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第483回 株式会社サードプレイス 代表取締役 岡山浩之氏
update 15/05/19
株式会社サードプレイス
岡山浩之氏
株式会社サードプレイス 代表取締役 岡山浩之氏
生年月日 1975年4月2日
プロフィール 東京都豊島区生まれ、練馬区育ち。小さい頃から野球が巧く、中・高と野球一色。早稲田大学進学後も野球を続け、念願の早慶戦にも出場。卒業後は、大手出版社の「集英社」に入社。数年後、仲間と4人で起業するも、1年数ヵ月で離脱。29歳の時、父が経営していた会社が経営不振に陥り、友人たちから出資を募り、1つの店舗を譲り受け、飲食業を開始。これが、岡山の「飲食の戦士」としての第一歩である。
主な業態 「築地 魚一」他
企業HP http://3rd-p.com/
全盛期には5店舗くらいの店があった。父が経営する飲食店の数である。「もともと父は、従業員だったんですが、やがて社長になり経営を引き継ぎます。そのうちの1店舗が、いま私が経営する『築地 魚一 江戸川橋店』の前身です」。
親子二代、飲食の道を進むことになるのだが、もともと岡山に「飲食」という選択肢はなかったそうだ。そもそも三男。ふつうは2代目となることもない。では、どのようにして、岡山は、「江戸川橋店」の店主となったのだろうか。

野球選手に憧れて。

岡山が生まれたのは1975年4月2日。豊島区で生まれ、練馬区で育った、というから根っからの東京人である。3人兄弟の末っ子で、学校の水泳記録を塗り替えた兄2人ほど速くなかったが、運動もでき、勉強もでき、野球も巧かった。「早稲田実業学校中等部」に進学したのも、いずれ「甲子園」「プロ野球」という目標があったから。
「中学も、高校も男子校です。浮いた話はぜんぜんない(笑)。とにかく野球漬けです。私はエースで4番。当時、同じ区に強豪校が2校あって、期待はされていたんですが、都大会には進めませんでした。粒揃いだったんですが、チームワークがバラバラだったんです(笑)」。
中学から高校へは、100%進学できるそうだ。ただし、「早実」の2文字に惹かれた、多くの優秀な生徒たちが外部からも進学してくる。野球もまた同じである。
「私たちが中学でやっていたのは軟式です。硬式ではシニアという組織があって、そこから、推薦で凄いのが入ってきます。先輩たちも凄くて、最初は、先輩らが放るボールが見えなかったくらいです」。

早稲田実業、入学。

「ボールが見えねぇ」。岡山はそう呟きつつも、白旗は絶対、挙げなかった。「負けねぇぞ」。同期の部員は16人。2年の春の大会にはいち早くベンチ入りも果たした。しかし、この大会では指揮官がおらず1回戦コールド負け。早実の野球部の歴史のなかでも記録的な大敗を喫することになる。
「それまで監督をしてくださっていた和田明監督がお亡くなりになって、一つの歴史が終わったんです。一方、当時、東東京では帝京高校が頭一つ抜けていて、甲子園でも優勝していたもんですから、『あそこには、勝ってこないよな』ってムードが蔓延していたんです。そのムードが試合にも出たんでしょう」。
いつまでも、指揮官不在というわけにはいかない。代わりに登場したのは33歳の熱血指導者だった。
「新任の監督も、和田監督の教え子の一人だったそうです。そりゃ、熱い人で、とにかく最初はみんなボコボコにされました。巧くて調子に乗っている奴は特に、ね。で、その監督がいいます。『オレたちは、日本でいちばんの帝京高校を倒さないと甲子園には出られない』。もっともな話です。だから私たちもうんうんと頷きました。でも、次の一言に愕然としたんです。『だから、日本一の練習をするんだ』って。オイオイ、マジかよです(笑)」。
日本一の猛練習。成果は、すぐに出た。秋の公式戦で、次々コールド勝ちをおさめていく。「とにかくみんなバカスカ打って。私は5番で4割打っていたんですが、それでもチームでビリから2番目でした」。
いつの間にかチームに自信が溢れるようになる。「帝京にだって負けない。負けるわけがない」。そんな気分にもなっていた。しかし、最後の最後で、勝負の女神がほほ笑んだのは、相手チームのほうだった。
「あとひとつ勝てば甲子園だったんですが、日没コールドで敗戦しました。え、そんなルールってあるの?って感じです(笑)」。
試合には負けたが、もう心は折れなかった。
「最後の夏の大会まで、まだまだ鍛えることができる」と思ったから。

