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第491回 有限会社All for one corporation 代表 工藤哲也氏
update 15/07/14
有限会社All for one corporation
工藤哲也氏
有限会社All for one corporation 代表 工藤哲也氏
生年月日 1960年4月2日
プロフィール 埼玉県鳩ケ谷市(現、川口市)に生まれる。運動神経に恵まれ、背丈も高く、中学から始めたバスケットボールでは県大会にも出場している。セレクションを受け、インターハイ常連校の「明大中野高校」に入学。夜間の大学に通いながら、夜の銀座、六本木を根城に数年間、生活する。25歳、鳩ケ谷に戻り小さな惣菜店をオープン。これが、飲食の戦士の第一歩である。そして、2001年4月1日に「まる玉」オープン。国内はもとより海外にも広く展開し、2015年5月現在、国内4店舗、海外13店舗を構えている。
主な業態 「まる玉」
企業HP http://www.ma-rutama.com/

100年目の生徒会長。

「商売上手な人だった」と工藤氏は、父のことをそう表現する。工藤氏の父親は、埼玉県鳩ケ谷市(現、川口市)で有名な靴店の店主だった。
「一部上場企業の創業者も来られたし、ジャイアント馬場さんやアントニオ猪木さんも来られたことがありました。父は、腕はともかく、人あたりがよかったんです(笑)」。
もっとも、客に見せる顔と、家族に見せる顔は違っていたようだ。工藤氏は、父親を「好きじゃない」と言う。
工藤氏が生まれたのは1960年4月2日、昭和35年である。生まれは、父の店があった鳩ケ谷市。「いまは川口市となっていますが、私が生まれた頃の鳩ケ谷は、このあたりの中心街で、江戸時代から日光御成街道の宿場町として発展したそうなんです」。
「昔から人も多かったんでしょうね。私が卒業した鳩ケ谷小学校は、当時で、すでに100年の歴史があり、実は、私が100期目の生徒会長なんです」。
「子どもの頃から、目立つのも好きだし、役職に就くのが好きだった」と工藤氏。小学6年生時の身長は172センチ。役職うんぬんは関係なく、この体格だけで、十分目立った存在だったはずである。

172センチの小学生。中学で、バスケット部に入る。

背が高かったから、バスケ部に入ったわけではない。中学の部活の話である。
「最初は、水泳部がいいなと思っていたんです。でも、近くに住んでいる先輩に誘われたこともあって、結局、バスケ部に入部しました。当時、バスケには、先輩にキレイな人がたくさんいて。特に3人飛び抜けた人がいて参ってしまったんです。『こりゃ、水泳をやっている場合じゃない』って(笑)」。
特別な3人のそののちの話を聞いて驚いた。映画で主演女優を務めた人など、有名な女性ばかりだったからである。キレイな女性たちに惹かれるようにして始めたバスケットボールだったが、背が高かったこともあったのだろう、すぐに周囲から期待されるような活躍を開始。3年時には県大会にも出場している。
高校でも、バスケットボールを続けた。「明大中野高校」。当時、10年連続でインターハイに出場。全国制覇も1度果たしている。常にベスト4入りしていた名門である。
「たまたまです。セレクションを受けて通りました。全国からいい選手があつまってくる学校でしょ。刺激もあって、そう特に、顧問の先生からいろいろ教わりました。顧問の先生は、私の人生の師です。私のことは名前も覚えていらっしゃらないでしょうが、私は先生が言った言葉まで頭に残っています」。
練習方法も、かわっていたそうだ。「『人間、集中力は5分くらいしか持たない』って、練習も2時間くらいで終わりなんです。もっとも、先生を交えた練習は戦術的なことで、コミュニケーションの取り方などが基本。だから、生徒たちは、全体練習後も残って自分たちで基礎練習を行うんです。この自主性も強豪だった理由の一つかもしれません」。

