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第486回 山田食品産業株式会社 代表取締役社長 山田裕朗氏
update 15/06/09
山田食品産業株式会社
山田裕朗氏
山田食品産業株式会社 代表取締役社長 山田裕朗氏
生年月日 1962年7月11日
プロフィール 埼玉県生まれ。国学院大学卒業後一般企業に就職し、経理畑を歩んでいたが、3年で退職。実家が経営する「山田食品産業」に就職したのは、この退職が引き金となる。平成8年、役員に選出され、平成18年、現在の社長職に就く。
主な業態 「山田うどん」「かかしのラーメン」「山田うどん食堂」
企業HP http://www.yamada-udon.co.jp/
埼玉県民のソウルフードなのだという。「山田うどん」のことである。一昔前まで学校給食にも利用されていたというから、あながち誇張した表現ではなさそうだ。
ところで「山田うどん」という店名だけを聞けば、いわゆる「うどん屋」を想像する。しかし、この店名、偽りありだ。というのも、「うどん」よりも定食など、うどん以外のメニューが豊富だから。メニューだけみれば、ファミリーレストランに近い。
とはいえ、各1人前という「うどん」と「丼」のセットメニューが代表するように、ボリューム満点。そのあたりが、ふつうのファミレスとは異なるポイントだ。
今回は、この「山田うどん」のルーツを探りながら、現社長、山田裕朗氏の半生を追ってみた。

「山田うどん」の始まり。

「『山田うどん』というのはね。もう、お客さんたちのなかでイメージがついちゃっているから」と言って笑うのは、4代目となる山田裕朗氏。
「イメージを打ち破るのが、なかなかむずかしい」という。「一度、似つかわしくないと思いつつ、パスタをやって大失敗。やはり、うちのお客さんはパスタを食べないことがわかりました(笑)」。
埼玉県人の胃袋をみたしてきた、県民のソウルフード「山田うどん」にも、やはり悩みの種はあるようだ。
「山田うどん」の1号店がオープンしたのは、昭和40年。昭和37年生まれの山田氏がもの心ついた頃には、「山田うどん」は「すっかり人気店になっていた」という。
「もともと所沢周辺は小麦畑だったんです。製麺所を造った曾祖父が、その小麦をつかって、うどんを作り卸したのが、うちの始まり。昭和40年頃になって、私の父親、つまり先代が『いいものをつくっても、スケールメリットには敵わない。どうせなら卸だけではなく店をつくって食べてもらおう』と始めたのが『山田うどん』。当時、うどんは1杯70円くらいだったんですが、『山田うどん』は1杯35円。すぐに行列ができるようになりました」。
1杯35円の山田うどんは、店舗数も、いっきに拡大する。
「いまでいうフランチャイズです。土地を持っている農家の人たちが、『うちにも、うちにも』といって、次々に『山田うどん』を始めるんです。FCという言葉もない時代ですから、ロイヤリティーもなし。ただし、『うどんはうちから』という契約だったそうです。親父が43年にアメリカに視察に行って、翌年から本格的にFC展開を開始します。店は加速度的に増え、最盛期には280店舗まで拡大しました」。
昭和40年代。上空からみれば、埼玉県内に「山田うどん」のキャラクターである<かかし>のマークが、加速度的に広がっていった様子がうかがえたはずである。
「絶好調だったんですが、昭和50年代になるとファミリーレストランが台頭してきます。それに対抗する意味で、うちも、うどん以外の、丼やカレー、またさまざまな定食を始めました。それを境に、それまでのFC店を直営に、順次、切り替えていったんです」。
単品だとオペレーションも簡単だが、メニューが豊富になると対応できないFC店が少なからずあったからだ。 また、この業態転換には、顧客の声も反映されている。「当時、うちの主力のお客さんは、ブルーカラーの人たちです。彼らが『作業着のままでは、ファミレスに入れない』というんですね。それなら、ファミレスに負けないような豊富なメニューをうちがだしてあげよう、と。そういう意味もあったんです」。
なるほど、庶民とともに歩く「山田うどん」の原点と言える話である。
ところで、昭和50年といえば、山田氏はもう13歳になっている。そろそろ、山田氏の話に切り替えよう。

偉大な父に反発する。

「キャッチボールは1〜2回くらいかな」と山田氏は言う。「旅行は2年に1回くらい。親父もいそがしかったんでしょう。当時は、たいへんな時期だったんだろうし…。でも、子どもには、そういうことまでわからない。私は、四人兄弟の長男なんですが、長男ということもあったのでしょう。とにかく、私には厳しかった。そういうこともあって、私は小さな頃から親父に反発していたんです」。
「父親のイメージは?」と聞くと、<昭和生まれの、明治男>という返答。「私が、物心ついた頃には『山田うどん』は、もう有名だったわけです。私が、その店の長男だっていうのも、みんなが知っている。そういうのがイヤなんです。だから、とにかく目立たないように、目立たないようにしていました。当時の友だちは、私のことを相当な引っ込み思案と思っていたんじゃないでしょうか(笑)」。
それでも、中学になると生徒会長もしている。野球部では、レフトで、1番。
「昭和50年には、ニューヨークにも出店するんです。私は、普通でいいのに、親父の会社は、どんどん大きくなっていってしまう。学校の先生も『山田のうちは、な。ニューヨークにも…』、なんて話をするんです。そういうのも、イヤだった。こっちが目立たないようにしているのにね」。
反発しながらも、山田氏にとって父は偉大な存在だったはずだ。しかし、その観点から、父親をみることはできない。むしろ、偉大と思えば、思うほど反発してしまっていたのではないだろうか。

