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第481回 株式会社リープ 代表取締役 寺田哲也氏
update 15/04/28
株式会社リープ
寺田哲也氏
株式会社リープ 代表取締役 寺田哲也氏
生年月日 1968年10月3日
プロフィール 横浜市で生まれる。2人兄弟の長男。高校時代、父親を亡くし、大学進学を断念。美容師の道に進むため専門学校に進学。卒業後、より早い独立の道として、飲食に方向転換。3年で700万円を貯蓄し、10坪の小さなBARを開業する。現在、創業店でもある「BAR HASHISHI」をはじめ、お好み焼&鉄板料理「SABOTEN」など7店舗を経営している。
主な業態 「SABOTEN」「HALF MOON」「HASHISHI」「Caffs」「蕎麦の実」「T.T BREWERY」
企業HP http://www.leap.co.jp/

横浜、生まれ。

寺田氏は、1968年10月3日、横浜市に生まれる。父親は、コンピュータ関連の会社に勤めるサラリーマン。まだホームコンピュータと言われた時代で、「赤く巻いたテープ」が記憶メディアだったそうである。「親父が持って帰ってきたテープを投げて遊んだ」と寺田氏は笑う。
兄弟は2人。5つ離れた弟がいる。裕福な方ではなかったものの、年に1〜2回は泊りがけで旅行に出かけた。「清里とかですね。親父が好きだったんだと思います」。スキーもした。コンピュータに、スキー。お父様は、流行にも敏感だったのかもしれない。
中学になると、寺田氏はサッカー部に入った。サッカー部は硬派な人間が集った集団のような存在だった。
寺田氏自身、「荒れていた時代もあった」という。硬派だったというから、ケンカも良くしたのだろう。中3になるとバイクにも乗った。母親が寛容で、寺田氏の家には仲間たちが集ったそうだ。
「文字通り、硬派な生き方をしていたつもりだったんですが、3年生頃になって卒業した先輩たちを観ていると、みんな段々と軟派になっていくんです(笑)サーフィンをはじめたりして、髪の毛も徐々に長くなっていく。そういうのを観て、私も感化されていったんでしょうね。高校に入ると、さっそくサーファーの仲間入りを果たします(笑)」。

波が寺田氏を呼んでいる。

「湘南工科大学附属高等学校」という名称。寺田氏の出身高校だ。JR辻堂駅から徒歩で15分。高校名から想像できる通り、湘南に近い。サーフィンのメッカだ。
地図で確かめてみると、駅からほぼ真っ直ぐに海岸線まで道が続いている。「毎朝、波に乗った」と寺田氏は言う。登校に、この道を通ったのだろうか。
「高校に進学して、すぐに色の黒い奴を探しました。するとすぐに真っ黒な生徒2人がみつかりました。私が睨んだ通り、彼らは2人ともジュニアの大会にも出場しているようなサーファー少年だったんです。彼らからサーフィンを教わりました。しかも、うち一人の家に居候を決め込むんです(笑)」。
夏だけではなく、冬も海に向かった。水温も低く、すぐに凍てついた。だが、おかまいなしだ。なんでも台風の前がいいらしい。「台風の前、低気圧が入ってくる時が最高なんです。最高と言っても、最高に気持ちもいい反面、最高に怖いんです」。
ダブルヘッド、トリプルヘッド。巧く乗れば、4メートルも上空に持って行かれるそうだ。「落ちたらタンコブじゃ済まないですよね。でも、それがたのしい」。
怖いのに、楽しい? スリルもまたサーフィンの一部なのだろうか。ともあれ、波に揺れ、硬派な中学時代とは違う、バラ色の高校時代が過ぎていく。
学校の成績は2年までは良かった、と舌をだす。
「というのも、私の前に田中くんという秀才が座っていたんです。テストの時は『あいうえを順』で座るから、毎回、寺田の前は田中(笑)。で、後ろから田中くんの右の腹をつつくと、右側に答案がスッと出てくるんです。そのおかげで、3年までは成績優秀だったんですが、田中くんと離れ離れになった3年の成績は言うまでもなくボロボロです(笑)」。
飲食店でバイトしたのは、この頃が最初ですね。藤沢駅のデパートに入っているような店や、そうプールバーなんかでも、バイトをしました」。