借金3000万円。「高校を辞めてくれ」、母の一言。

「バスケをやっていなかったら、高校を中退していたかもしれない」と工藤氏は、漏らした。
高校1年の時のことである。
「実家が火事をだして、となりの家にも火が移ってしまったんです。それで、当時のお金で3000万円の借金ができてしまいました。母親から『学校を辞めてくれ』と言われたんですが、当時NTTに勤めていた姉が『高校だけは』といって、学費をだして卒業させてくれたんです」。
姉の心遣いとバスケットボール。高校に最後まで残ることができたのは、この2つの支えがあったからだろう。
しかし、当時のことを工藤氏はこうも言っている。「周りの奴らとは、ぜんぜん立場が違うわけですよ。だから、劣等感というかね。そういうことも感じていた。バスケが一つの救いになったのは、バスケの最中だけは、劣等感を感じずに済んだからかもしれません」。

夜の銀座と六本木と工藤氏。

高校3年、夏のインターハイが終わってから、工藤氏は人生初のバイトを開始。大学生になると知り合いの紹介で、銀座で住み込みのバイトも開始する。進んだ大学は、一般ではなく、夜学である。
「紹介で始めたのは、銀座の喫茶店のバイトです。店のビルの屋上にプレハブがあって、それを借りて暮らしていました。『傷だらけの天使』ってドラマがあったんですが、文字通り、あんな感じです(笑)」。
朝、住み込みの喫茶店で働いて、大学に行くといっては夕方からまた働き、「月に70万円くらい稼いでいた」という。
そののち、銀座、六本木が工藤氏のホームグラウンドになる。「私の人生にとって、銀座に出てきたというのは、大きな転機だと思うんです」と工藤氏。
周りの煌びやかさに照らされて、工藤氏の生活も派手になった。「3〜4ヵ月で300万円貯めては、パーッと使っちゃいました。大好きな子がいて、つぎ込んでいた時もあった。当時はバブルで、そういうお金をお金だと思わない空気だったんです。私もボーイとかをやっていたから、チップだけで30万円くらいもらっていました」。
羽振りも悪くない。だが、上には上がいる。銀座のクラブのナンバー1。その女性がいつのまにか、工藤氏の彼女になった。
「今で換算すると月に1000万円くらいだったと思いますよ。彼女の給料は。ヒモみたいな暮らしです。ある時、彼女が『将来、なにをしたいの?』って聞くから『飲食かな』っていうと、『私が教えてあげるって』言って」。
「なんだかんだ言っても、吉野家が旨いと思っていた年頃ですよ。でも、彼女に連れていかれたのは、目の玉が飛び出るような店ばかり。『これが、おいしい肉なんだよ』って。そりゃ、値段とおなじくらい驚きの旨さでした。そうやって少しずつ勉強していったんです」。
どうでもいい話だが、工藤氏は、その12歳年上の彼女と「結婚したい」と思っていたそうだ。しかし、彼女からこう言われた。
「あなたはもっと若い人と結婚したほうがいいわ」。
その言葉は、夜の街との別れを示唆していたのかもしれない。

「気取ってんじゃない」、母の一言。

25歳。すでにいろんな店を経験している。銀座の夜も、六本木の夜も。
「ある事件を起こしてしまって、それで、大人しく生きていこうと思って、いったん実家にもどり、総菜屋を始めたんです。フランス料理も学んだし、料理には自信もあったからです。生命保険を担保にお金を借りて、内装はできるだけ1人でやって。とりあえず私初のお店がスタートするんです」。
結婚もした。彼女も、バスケット選手だった。バスケットでつながる、そういう縁だった。店はどうだったんだろう?
「最初は、テリーヌとか、ね。そういうのを出していたんです。旨いはずなのに、ぜんぜんだめ。言っても埼玉の田舎でしょ。テリーヌっていっても、知らないですよ。『羊かん?』なんて言われたりして(笑)。その時ですね。母から『気取ってんじゃない』と怒られたのは。で、そりゃそうだと、『肉じゃが』とかですね。ポピュラーなものにすると、これが、おもしろいように売れていったんです」。
その様子を語ったあと、工藤氏は「悔しかったねぇ」と付け加える。粋で、気取った生き方まで否定されたようなものだったからだろう。しかし、工藤氏がどう思おうと、客は、次々やってきた。「もともと17坪と広かったんですね。で、惣菜だけじゃなく、弁当もつくりました。店先で、やきとりも焼いたりしてね」。
店は、軌道に乗る。
「軌道に乗ったのは嬉しいけれど、正直言うと、私はぜんぜんおもしろくなかった。だいたい飽き性だし。それで、店を弟にゆずってしまうんです。ちょうど仕事を探していたもんですから、『この店をやれ』と。それで、私は、フリーターです。1年間は、遊んだんじゃないかな。毎日、パチンコ三昧でした(笑)」。
よく奥さまも許されたもんだ。「そうですね。たぶん、私を信じてくれていたんでしょうね。で、さすがにそろそろ何かしなくては、と思って始めたのがラーメンなんです」。