「山田うどん」の長男、卒業。

「高校は、国学院大学の付属に進学します。都心のど真ん中ですから、それだけ埼玉から離れると、もうだれも『山田うどん』の息子ってレッテルを貼らない。だいたい私が『山田うどん』の長男だってことも知られていないわけですよ」。
気楽だった。「やっと、普通になれた」とも言っている。何でもやった。スキーやサーフィン、テニスもやった。高校のクラブは、水泳部。「同好会みたいなもんだった」という。高校2年の夏には1ヵ月、シアトルでホームステイもしている。
「大学も国学院に行くんですけど、大学を卒業する頃になってもぜんぜんうちの店に就職する気はなかった。親父も、何も言わなかったし。『山田うどん』から、ある程度の距離を保つのが、私の生き方になっていたんだと思います」。
山田氏は、言葉通り、大学を卒業しても店に入ることなく、とある会社に就職する。
「就職のためもあったんですが、いつまでも親父に反発しながら『負け犬の遠吠え』みたいなことをしていてもいけないなと思って、3年の時に経理の専門学校に通うんです。そういうのも評価されて、就職したあとは、希望通り経理部門に配属されます。でも、それがまたいけなかったんですね。それなりの大手だったけど、一族経営でドロドロしているというかね。経理だからとくにみえてくるんです。最初は、その会社で役員をめざしていたんですが、結局、3年で退職しました。この会社にいても未来がないと思ったからです」。

転職先は、「山田うどん」。

就職して3年、社会をみる目も多少かわってきたのだろう。
「社会」と「父親」が極めて同意語であったはずの山田氏にとって、それは、父親をみる目がかわったことを示していたとも言えるのではないか。
山田氏は、「山田うどん」に転職することになる。
「親父がどう思っていたかはわからないですね。直接、言われたことはなかったから。周りの人から間接的に、ね。で、一つだけ、『特別、扱いはやめてくれ』という条件をだして、『山田うどん』に入社しました。それが25歳の時です」。
「当時は、店舗数はまだたくさんあったし、従業員数も多かった。周りは、やりにくかったかも知れませんが、私はすすんで現場もやれば、工場の作業も経験しました」。工場というのは、入間に造ったセントラルキッチンのことである。
「会社に入っても親父とは、直接、話をすることはなかったですね。話すのは役員を通じて、です。私がその役員になったのは、平成8年です。経理部長が退職されたので、その後釜として」。
役員になったからには、社長である父親と会話しないわけにはいかない。しかし、父親は、ほかの役員、社員より、息子に厳しかったはずだ。そういう親子の関係を引きずりながらも、山田氏は、平成18年、社長に就任する。「親父が会長になって、私が社長になりました。とはいえ、親父は、まだまだやる気満々です(笑)」。
社長の席に座ったものの、発言力はやはり会長に分があった。「私にとって一つの転機となったのは、青年経営者セミナーに参加したことでしょうか。私とおなじ2代目、3代目の経営者が数多くいました。そういう人たちと接して、私は、何も特別な存在じゃないことを知るんです」。
父との邂逅は、それでもできなかった。
父親のカリスマ性に支えられ、父親の経験と勘によってつくりあげられてきた「山田うどん」である。しかし、山田氏には、それがもはや弊害としか映らなかったはずだ。未来はもちろん、すでに今現在、1人のカリスマ経営者によって、すべてのスタッフが動かされる、そういう時代ではなくなっていたから。

新たな「山田うどん」の船出。

山田氏の父親が亡くなったのは、平成24年のことである。
「まだ3年前ですね。突然といえば、突然でした。いままで父親がいたことで、私は、極端な話、反対、もしくは賛成していれば、それでよかった。でも、もう、舵を切る人がいなくなった」。
カリスマ性のある経営者が没した。社内の動揺を抑えるだけでも、相当な時間がかかったのではないだろうか。反面、山田氏のカラーを出しやすくなったのは、いうまでもない。経営も、経験や勘からマーケティング重視にスタイルをかえた。独断専行ではなく、多くのスタッフの声に耳を傾けるようにもしている。
それが、4代目、店主、山田氏の方法でもある。
現在、「山田うどん」は、166店舗(他店舗合わせて170店舗)ある。従業員数は、2500名にものぼる。むろん、人気は健在である。
むしろ、奇をてらわないソウルフード「山田うどん」は、いま改めて注目されていると言えなくもない。しかし、冒頭で山田氏が言ったように、イメージが定着しているがために、余計にハンドリングがむずかしい。
だれのための、「山田うどん」か。答えを探り出すヒントは、「だれのための山田うどんか」という発想かもしれない。
「かかしのラーメンっていう、ラーメン専門店があるんです。このブランドが弱く、赤字だったもんですから、うどんも、そばも、ラーメンも、ごはんも、フルオーダーできる、『山田うどん食堂』にモデルチェンジしました。これが好評で、売上は、2ケタ伸びています。このブランドのモデルチェンジも進めていきたいですし、駅前の小型店舗というテーマで、新たなブランドを実験的に出店していく予定です」。
もちろん、独断専行ではない。山田氏は、マーケティングを重視し、ブレーンとともに、意思決定を図る。
しかし、最終判断はいうまでもなく、今後は山田氏によって行われるはずである。
「損得なしで、人のために尽くせ」。
その時、父親が残した、この言葉が、最終判断を行ううえでの道しるべとなるのだろう。そして、その言葉の真の意味を知った時、山田氏は父を超えることができるのかもしれない。

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