大学時代。

「熱血監督との出会いもそうですが、高校時代は、私の人生のなかで大きな意味を持つ3年間だったと思います」と岡山はいう。
その高校時代、岡山は、いくつかのことを心に決めたそうだ。
「ひとつは、高校時代は、野球だけを真剣にやろう、と。もうひとつは、『負のオーラ』をださないようにしよう、ということです。『負のオーラ』は、私のいけないところで、当時は、何かにつけ、すごく短気で周りに当たり散らしていたんです。だから、そういうのをやめようと。それからです。人に対して怒らなくなって、人付き合いもずいぶん違うようになっていきました」。
「今でも怒らない」というからある意味、凄い決意である。
ともあれ、高校時代も野球漬け。
真っ黒になりながら、白球を追い続けた。ところが、最後の最後、岡山はもう一つの試練を受けることになる。 帝京高校との試合。シーソゲームで、9回裏。1点入れられて同点にされてしまったが、この回を切り抜ければ、延長戦に突入する。その時、岡山はレフトを守っていた。背番号は「1」。エースナンバーを付けた岡山が守るレフトに白球が舞い上がった。誰もが、これでスリーアウトと思った瞬間、ボールがグラブから零れ落ちた。
「結局、それで逆転され、サヨナラ負けになってしまいます」。岡山は頭を抱え込んだ。「すべてを終わらせてしまった」と思ったからである。
しかし、このミスから逃げることなく、早稲田大学に進んだ岡山はやはり野球を続けた。早慶戦。憧れのグランドにも立った。
 4年間もまたあっという間に過ぎた。「大学時代もいろいろな経験をしました。凄い選手もたくさん見ました。実力は及ばなかったかもしれないが、密かに2年くらいまでは、いつかプロへと思っていました。しかし、この4年間で、できない自分を認められたというか、できないことにも、ちゃんと向き合えるようになったんだと思います」。
苦労もした。限界も感じたことだろう。しかし、それらを受け入れることで、岡山は更に強くなったはずだ。

集英社、入社。

同期は21人だったらしい。もともと広告代理店を志していたが、縁がなく、出版関係に目を向けた。縁があったのが「集英社」。ご存知の通り、少年ジャンプなどの出版社だ。
「私が配属されたのは、女性雑誌のほか、『プレイボーイ』などの流通の担当です。発行部数の計画を立て、それだけの部数を流通させるというのがミッションで、正直、つまらなかった(笑)」。
「その頃はもう、野球バカは卒業していたんで、女の子とかとも遊びますよね。『出版社』なんて、いえばかっこいいだろうな、くらいのノリで就職したんです。でもね。担当した仕事も、仕事だったんで、ぜんぜんやる気がでないんです。それでも給料は高い(笑)。そういうぬるま湯が、だんだん我慢できなくなって、それで、そうですね、3年半で退社。仲間4人と会社を起ち上げました」。
「うち1人は、中学時代の野球部のキャプテン。上場企業の役員にもなった奴です。彼もスピンアウトし、私も含め残り3人で惣菜店をオープンします。『中食』という言葉が出てきた頃で、将来性があるだろうと思ったからです」。
しかし、そううまく行くほど社会は甘くない。「私は結局、この会社も1年3ヵ月くらいで退職します」。

アンダーグラウンド?

いったん一つの流れに乗ると、なかなか軌道修正もかなわない。会社は辞めたが、むろんすることも決まっていなかった。
「寄り道もいいかなって思っていたんですね。で、その時、漠然と考えていたのが、IT。でも、コンピュータってぜんぜん知らないわけですよ。で、することもないし、データ打ちのバイトって文言に惹かれ、ある会社に応募するんです。たしかに、データ打ちで、IT業界と言えなくもなかったんですが。簡単に言えば、出会い系の…」。
最初は、すぐに辞めるつもりだったが、3ヵ月くらいした頃だろうか。社長に目をかけられ、それなりの規模だったにも関わらず、社長の次席とも言えるポストが与えられた。
「割り切れば、悪い会社ではないんです。べつに、法律を破っているわけでもないし(笑)。ただ、私自身はもっと人に喜んでもらえる仕事をしたかったんで、のちに新事業を社長に相談し、立ち上げたりもしました。それなりに充実したアルバイト生活だったと思います」。ところが、その生活にも終止符を打つ時がきた。

出資金をかき集める。

「親父の会社が経営不振に陥りました。私が聞かされた時には、借金が8000万円くらいになっていました。私が29歳くらいの頃のことです。『もう、無理だ』ってことで、話を聞いてみるとたしかに無理なところまで来ていたんですね。もうお金を借りる先もないし…。弁護士にも相談してなんとか自己破産は免れたんですが、結構な額面を私も払わないといけなくなった。それで、友人、知人をあたって」。
「うち1人が、飲食をしたいって昔から言っていたんで、じゃぁ、江戸川橋の店でやったらどうだ、って。そこを買い取るかたちにしたんです。で、彼から言われたのが、『オレじゃなく、お前だろ』って。たしかにそうですよね。よし、じゃぁやってやろう、と」。
これが、岡山が飲食に一歩を踏み出すまでの経緯である。むろん、その後も順風満帆の日々ばかりじゃなかった。店名も最初は「蕎麦居酒屋、悠遊」だったそうだが、ある人の助言により、いまの「築地 魚一」に改めている。
「今回、スリランカのコロンボという街に出店したんですが、これも、一つの決断というか。『やらないか』と言われ、『じゃあ、やりましょう』と。そういう目標が与えられると、強いんです」。
むろん実家のピンチは、クリアした。店舗数はいまや、スリランカのお店を含め、6店舗になる。会社は、まだまだ「小さい」けれど、「強い」というイメージである。これは岡山浩之という社長の強いリーダーシップのたまものだろう。
「応援される人になれ」、岡山がふだんスタッフたちに言う言葉の一つである。「応援される人」とはどういう人なのだろうか。いうまもなく、それは一つのことに打ち込み、真摯に向き合い努力する人のことだろう。
野球とはまた違うが、たしかに、応援される人になればれ、強く生きていける。いや逆か。人が応援したくなるような強い生き方をすべきだと、岡山は言っているのだろう。
かつて、神宮の森で浴びた声援。
その声援は、いまもたしかに岡山を支えている。そして、岡山はいまも人が応援したくなるような生き方を貫いている。

思い出のアルバム
 
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