大学進学断念。美容師の道へ、寺田氏の決意。

楽しいことばかりだった。だが、突然、父が倒れ、亡き人になった。「ぜんぜん元気だったんですが…」と寺田氏。まだ、若く、49歳だったそうだ。
「父からは子どもの頃から、大学に行けと言われていたんですね。で、父親の会社に入れって。父親は『これからコンピュータの時代だ』というのが口癖でした。だから、息子にもコンピュータの道を進ませたかったのでしょう。幸い、弟はいま富士電機で働いていますので、父の思いは少しかなかったと言えるかもしれません」。
ただ、寺田氏は違った。長男という思いもあったのだろう。大学進学を諦め、美容師になるため1年制の専門学校に進んだ。生徒の8割が女子。悪くない選択だった。
「でも、20歳の時かな。美容室で働いていたんですが、この道で独立するにはずいんぶん時間がかかることがわかるんです。そんなに悠長にしているわけにもいかないんで、よし、だったら飲食だと舵を切るんです」。
昼間はクレーンのオペレーターをした。夜になって飲食店で勤務する。日曜は、とある運送会社が運営する「引越しセンター」の前で並び、引越しのバイトを手に入れた。1日6000円。このバイト料だけ自由に使うことにした。それ以外は? と伺うと「全部、貯金」という答え。
詳細を聞くと、「毎月、母親に10万円、自分で25万円貯めていた」そうだ。むろん、計画通りにはいかなかった月もあっただろうが、それでも「3年でおよそ700万円貯まった」という。母親が寺田氏の貯金通帳を観て、驚いたのは店を始める少し前の話。

息子の本気に、母も応えた。

「当時は、実家に住んでいました。私の部屋には、いろんな構想が貼られていました。お店の具体的なレイアウトも貼ってあった。なにしろ、追いかけて3年ですから」。
「そんな、ある日のことです。その頃は母親も不動産会社で事務をしていたんですが、その母の紹介でいい物件があるのを知るんです。しかし、700万円じゃどうもできない。当時はまだバブルでしたから、10坪でも保証金だけで800万円もしたんです」。
「母親は、私にそんなお金はないだろうと思っていたようです。母親に毎月10万円も渡していましたから。それで貯金通帳をみせたら、びっくりしたんでしょう。『あんた本気だったんだ!』と絶句して(笑)。そりゃそうですよね。中・高といいかげんな私をいちばん近くでみてきた人ですから」。
息子の真剣さに打たれた母親は自身の貯金を担保に、銀行から融資を受けろと提案する。融資してもらったのは1000万円。保証金のほかに内装にも600万円かけたので、運転資金に残ったのは、預金を含め200万円程度だったそうだ。
ともあれ、母の後押しもあり1991年、寺田氏は初の店舗「BAR HASHISHI」をオープンする。「雑居ビルのなかにあったのでわかりにくかった。一見さんは、ぜったい入ってこないような店でした(笑)」。 
代わりに、地元の友人たちが入れ代わり立ち代わりやってきた。そのおかげで、いちおうは繁盛した。「初めて友だち以外のお客さまが来たのは、オープンして1ヵ月くらい経ってから」と寺田氏。
「その時はたいへんで、『だれのツレだ』って…。お前か、あいつのか、みたいな。一時騒然となったくらいです。で、一見さんだとわかると急に大人しくなって。ちょっとそのお客様には、悪いことをしました」。
それからは一見さんも増え、友だちの紹介でも客が増え、客のリクエストに応え営業時間を朝の5時まで延長すると客層も広がった。連日、満席である。
家賃12万円の店で、月商は350万円を超えた。大半は、酒代である。利益率も高かった。すぐに、23坪の店を出店することになる。