ラーメン店、開業。しかし、初日のお客様2名。

最初は鶏ガラではなく、豚骨だったらしい。「臭くて、臭くて、苦情もきた」と工藤氏は、笑う。
「ブラブラしていた頃に思いついたのが、キヨスクに弁当を置いてもらうことだったんです。キヨスクっていうのは、数が多くて、川口、大宮間だけでも300〜400はあったんです。で、一つのキヨスクでたとえば3個、売れるとして。こりゃ凄いや、と」。
プレゼンには自信があったが、さすがに思い通りにはならなかった。
「その時、たまたま構内に店を持っている人がいて、ラーメン店を閉めようと思うから、そこで売ってみたらどうだって言われたんですね。でも、1店舗でしょ。計算が合わないし、それだったら、ラーメン店をやらせてくれと言ったんです」。
それで、苦情の話に戻る。「スープを工夫して、とりあえず店を開けたんですが、初日のお客様はたった2名です(笑)」。それにもめげずなんとか軌道に乗った頃、オーナーから「そろそろ出ていってくれ」と言われた。契約満了だったらしい。
それでも、まだラーメンは道半ばだと、ラーメン店を経営する会社に転職する。「そのお店で4年半、会社の売上も倍にして独立。そして、『らーめんまる玉』をオープンし、新たに挑戦を開始したんです」。

新たな挑戦。世界基準づくり。

HPには、次のように記されている。
「2001年4月1日、埼玉の川口市、夫婦2人で6坪の店を開店。くしくも社長39歳最後の日」。4月2日が、工藤氏の誕生日だから、4月1日が最後の日となる。
「うちのらーめんは、海外を意識してつくったスープが決め手なんです」。
「鶏白湯」。ためしに口コミのグルメサイトを覗いてみると、高得点をたたき出していた。日本でも、高く評価されている証拠だろう。しかし、旨いだけじゃない。文化や宗教の異なる海外でも、鶏ならたしかに問題がない。そういうことも考慮してあるスープである。
ともあれ、39歳最後の日に開業した「らーめんまる玉」は、その後、多くの人材を得て、いまや国内4店舗、海外は日本より多く13店舗(シンガポール4店舗、インドネシア5店舗、マレーシア3店舗、カナダ1店舗)展開するに至っている。
直営は、日本を含め、1店舗しかない。
「店を譲るというかね。そういうカタチで若い子を応援したいと今は思っているんです。だから、直営は一つで、うちから育った子らに店を渡していく。海外もおなじです。もっとも、独資とはいかない国もあるので、その国に合わせていますが、私が、まず店に入り、スープの取り方から教えるのは、どの国でもいっしょです」。
「しかも、うちはすべて現地で調達できる食材を利用しています。法外な値段を取らないで済むように、です。ラーメン一杯が、ウン千円なんていうのもおかしくないですか。現地の人たちのソウルフードになるような、ね、そういう店をつくっていきたいんです。だから、うちの海外の店は、全員、向こうの人間で運営しています」。
現地のスタッフもすべて工藤氏が「指導、教育している」という。だから今も、海外を飛び回っているのだそうだ。
「向こうのスタッフに教えるのに、語学はどうするんですか?」とたずねると、「最悪、ボディーランゲージ」と言って笑う。
今後の目標も伺うと、「うちで働く子が全員、金持ちになること」と明言する。一杯のラーメンが、世界をつなぐ。大げさすぎるかもしれないが、少なくとも工藤氏と、海外の店で働きはじめた青年は、工藤氏のラーメンで出会い、向き合うことになる。
その出会いの一つひとつが未来につながっている。
そういう意味でも、工藤氏のラーメン間違いなく世界基準を満たしているといえるだろう。銀座の夜も、六本木の夜も、格好良く、自由奔放に生きた思い出の一つ。しかし、今の工藤氏は、あの頃より、間違いなくかがやいている。

思い出のアルバム
 

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