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第492回 PJ Partners Group Ltd CEO 高橋世輝氏
update 15/07/21
PJ Global Ltd.
高橋世輝氏
PJ Partners Group Ltd CEO 高橋世輝氏
生年月日 1962年7月27日
プロフィール 台湾高雄市出身。10歳で来日。高校卒業後、アメリカへ。留学生活を経て、モルガン・スタンレーのスタッフとして1986年に帰国。金融畑を歩んでいた高橋が飲食の戦士となるのは、「アロッサ」の開業から。以来、「飲食の国際化」を理念に掲げ、まい進している。
主な業態 「Arossa」「Salt」「WW」「Manuel」「Tucano's」
企業HP http://www.pj-partners.com/

台湾で生まれ、育った少年。名は「ゴ」と呼ばれていた。

小さな頃は「ゴ」と呼ばれていたそうだ。高橋の父は台湾人で、母は日本人。だが、母も台湾で生まれている。小さな頃、高橋が暮らしていたのは、台湾。「台湾では日本語はいっさい使わず、マンダリン語、北京語を使っていた」という。
日本に来たのは10歳の時。子どもだから生活にはすぐに慣れた。ただ、日本語はそう簡単にマスターできなかったそうだ。名前が「高橋世輝」と代わったのは、中学生の頃。当時は、陸上部に所属していた。高校は都内の城北高校に進学。米国への留学を決意したのは、この高校時代。英会話をマスターするため、「英会話教室」にも通いだした。準備、万端。大学進学時に、アメリカに向かった。

ワシントン大学からモルガン・スタンレーへ。

「私が最初に通ったのは、ミズーリ州にある『メルビルカレッジ』です。こちらで2年間過ごし、奨学金が下りたので、3年目にワシントン大学セントルイス校に転校しました」。
ワシントンと名はついているが、ワシントン大学もミズーリ州にある。全米の大学のなかでもトップクラスの大学であり、「中西部のハーバード」と言われている大学である。
「アメリカというのは、私に大きな影響を与えてくれた国です。他人に流されず、すべて自分で決める。こういう習慣が身に付いたのもアメリカで暮らしたからです。大学卒業後もアメリカで暮らすつもりだったんですが、就職することになったモルガン・スタンレーが当時、日本に進出していて、『トウキョー』に行ってくれないかと言われて。それで帰国。1986年のことでした」。
1986年。ご想像通り高橋を待っていたのはバブルに突入した日本である。

香港では、アジアの海運王『包玉剛』の関連会社に就職する。

高橋が担当していたのは、債権営業というカテゴリーらしい。モルガン・スタンレーでは、計7年間勤務している。転機は、香港で観た風景だった。「当時、香港は返還前です。活気に溢れていて、私もすっかり魅了されてしまいました」。
アジアで仕事がしたいと高橋は思うようになる。一度、思えば突っ走るのが、高橋流。
「大学の先輩が香港の大財閥の関係者で、『資産管理会社があるから、そちらで勤務しないか』と言われました。その会社は、アジアの海運王『包玉剛』に関係していました。その会社では、1992年〜1995年まで勤務しました。父が急に他界し、それをきっかけに帰国。父の会社は妹が継ぐことになりましたが、私はそのまま日本で暮らすことしました」。

オージーワインの店。

高橋は、帰国後、定職を持たず金融やベンチャー企業などを経営する友人の仕事を手伝ったりしていたそうだ。「これだ」という仕事に巡り合えなかったとも言えるし、手伝っているだけでも十分な収入が得られたからだとも言える。そんな時、行きつけのバーが、クローズするという話を聞いた。「ロック125」という店だった。
「この店は、当時めずらしいオージーワインを揃えたリーズナブルな店でした。流行ってもいたんですが、ビルの建て替えでクローズすることになったというんです。それで、もったいないなと思って、店長に独立を勧めたんです。独立の資金は、私が出資しました。元の店のオーナーにも独立の許可をいただき、彼を店長に『アロッサ渋谷』の営業を開始したんです」。15年前の話である。