お金は、「使う」もんじゃなく、「配る」もんだ。

2店舗目は1993年に出店する。店名は「HALF MOON」。食べられるレストラン・バーにしたそうだ。保証金はあいかわらず高く1800万円。これを値切って1300万円まで下げてもらった。「物件のオーナーが以前、働いていた店の社長だったんです(笑)」。この店も繁盛する。
更に2年後の1995年7月「twiright」を出店。同7月、有限会社リープ設立。翌1996年10月「style」出店。同月<お好み焼&鉄板料理>の「SABOTEN」もオープンしている。まさに快進撃である。
だが、どれほど心が弾んだのだろう。というのも、一方で、好調な飲食事業を上回る、正確に言えば、楽で儲かる事業を開始していたからだ。そちらが儲かれば儲かるほど、飲食店から気持ちが離れていったに違いない。
「知り合い3人で美容室の床を掃除する薬を開発し、販売したんです。これが、バカ当たりします。最初は3人で細々と薬品をつくっていたんですが、そのうち手が回らなくなって、本格的に工場に生産をお願いするまでになるんです」。
「とにかく、美容室に商材を卸している大手商社を押さえたのが大きかったですね。そこから毎日、大量の注文が入りました。その注文を工場が処理し、生産から出荷まですべて代行してくれるもんですから、私たちは何もすることがなくなりました。なのに、日々、莫大な金が入ってきます。あの頃は、お金は使うものじゃなく、配るものだと豪語していました」。
常連の店に行くと、ボーイが万札を千円札に替えてくれる。女の子に、その千円を配って楽しんだ。
「段々、自分の店から足が遠ざかっていきました」。
ところがある日、工場から「取引停止の通知が来た」という連絡が入った。
3人のうち1人が、裏で商品を流していたのが、発覚したのである。

もう、一度。飲食の戦士へ。

「取引を停止されたら、仕方ありません。もう1人と残っていたお金を折半して、会社は畳みました。そして私は、もう一度、飲食の方に力を入れる決意をするんです」。
ところがそう簡単にはいかない。
「その頃にはお店のほうも、さすがに業績が落ちていたんです。経営者が違う方向を向いているんですから、うまく行くはずがない。でも、もう一つで儲かっていましたから、補てんできていたんです。ボロ儲けしていた頃は、いたくもかゆくもなかった。しかし、それもできなくなったわけで…。とにかく、もう1度挑戦だ、と開き直るしかありません」。
2度目の挑戦である。
しかし、売上不振の店ばかりである。そう簡単に元には戻らない。寺田氏が「もう一度」と決意しても、それまでの姿を見ていた社員が素直に従えるはずがない。手元にある資金は、例の会社を畳んで折半した1400万円のみ。決意を示すためもあったのかもしれない。その金で攻勢に出た。
2003年10月に「kai-getsu」を出店する。起死回生。売上は好調だった。2005年10月、「SABOTEN」の2号店となる東田店をオープン。2008年にも「SABOTEN」新宿店を出店する。寺田氏の覚悟を知ったスタッフたちも、息を吹き返したように活躍を始めた。そんな部下のために、寺田氏は、独立も支援した。
いままで寺田の下からは14人の独立経営者が誕生しているそうだ。
むろん、飲食でボロ儲けはできない。だが、そのおかげで「お金は配るものではなく、使うもの」という普通の意識に戻ったに違いない。
使い方も心得ている。
社員の独立支援のためにお金を使う。出店だけではなく、より永続的な発展のための投資も行っている。それが、いまの寺田氏である。
その投資の一つとして、ビールメーカーを始めたそうだ。
「オリジナルのビールを出そうと思って。それで免許も取得しました。そうなると構想も膨らんで、たとえば他の店の『オリジナルビールを製造しましょう』ということになって、いまそれに取り組んでいます」とのことである。「小ロットでも対応するというのが強みだ」そうだ。
1991年。飲食に進むと決意して3年。23歳の1人の青年が念願の一歩を踏み出した。それからすでに20年以上が経過している。青年は、大人になり、壮年の域に達している。
それでもまだまだ発想は豊かであり、行動力も旺盛だ。「ビールメーカー」へのチャレンジも心が若くなければできないことだろう。大手メーカーではつくれない旨いオリジナルビールが街中に登場する、その日が待ち遠しい。

思い出のアルバム
 
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