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第490回 株式会社パートナーズダイニング 代表取締役社長 大藤充啓氏
update 15/07/07
株式会社パートナーズダイニング
大藤充啓氏
株式会社パートナーズダイニング 代表取締役社長 大藤充啓氏
生年月日 1963年7月29日
プロフィール 生後、6ヵ月で兵庫県に引っ越す。将来の目標はアメフト選手。関西学院大学に進学するつもりだったが、合格したのは関西外語大学。1年生を2回やり、中退。その背景となったのが、飲食のバイト。以来、飲食大好き人間となり、大和実業に就職。「人の大和実業」と言われた、当時の会社で薫陶を受け、頭角を現す。セラヴィリゾート、ヴィア・ホールディングスを経て、株式会社パートナーズダイニングを設立。2015年1月、社長に就任する。
主な業態 「北の家族」「ザ・ロックアップ」「アラビアンロック」「ビアカーニバル」他
企業HP http://www.partners-dining.co.jp/

スポーツ大好きな元気な子。

大藤氏が生まれたのは、1963年、昭和38年の7月。半年ほど経って、東京から兵庫県に移り住む。「兵庫県の尼崎市に父が工場を建てました。車の修理工場です。私たち家族は、西宮に住み、私はその町で大きくなります」。
父も、祖父も車の修理の仕事をしていた。「当時は、車の性能もそれほど高くないし、修理の依頼も多かったんでしょう。車検もまだ2年に1回だったし。だから、多い時にはうちにも、13人くらいのスタッフがいました。家庭は、それなりに裕福だったと思います」。
兵庫県の西宮市。住環境に恵まれている街である。「父は、酒が一滴も飲めなかったんですが、食道楽だったんです。私たち子どもも小さな頃から、外食の経験が多かった気がします」。父はドライブも好きで、母の実家がある東京へは、いつも車で向かった。長距離ドライブである。
「子どもの頃の大藤さんは、どんな人だったんですか?」と聞いてみた。「そうですね。落ち着きのない、元気な子。スポーツ大好きで、優等生だったと思います」。勉強も、「中学生までならできた」と言って笑う。
リトルリーグ、カブスカウトにも入っている。からだを動かすのが大好きだった。「中学の頃は、関学でアメフトを、と思っていたんです。だから、足を鍛えようと、中学は陸上部です。駅伝で、市大会や県大会にも出場しました」。

バイト先の店長は、現「すかいら〜く」社長、谷 真氏だった。

高校では、ラグビー部。少しだけ、アメフトにちかづいた。部員は30人。当時は、まだ「水は、飲むな」の時代。「ジャージに染み込んだ汗を吸ったこともある」という。たいへんだったが、逃げずに3年間やり通した。「関学で、アメフト」という思いが、あったからなのだが、1年目は、失敗。2年目も、不合格で、「関西外大」に進学した。「進学したのは、いいんですが、1年生を2回やって、卒業してしまいました(笑)」。2年間で取得したのは、たった6単位。キャンパスに立ったのも、わずか20回しかない、そうだ。
「理由は、サーフィンとバイトです。この時、バイトしたのが、宝塚にできた『イエスタデイ』というレストランです」。
「イエスタデイ」は、1980年代中頃にオープンしたアーリーアメリカン調のカジュアルレストランで、「すかいら〜く」の新ブランドだった。「その、オープンした宝塚店の店長が、いま『すかいら〜く』の社長を務めておられる谷さんだったんです」。
先輩たちにも、魅せられた。「とにかく、大好きだったんです。大学を中退して、ウエットスーツの会社に就職するんですが、それでも週に1〜2回は、『イエスタデイ』でバイトしていたほどです」。

