株式会社GREAT SMILE 代表取締役 牟田伸吾氏 | |
生年月日 | 1981年8月19日 |
プロフィール | 大阪市堺市出身。幼稚園の先生になりたくて、という心優しき牟田伸吾。大学卒業後、老人ホームに就職。しかし、理事長とそりが合わず半年で退職。営業に転身し、好成績を残す。その営業時代、好んで食べていたラーメンに興味がわき、好奇心だけでラーメンの世界に飛び込んだ。縁あって、ラーメン「凪」で修業を重ね、独立。国分寺市、駅前。7坪の小さな店舗を皮切りに、牟田の飲食の戦士としての人生はスタートする。店舗のコンセプトは「おもちゃ箱」。 |
主な業態 | 「中華そば ムタヒロ」「鶏そば ムタヒロ」「まぜまぜ ムタヒロ」「串あげ ムタヒロ」 |
企業HP | http://mutahiro.com/ |
「空手は幼稚園からはじめて中学3年生まで。ラグビーは小学3年生から高校まで続けました」。目立ちたがり屋のお調子者だったと、牟田は子どもの頃をふり返る。
人気もあって生徒会にも名を連ねた。「どちらかと言えば、ムードメーカーですね」と牟田。高校は、ラグビーの強豪校に進学。ベスト8まで進んだ経験もあるチームだった。そのチームのなかでも、ムードメーカー的な存在だったそう。
「小さい頃からスポーツをやっていますが、高校のラグビーはきつかったですね。『辞める』というのがスキじゃなかったから続けているようなもんでした(笑)」。
牟田の父は、刑務官をされていた。厳しい父だったそうである。小さな頃からスポーツで精神を鍛えられ、父からもまたつよい心を育まれた。そういう精神や心がなければ、とっくに辞める選択をしていたかもしれない。
もっともムードメーカーが逃げ出すわけにもいかなかったのかもしれないが。ともかく、スポーツ漬け。それが、牟田の少年期である。
大きな体格をした「やさしくて、ちからもち」。そういう表現がぴったりの少年だったに違いない。
「幼稚園の先生になりたかった」と牟田は笑う。子ども好きが、その理由。高校3年の時に思いは膨らみ、保育士の資格が取得できる短大へと進学した。
「父が公務員だったもんですから、私にもそういう道を進ませたかったようです。でも、私は同じ公務員でも、父とは異なることがしたかったので、幼稚園の先生はちょうどいい目標となりました」。
ただし、短大に進学した牟田は、目標はひとまず置いて、バイトに明け暮れるようになる。
「飲食のバイトが大半です。料理を作るのが楽しくって。バイトを掛け持ちしていた時もあるんです」。
短大卒業後は、子どもたちの先生にはならず、年配の人たちをサポートする仕事に就いた。
「老人ホームです。でも、在籍したのは1年足らずです。理事長と反りが合わず、退職してしまいます。それから大阪の堺市で建築リフォームの営業をしていました。この会社で4年ほど勤務しました。東京支社ができたのが、きっかけで私も東京に移りました。24歳で退職した後は、マンションの営業を1年ちかく経験しています」。
1年ちかくと言えば、もう25歳である。飲食や独立というワードはいつ頃から出てくるのだろうか。新井ヒロとは、もうすでに出会っているはずだ。
一口に「飲食」といってもさまざまだ。和食の割烹からフレンチ。ハンバーガーもあれば、牛丼だってある。規模の大小もいうに及ばずだ。そのなかで比較的、独立のハードルが低いのがラーメン業態だろう。しかし、そのぶんライバル店も多い。激戦区も少なくない。都内となれば、どこもかしこも激戦区である。
やがて、牟田は国分寺で「中華そばムタヒロ」を立ち上げ、狼煙をあげるのだが、それはまだ少し先の話である。しかし、すでに26歳になっていた牟田が、どうして独立を果たせたのかを事前にお分かりいただきたくて、先を急いだ。つまり、ラーメン店でなければ、独立も難しかったと思うわけだ。そういう意味でも、ラーメン業態は入り口が広い。
