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第487回 アイネットグループ 代表取締役社長 岩田純明氏
update 15/06/16
アイネットグループ
岩田純明氏
アイネットグループ 代表取締役社長 岩田純明氏
生年月日 1950年8月31日
プロフィール 滋賀県彦根市で生まれる。大学時代、大阪に住み、2年で中退し、上京する。音楽活動を中心にタレント生活を送るも6年でピリオド。32歳、滋賀県にてディスプレイ会社を設立。その会社を母体に、飲食事業を開始する。
主な業態 「豆乃畑」「丼こっこ家」「グリルdeキッチン」「かつ禅」「らーめん津津」
企業HP http://www.inet-g.jp/

1950年、彦根市、生まれ。

彦根市は、琵琶湖に面する滋賀県の主要都市の一つである。古くは彦根藩があり、京都周辺のなかでも有数の城下町だったそうだ。今回、ご登場いただいた岩田氏が、この彦根市に生まれたのは1950年のことである。3つ年の離れた兄が1人いる。
「私のうちは自転車屋さんでした。父はとても子煩悩な人で、裕福ではなかったですが、楽しく、仲のいい家族でした」。
「やんちゃで…。そうですね、人を笑わせるのが生きがいのような少年でした」と岩田氏。音楽も好きで、鼓笛隊に所属。いま振り返れば、その頃からタレント性があったのかもしれない。
「いつ頃だったかな。父は、ギャンブルかなにかで大きな借金を抱えるんです。うちにも、へんな人が取り立てにきたこともありました」。
そういう問題もあって、夜中になると両親が「取っ組み合いのケンカを始めた」らしい。兄と岩田氏は、その度に、飛び起き、小さな手で仲裁に入ったそうだ。
 「借金は完済して、問題はなくなるんですが、それでも父はパチンコが好きで、それだけは止められなかったようです。父だけじゃないですが、みんなハマっていた時代ですよね。父は、私がハタチを越えてから亡くなるんですが、今いちばん会いたい人です。私が大学で家を出てからほとんど話もしなかったから。あんなに私を可愛がってくれた人なのに…」。
 子煩悩な父の下で、岩田氏は、独立心旺盛な少年に育っていく。可愛がりながらも、束縛はしない。それが、岩田氏の父流の教育方針だったのだろう。

ヨット部。琵琶湖で風を受け、「チン」を繰り返す。

「中学はバトミントン、高校はヨット部です」と、中・高の頃に話は移った。特にヨット部の思い出は鮮烈なようで、今も、当時の様子が映像となって浮かぶ。
「雨の日も風の日も、ヨットに乗りましてね。そうですね。何度『チン』したかわからない。ヨットと言っても、私たちが練習するのは、琵琶湖。『湖』?だって思うかもしれませんが、波もけっこう高いんです」。
滋賀では、ヨット部のある学校が3校あったそうだ。岩田氏の学校は、頭一つ抜けていて、全国大会には決まって出場していたという。日焼けした、可愛いセールマン。高校3年まで、岩田氏は、そんな言葉が似合っていたはずだ。

シンデレラボーイのため息。

「このあと、私は大阪の大学に進学して、そちらを2年くらいで中退して、東京に向かうんですが、私の人生のターニングポイントは、そこではなく、高校3年の時なんです」。
高校3年の時に、近隣の近江八幡市の公民館で、ある歌手のコンサートが開かれたそうだ。「たしか、100円コンサートだった」と岩田氏。100円をにぎりしめて向かったコンサートで、岩田氏は人生をひらくカギを手に入れた。
「『岡林 信康』さんのコンサートでした。昔から、音楽が好きだったこともあったんでしょうが、すっかり、魅了されてしまいましてね。それからギターを独学で勉強して…」。
「昔のことだから」と言って、岩田氏は、はにかむ。ここから先の話は「詳しく言いにくい」という思いがあるようだ。
たしかに、インタビューの内容を忠実にトレースすると、有名人やアイドルの名前を次々と記載しないといけなくなる。
そういうこともあって、ここから先、ふたたび彦根に舞い戻るまでは、ざっくりと話を進めよう。
高校を卒業した岩田氏は、大阪の大学に進学。学費も、生活費も1人でまかなかったそうだ。バイトをしまくる一方で、ギターを抱えて、TVやラジオのコンテストなどに参加。あるTV局関連の人から「東京でやらないか」と誘われ、2年で大学を中退し、上京。大物スターも数々生み出した、伝説のTV番組「スター誕生!」に出場し、優勝する。
まるでシンデレラストーリーだ。
「今でも、私のことを覚えてくださる人がいるようです」。
華々しくデビューしたが、結局、レコードを5枚だし、楽曲も何本か提供して、ほぼ、岩田氏のタレント生活は終わる。
代表曲には「ダメおやじの唄」(作詞作曲/すみあきくん)がある。
シンデレラボーイは、スターだった時もあるし、そうでない日もあった。
「今でもね、あの時、こうしていたらもっと売れていたようなって、思いますよ」と言って岩田氏は、悔しそうに、笑う。
悔しそうな表情ができるのは、逆に後悔のない表れなのかな、と思ったりもした。