飲食の経験がない自分にできること。

「国際化」が遅れている。「飲食」という舞台に立った高橋は率直にそう思ったそうだ。当時、オーストラリアワイン、いわゆるオージーワインがまだ珍しかったのも国際化の遅れを示す一例にほかならなかった。ワインに対しても高橋らしい考えがあった。
「アロッサでは、ワインが先で、次に料理を考えました。フツーと逆です。でも、こういう発想も大事なんだということを示したかったんです」。
高橋はむろん料理人でも何でもない。多少、グルメというくらいだ。しかし、海外と日本で暮らし、金融というスマートでシビアな世界で生きてきた高橋には、ビジネスに対する抜群の嗅覚がある。「飲食の国際化」。一つのキーワードが、高橋のなかで大きくなっていった。飲食の経験がない自分にできること。それは「飲食」をビジネスと捉え、大局的に観ることだったのかもしれない。

アロッサから始まった高橋の飲食人生。

高橋が、二足の草鞋を脱ぎ捨て飲食1本にかけるのは、3号店目を出店してからだ。ようやく飲食だけでも食べていけるという自信が生まれたからだろう。「アロッサ」の次には、「マヌエル」を出店した。マカオで出会った「ポルトガル料理」の店である。
「以前からポルトガル料理に興味を持っていたんです。調べてみると、日本には一軒もなかった。だったらやってみようって、アロッサの目の前に出店します。『マヌエル』という店名です」。
「ポルトガル料理って、みなさんあまりご存知ないと思うんです。でも、鉄砲を伝えたのは、どこの国か知っているでしょ。そう、ポルトガル。その時、鉄砲だけじゃなく、料理も伝わるんです。カステラでしょ。南蛮漬け、天ぷら、コロッケなんかも全部、ポルトガルから伝わったんです。だからでしょうね。ポルトガル料理は、私たち日本人にとって親和性がある料理なんです」。

海外から日本へ、日本から海外へ。国際化は、交流からスタートする。

「アロッサも、マヌエルもヒットしました。『マヌエル』に関して、ポルトガル大使館から『近くにも作ってほしい』と要請があり、四ツ谷にも店を出店しました。そこでは「ファド」というライブが聴けます。その後、ブラジルの関係者とも知り合うことになり、『トゥッカーノ』をオープンしました。シュラスコブームはもうなくなっていましたが、もう一度、シュラスコというのも悪くないなと思って。『Salt』に関しては、三菱地所側から話があり、ルークマンガン氏とコラボする形で出店を決めました。ルークマンガン氏を説得するためにシドニーまで飛んでいきました。いまですか、今はアメリカへの出店を考えています。実は、ハワイに出店したトンカツ店が海外第一号店なんです。この店は、銀座の「梅林」というお店と提携して出店しました。見込み通りヒットしています」。
アメリカ本土への殴り込みは、昨年9月、デンバーへの出店で果たしている。シンガポールにも出店した。リーマンショック後には、アジア出店のためにシンガポールに拠点を移し、2014年には持株会社もシンガポールに設立した。いまや海外が、高橋の舞台になっている。むろん、「飲食の戦士」として。
高橋がいう「飲食の国際化」。たしかに、進んでいるようで、まだまだ一部に過ぎない気がする。海外で暮らす日本人がまだまだ少ない、という背景があるのかもしれない。しかし、この流れは確実に大きなうねりとなり、次世代に引き継がれていくのはまちがいないことだ。
その流れを更に加速させようと、高橋は狙っているのかもしれない。
2015年にはハワイのワイキキ・ショッピング・プラザ内に、日本の食文化を代表する名店街を集め、昔ながらの横丁と合わせた「WAIKIKI YOKOCHO」プロジェクトをスタート。2016年の開業を目指し、今後はこのプロジェクトに注力していく、とのことだ。
高橋の手によって、世界はさらに狭くなる。

思い出のアルバム
 

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