もっとも、牟田に言わせれば「最初から独立という野望があったわけではない」となる。とにかく、営業時代に漠然と「飲食」という言葉が頭に浮かんだそうだ。
「営業していた頃、良くラーメンを食べていたんですね。時間もかからないし、値段も手頃。ちょうどいいんです。大好きだったし。で、そのうち、どんな風につくっているのか興味がわいてきたんです。それで『一度、オレもつくってみよう』みたいな好奇心だけで、この道に進みました。最初にはたらいたのは、立川にある鹿児島ラーメンのお店です」。
26歳。それまで営業数字を追いかけてきた人間が、好奇心だけでラーメンの世界に飛び込んだ。目標は「ラーメンづくり」。それ以上でも、それ以下でもなかった。
「立川にできたラーメンスクエアに出店した店舗でした。まったくの素人だったわけですが、社会人経験が評価されたのでしょう。3ヵ月後には店長に抜擢されました」。
しかし、しばらくして、その店は撤退してしまう。牟田は落ち込むどころかこれ幸いだと思ったそうだ。
「その店では業務用のスープを使っていました。だから、店長といってもラーメンづくりのイロハがまったくわからない。フラストレーションもたまっていたわけです」。
そんな時の撤退。悪い話じゃなかった。
「私は、オリジナルなスープをつくりたかったんですね。で、撤退とともに会社を辞めて、たまたま隣にあった『凪』に駆け込んだんです。『ラーメンをつくりたいから修業させてください』って」。
ラーメン「凪」。いうまでもなく行列必至の名店である。「煮干しらーめん」の雄だ。「『凪』は私の原点」と牟田はいう。凪では<すごい煮干ラーメン凪 新宿ゴールデン街店本館>の立ち上げもかかわった。いい経験になった。
むろん社長の生田からは可愛がられた。
「凪に入れてもらった時も、独立という頭はなかったですね。でも、社長の生田さんが凄い人で、その生田さんに認めてもらいたいという一心で、頑張ることができたと思います」。
一杯のラーメンが人を結びつける。それは一杯のラーメンに店主の生き様が凝縮されているからだろう。
牟田が独立するのは、凪に入社して3年ほど経った頃だ。「凪」という舞台が、牟田に独立を決意させたのだろう。相棒のヒロといっしょに、わずかな資金を出資して、スナックの居抜き物件を手に入れた。
駅チカで、坪単価2万円強。7坪しかなかったから、家賃は14万円強である。「いまもそうですが、女性の方にも入りやすい店づくりを心がけました。子どもにも、受けるように。そうですね。おもちゃ箱という発想です」。
独立後、順調に店舗数も増やし、現在5店舗(うち1店舗は串揚げ店)のスケールにまで育っている。うち1店舗は親孝行もかね、大阪の福島に出店している。
おもちゃ箱という発想で、楽しんでもらおうという心意気は、さまざまな仕掛けにも表れている。「うちのラーメンを食べたら、ぜったいスープを全部飲まないと損ですよ。だって、丼に当たりがついているんです」と牟田は笑う。
あたりが出ればトッピングが無料となるそうだ。「食券機にも入れています。100枚〜150枚に1枚の割合で」。言っておくが、その日のトッピングが無料になるわけではない。一生だ。この思いきりの良さがいい。客の期待の上をいくからだ。
考えてみれば牟田の人生も「おもちゃ箱」のようだ。当時はどうか知らないが、いま振り返れば楽しさに溢れている。
味だけでも充分に勝負できるのに、こういうプラスαを提供しようと思うこと自体、牟田の性格を表している。
難しい顔をして、黙々とラーメンをつくる店主もいい。そういう無骨さも悪くはないが、牟田という楽しい店主もまた魅力的である。
「5年で10店舗。凪の生田さんもできなかったと言っていたんで、今はそれを目標にしています」と牟田。
こんなラーメン店なら、いくらでもできて欲しい。そう思わせてくれるから、「中華そばムタヒロ」は、やはり名店である。
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