のことである。「10坪です。小さな店だけど、身の丈にあっていました。資金は1500万円。今ならもう少し安くできるんですが…。知らないこともあったから、いい勉強にもなりました(笑)」。10坪の店だが、バイトを入れ、3人でスタート。連日、繁盛し、初月から300万円を売り上げた。
「名古屋で立呑みっていうのは、殆ど無いんです。だから、最初は反対されました。ただ、結婚もそうですが、私の大事な一歩は、反対されてスタートするようなもんですから(笑)、『よし、やってやろう』と。もちろん、自信はあった。接客もそうですが、とにかく肉に自信があった。前職で、生産者の方とつながっていたおかげで、信じられない価格で、良質のホルモンを手に入れることができたんです。とにかく、めちゃくちゃ旨いんです」。
むろん、大谷氏が「生産者たちの心を動かした」から実現できた話である。「生産者を大切にし、直接、仕入先に出向いて食材の勉強をする」ことを心がけてきた大谷氏だから、作り上げることができた関係だったとも言える。
ともあれ、旨くて、安い。名古屋人たちも、たまらず押しかけた。「これなら、立呑みもいいじゃないか」と。「利益も、相当な額になった。それで、1年後に金山に2号店を出店します。トントン拍子と言えば、そうですが、天狗になって失敗したこともなくはないんです(笑)。それでも、2015年現在で言えば、なんとか直営だけで10店舗を達成できそうなところまできました。目標は、2020年に100店舗。名古屋ではなく、日本で立呑みナンバー1を目指します」と大谷氏。
若者たちへのメッセージは「死ぬほど働け」である。むろん、大谷氏も、100店舗となるまで「死ぬほど働く」決意である。ちなみに、結婚と同時に抱え込んだ借金は、返済した。「返済して、ようやく貯金ができるようになった」時のことは今でも忘れない。
人生は、つくづくわからないものだ。もし、19歳で、結婚していなければ…。もし、結婚しても、悠々自適な生活が送れる環境だったら…、どうなっていたんだろう。
ところで「立呑み」は、いい。客同士の距離感も、店主との距離感もあつくるしいほど近い。それがいい。この記事を読んだ「大黒」のファンたちは、店主、大谷氏との距離をさらに縮めるに違いない。

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