ディスプレイ会社、設立。

芸能生活からは、30歳手前でリタイアした。それからもしばらくは東京ではたらいて小銭をため、滋賀に戻る。
「滋賀にもどってラーメン店でもするか、と思っていたんです」。
ところが、いい物件がない。「それで、昔からアルバイトをしていた縁で、ある看板屋に就職しました」。そして、すぐに独立。
「やっぱりね。サラリーマンっていうのがイヤだったんです。独立心がつよかったんでしょうね。で、すぐに独立するんですが、これが、もう、たいへんな、日々の始まりだったんです(笑)」。
かがやかしい日々は、東京に置いてきた。滋賀でもう一度、ゼロからと思っていたが、「夜も眠れぬ日々がつづいた」そうだ。
「ディスプレイの仕事で、独立したのは32歳の時です。とりあえず軽トラを買って、軽トラに乗りながら、名刺を配りまくるんです。それで月に1件でも仕事があれば、食いつなげるのですが、その1件がいつあるかわからない(笑)」。
不安で、夜も眠れず、明日何をするかを考えているうちに、夜が明けたそうだ。「いよいよあかんとなった時に、平和堂という百貨店の仕事をいただくことになるんです。これがきっかけとなって、次々、仕事が入ってくるようになるんです。しかも、最初は下請けばかりでしたが、のちにはクライアントと直接やらせていただくようにもなったんです。多い時には40名くらいの従業員も使っていました」。
しかし、いい時ばかりではない。ディスプレイは広告にもつながるが、景気が悪くなると、広告はまっさきに削られるコストでもある。
「最初は、とても軽い気持ちだったんです。業績が、落ち込みかけていた時だったこともあって、『やってみるか』となったんです」。
それがラーメンFC店の始まり。1号店は、今も大津パルコにある「ちゃんぽん亭『総本家』」である。いよいよ岩田氏の飲食の戦士のストーリーが始まっていくわけだ。

自前流の生き様。

「年商は30億円くらい」と岩田氏はいう。創業のビジネスである「ディスプレイ事業」はいまも残っているが、すでに飲食ビジネスのほうが比率では上回る。
FC店からスタートしたが、今では自社ブランドのフランチャイズビジネスまで展開している。
ブランド数は、13。なかでも、岩田氏がイチオシという「フリースタイルレストラン(ブュッフェ)『豆乃畑(まめのはたけ)』」は、全国に22店舗も有している。「これからも、注力するブランドだ」とのこと。
 2015年の東京フランチャイズショーにも、「豆乃畑」で出展している。ともあれ、2015年で65歳になられる。いつのまにか飲食ビジネスの期間がいちばん長くなった。
ブラウン管の向こう側で歌ったあの頃が糧になったのか。軽トラで走り回り、眠れない夜を過ごしたあの頃が糧になったのか。
もしくは、何どもチンを繰り返したヨット部時代が糧になっているのか。
明確ではないものの、岩田氏の子ども時代からの旺盛な独立心が、いまをつくっているのはいうまでもないことだろう。
ただ、「独立心」と一言で片づけるのも、少し違う気がする。ギターも、楽曲にしても、ディスプレイも、飲食も、ほぼ、独学。
そこが凄い、と思った。
「自前流」。
いうなら、こんな言葉がぴったりか。

思い出のアルバム
 
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