大和実業、入社。

やるなら、飲食。そう思うようにもなっていたんだろう。多彩なブランドを展開する「大和実業」に転職した。「『イエスタデイ』でも、バーテンをやっていたもんですから、こちらでも、ワインバーを担当するようになります。飲食のたのしさは、『イエスタデイ』で学び、大和実業では『飲食の奥深さ』を学んだ気がします」。
当時の社長は岡田一男氏。「人の大和実業」と言われるほど、人に焦点をあて、人も、会社も育てた名伯楽であり、敏腕経営者でもある。
「社会人の基礎を学んだのも、大和実業です。先輩たちにも刺激され、特に最初に配属された店の店長には、いちばん大きな影響を受けたと今でもそう思っています」。
店長昇格から、快進撃がはじまった。「当時、年2回、優秀な店長が東西で各3人、選ばれ、東なら西へ、西なら東のエリアに行って成果報告をするんですが、私は、入社して最初の報告会、以外はすべて選ばれています」。
会社の評価も高い。飲食は、案外、「パッケージ」が大事だと思われがちであるが、大藤氏は、店長によって「前後20%は違う」と明言する。「パッケージ」が、いかに優れていても、「人不在では、店は成立しない」というのだ。
これが、氏のいう飲食の奥深さにも、つながっているのだろう。2002年、大藤氏は、セラヴィリゾートに転職する。

派閥ごとに違う、言葉。

「2002年9月、セラヴィリゾートが、『北の家族』を完全な子会社にするんです。そののち、正確には、2008年ですが、今度は、セラヴィリゾートがレストラン事業をヴィア・ホールディングス子会社に売却するんです。私もそれにともなって、ヴィアへ移ります。とにかく、いろんな意味でたいへんでした」。
当時のことを大藤氏は、こう振り返る。
「私は、『北の家族』の営業部長をしていました。何がたいへんかと言えば、風土というか、習慣というか、ね。そういうのを一つにするのが、なかなかたいへんだったと思うんです。何しろ、もともと『北の家族』にいたスタッフもいれば、『ヴィア』のスタッフもいる、私のように外部から来た人間もいて、それぞれ育った風土も違うんです。『北の家族』にいたスタッフなんて、もう目がギラギラしている。『絶対に、やる』という気持ちも伝わってきます。しかし、それがすべていい、わけじゃない」。
「共通の言葉がなかったのが、最大の問題」と大藤氏はいう。ともかくも、そういう異なる遺伝子を持ったスタッフたちを抱え、「北の家族」をはじめとした飲食事業は、新たな冒険を開始した。

2011年、事業を受け継ぎ、新会社としてスタートを切る。

「私たちが、会社を設立して、『北の家族』や『ザ・ロックアップ』を譲り受けたのは、2011年のこと」と大藤氏はいう。すべてを刷新するのが、狙いだったのだろう。
「当時の売上は、60億少し。社長をある方にお願いし、私は、取締役として営業に専念しました。会社がスタートしてすぐに震災が起こったものですから、一時はヒヤッとしました。まだ余剰金もなかった時ですから。しかし、それから2年で、『北の家族』同様、弊社の主力ブランドである『ザ・ロックアップ』を7店から22店に拡大。売上も80億円に達しています」。
「ザ・ロックアップ」は、監獄レストランと銘打つエンターティナーレストランである。非日常との遭遇など、いろいろなキャッチフレーズをつけたくなるレストランである。
スタッフの服装もユニークで、囚人服やポリス服などで出迎えてくれる。
 「業績は、けっして悪くはないですが、突っ走ってきた分、綻びもなくはないです。そいう綻びをもう一度、つむぎ直していくために、今年2015年の1月に私が社長に就任しました。今までもそうですが、何より大事なのは、『人』だと思っています。ですから、いままで以上に、人に焦点を当てた経営を行っていきたいですね」。
 目標は、「株式の上場だ」という。それも、またスタッフたちのためでもある。
「目立ちたがりで、スポーツ大好き、元気が取り柄」という少年が、いま、多くのスタッフの真ん中で、指揮を執っている。
 スタッフみんなの共有言語も、今はちゃんと、存在しているはずだ。

思い出のアルバム
 

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